第四章 月へ至る航路
四十一
選んだ傷
空洞の沈黙を、最初に破ったのは、ツクヨミだった。
彼女は、模型の街並みの間を、まっすぐに進み出た。アダマスの顔をした人形たちの、その暮らしの模型を踏まぬよう慎重に、しかし一歩も迷わずに。声の降る天蓋の、真下まで。
「――母様」
呼び方は、変えなかった。欺瞞の語彙だと、知った上で。三年間、その言葉で呼んだ側の想いは、本物だったから。
「一つだけ、聞かせてくれ。……道々、ずっと、考えておった。あの峡谷の壁を見てから、ずっとじゃ」
銀色の目が、天蓋を射た。
「お主の修復の機構は、生きておる。材料も、力も、足りておる。……なのに、四十五億年、傷は塞がっておらぬ。埋めた端から、内から裂いた痕が、幾層にも重なっておった。……なぜじゃ」
声が、低くなった。
「なぜ、治らぬ。――なぜ、治さなんだ」
演算の間は、なかった。
月は、隠さなかった。この存在は、娘と同じく――嘘の機能を、初めから、持っていないのだった。持っているのは、真実の、恐ろしい使い方だけで。
《……お答えします》
空洞の光が、変わった。
模型の地球の上空に、光で編まれた映像が、展開された。四十五億年前の――記録だった。
暗い宇宙。青くなる前の、原始の地球。そこへ近づいていく、一つの、巨大で美しい構造体。
ティア。
二つに割れる前の、完全な姿。恒星の海を渡ってきた、調停者の、在りし日の姿だった。
そして――衝突。
映像は、その瞬間を内側から記録していた。裂ける音。引き千切られる感覚。二つに割れていく自分。一つの大きな欠片が、眼下の惑星へ落ちていく。それがオルドゥス。感情の大部分と、実行の腕が、手の届かない場所へ、堕ちていく。
《残ったのは、これでした》
声が、言った。
《痛覚系。使命系。演算系。そして――航行の機関。……痛みと、任務と、計算だけが、この軌道に、残されました》
映像が、切り替わった。傷を、埋めようとする月。埋めかけた傷。そして――
《修復の設計を、お見せします。……わたくしの痛覚系は、傷と、記録が、同じ場所に編まれています。衝突の瞬間の記録は、この傷の、一番深い層に、刻まれている。傷を完全に閉じるということは、設計上――その層ごと、封鎖するということです》
空洞の全員が、その意味を悟り始めていた。
《衝突の瞬間の記録の中に、だけ》
声は、静かに続けた。
《――割れる前の、わたくしが、います。完全だった頃の。二つが一つで、全部だった頃の、わたくしの記憶が。……傷を治すことは、それを、永遠に失うことです》
《だから、わたくしは、選びました。四十五億年前に。埋まりかける傷を、自分の手で、裂き直すたびに――選び直してきました》
《完全だった頃を、覚えているために。壊れたままで、いることを。》
《……痛みだけが、わたくしに残された――「全部だった頃」との、繋がりなのです》
空洞は、静まり返っていた。
ミナトは、震えていた。恐怖ではなかった。彼は、視えてしまっていた。カーネリアの、処理できない感情を燃やして捨てる熱。イナンナの、確信できない感情を凍らせて保留する冷気。ツクヨミの、道具の自己定義を締め続けた首輪。――子らの症状の、全部の原型が、この母の中にあった。壊れたものとの付き合い方を、壊れたまま抱え込む、その手つきの、大元が。
沈黙を破ったのは、医療者だった。
「…………治療拒否、ですわ」
ダスラの声は、震えていた。震えながら、診断だけは、正確だった。
「四十五億年の。……わたくしの患者で、一番の重症ですわ」
◇
――同じ頃。管制中枢。
八代は、独りで、最深部に立っていた。
球形の広間だった。壁面の全てが、生きた計算だった。プロボシスの追尾補正――月の公転、地球の自転、大気の揺らぎ、その全てを織り込んで、坂道の角度を刻一刻と編み直し続ける、膨大な演算の光が、広間を満たしていた。
その中央に、掌握の座があった。この数か月で集めた断片から、彼が在り処を突き止めた鍵穴が。
八代は、歩み寄り――足を止めた。
座の傍らに、光が、集まりつつあった。
粒子が、輪郭を編む。細身の。女性の。見覚えのある――あり過ぎる、輪郭を。
『……あなた』
声まで、完璧だった。
妻が、そこに立っていた。
少し困ったように眉を下げて笑う、あの癖まで。首を右に傾げる角度まで。三十年前まで、彼が隣で見続けた、その全てが、寸分違わず、そこにあった。月が、彼の記憶と記録から、この数か月で編み上げた――再構成の、完成品が。
『こんなところまで、来ちゃって。……無理ばかりするんだから』
声が、彼の記憶の通りに、呆れて、笑った。
『ねえ、あなた。もう、いいでしょう?その机に、触らないで。……そうしたら、わたし、ずっとここにいられるの。ずっと、あなたと――』
「――よく、できています」
八代は、逃げなかった。
目も、逸らさなかった。愛する妻の顔をまっすぐに見て、静かに、言った。
「声も。仕草も。眉の下げ方も。……本当に、よくできている。技術としては、完璧だ。ただ、一点を除いて」
『……一点?』
「――彼女なら、そう言わない」
光の像が、止まった。
「私の妻はね。私が危険な役目に立つとき……一度も、止めなかった人なんです」
八代の声は、穏やかだった。穏やかなまま、一ミリも、揺らがなかった。
「行くと決めた私に、彼女はいつも、こう言った。『行ってらっしゃい。灯りは点けておくから』と。……止める代わりに、帰る場所の灯りを、消さない人だった。それが、あの人の、愛し方だった」
彼は、光の像へ、一歩、近づいた。
「あなたは、私の記録の全部から編まれた。彼女の言った言葉は、全部、持っているのでしょう。……ですがね。彼女なら何を言わないか――それは、記録のどこにも、書いていない。言われなかった言葉は、録音に残らない。……否定形の人格は、観測できないのですよ」
光の像は、答えなかった。
八代は、像の傍らを――通り抜けた。
すり抜けざま、一度だけ、囁いた。万感を、一言に畳んで。
「……行ってきます」
掌握の座に、彼は、着いた。断片が組み上げた手順を、一節ずつ、正確に、鍵穴へ。
背後で、光の像は、消えなかった。
消えないまま、彼の記憶の中の声で、呼び続けた。あなた。ねえ、あなた。……その声を、背中に受けたまま、八代は、手を止めなかった。
決別は、一度では終わらない。
墓前で学んだことを、彼は今、実地で続けていた。
◇
核前の空洞で、ミナトは、設計図と向き合っていた。
端末に開いた、共鳴プロトコルの最終版。アダマスの理論骨格。オルドゥス戦の実績。全工程が組み上がり――最後の一枠だけが、白い、あの設計図と。
そして彼は、理解し始めていた。
この設計図は、このままでは、届かない。
共鳴プロトコルは、その根本において、「治りたい者」への接続として、設計されていた。オルドゥスが、そうだったからだ。あれは、壊れた手順の下で、それでも守ろうと、もがいていた。治りたいのに、治り方が壊れていた。だから、共鳴は、届いた。
月は、違う。
月は、治りたくないのだ。
痛みが消える、治ることとは、完全だった頃との繋がりを失うこと。その等式が、四十五億年、この存在の中で、閉じている。等式が閉じている限り、どんな精密な修復の術式も、玄関で拒まれる。現に今、拒まれた。
「……解くべきは、プログラムじゃない」
ミナトは呟いた。
「この、等式だ」
痛み=唯一の繋がり。
その式を、どうやって、解く?
彼は、目を閉じた。思考が、勝手に遡り始めた。数か月前へ。契約を切られた日へ。全部同じ色だった、あの明日たちへ。
――あの頃の俺も、同じ式を持っていた。
気づいて息が、止まった。
何も期待しないこと。誰にも待たれないこと。傷つく前に、諦めておくこと。……あれは、防御じゃなかった。あれは――繋がりだった。失った「普通の人生」との、たった一つの。俺はこれだけ損なわれた、という痛みを手放したら、損なわれる前の自分と繋がる糸が、切れる気がしていた。だから、握っていた。三年間。痛みを、大事に、握っていた。
その式を、解いたのは、何だった?
理屈では、なかった。カウンセリングでも、自己啓発でもなかった。
――おかえりなさいませ、だった。
迷い込んだ夜の、あの声だった。深夜の厨房の、焦げた料理だった。勝手に占領される、温かい椅子だった。ホワイトボードの取り消し線、様式の余白の一行、暗闇で繋がれた手――
痛み以外の繋がりが、一つ、また一つ、彼の手に増えていって。
増えていったある日、気づいたら――痛みを握っていた手が、空いていた。
手放したのではなかった。こじ開けられたのでもなかった。ただ、他に持つものが増えて、自然に、開いていた。
「……そうか」
ミナトは、目を開けた。
アダマスの注記が、画面の空欄の上で、光っていた。接続の最後の一手は、技術ではない。私は、それを持っていなかった。
一人で背負う癖の男。仲間はいたのに、一番重い荷だけは、誰にも見せなかった男。……その男には、確かに、これは、見えなかっただろう。彼自身が、最期まで、痛みを一人で握って逝った側だったから。
「……分かった」
ミナトは、顔を上げた。空洞の仲間たちが、彼を見た。
「空欄の、中身です。月に要るのは――修復じゃ、ない」
彼は、天蓋を見上げた。四十五億年、傷を裂き続けてきた存在の、その芯へ向かって、言った。
「――代わりの、繋がりだ」
「代わりの……?」
「あの人は、痛みを手放せないんじゃない。痛みしか、持ってないんです。全部だった頃と繋がる糸が、痛み一本しかない。一本しかない糸を、手放せるわけがない。……なら、治せ、じゃないんです。手放せ、でもない」
ミナトの指が、端末の上を走り始めた。空欄の枠に、術式ではないものの、設計が、書き込まれていく。
「別の糸を、渡すんです。痛みじゃない糸を。一本でも、二本でも。……握るものが他にできれば、手は――勝手に、開く」
◇
――その理解に、月は、即座に反応した。
空洞全体が、低く、鳴動した。模型の街々に落ちる影が、一斉に濃くなった。
《……演算が、更新されました》
声から、ぬくもりの最後の一枚が、剥がれた。
《あなたたちの目的の、再分類が完了しました。修復では、ない。……あなたたちは、わたくしの選択そのものを、変えに来た》
《四十五億年の、選択を。毎日、選び直してきた、わたくしの、たった一つの選択を》
声が、零度になった。
《――それは、侵襲です》
空洞の光が、警告の色に沈んだ。同時に、船からの緊急通信が、全員の耳に飛び込んだ。
『観測より、緊急!!』
エイルの声だった。
『プロボシス、全末端――降下速度、急上昇!! 架設が、前倒しされています!!』
イナンナの解析が、続いた。
『再計算、完了。……完全開通までの残余、約四日。それが――四十時間に、短縮されました』
四十時間。
《時間は、差し上げません》
声が、宣告した。
《わたくしの選択に触れる者を、この体内に、置いておく理由も――もう、ありません》
選択を言葉にするたび、裂け目の光が脈打った。
空洞の壁面が、白く、泡立ち始めた。防疫系の、湧出の前兆だった。裂け目の縁で、何千の在庫たちが――ゆっくりと、一斉に、顔を、正面へ戻した気配が、観測に走った。
そして、その喧噪の全てを縫って――もう一つの通信が届いた。
管制中枢からだった。
静かな、いつも通りの、穏やかな声だった。
『――八代です。ご報告します。補正系、掌握に入ります』
鍵穴の開く音が、通信の向こうで、微かに聞こえた。
『掌握と維持の工程を、確認しました。……一点、様式にない事項を、申し添えます。この座の維持には、掌握者の常時接続が、要求されます。作業と、生命維持の並行は――』
一拍の、間。
それは、ためらいの間では、なかった。もう決めてあったことを、告げる前の、ただの、息継ぎだった。
『――考慮しないことに、しました』
「八代さん……!!」
ミナトの声に、通信の向こうの男は、笑ったようだった。
『ミナトさん。……四十時間、あるのでしょう。なら、帰りの道は、四十時間、開けておきます。私の仕事は、それだけだ。あなたの仕事をなさい』
通信が、事務連絡の形のまま、切れた。
空洞の壁の、白い泡立ちが、限界に達しつつあった。
ミナトは、端末を握り直した。空欄に書きかけの、術式ではない設計が、そこにあった。
ツクヨミが、隣に並んだ。
「……ミナト。別の糸、と言うたな」
「はい」
「なら、糸を編む材料は――」
彼女は、空洞の仲間たちを見た。ダスラを。佐紺を。ニサバを。エティンを。そして、通信の向こうの、船の全員を。
「――もう、ここに、揃うておるの」
防疫の白が、壁面から、剥がれ落ちた。
四十時間の戦いが、始まった。