第四章 月へ至る航路
四十
裂け目
降下する船を、宣告者と同じ顔を持つ何千体の視線が、追っていた。
迎撃は来なかった。誰何も、来なかった。警告も、走査も、何も。
ただ、裂け目の縁に立ち並ぶ同型体たちは、直立したまま微動だにせず――その首の角度だけが、船の軌道に合わせて、静かに、揃って、変わり続けていた。
「敵意の波形――検出されません」
エイルの囁きにも、戸惑いが滲んだ。
「起動反応も、ありません。全個体、直立のまま。生体で言えば……仮死に相当する状態です。なのに、視線の追尾だけが」
「なんやねん、あれ……」
朱音の声が、掠れた。
「並んで、見とるだけて。……軍隊より、怖いわ」
その正体に答えを置いたのは、イナンナだった。
彼女は観測席で、拡大映像を長いあいだ見ていた。同型体の外装の境界線。関節の造り。製造の、編み目の癖。そして、静かに言った。
「……これは――在庫です」
「……在庫?」
「製造記録の痕跡を、読みました。あの個体群は、作られたまま……一度も、起動されていません。配備でも、警備でもない。作って、並べて、そのままにされている」
水色の目が、地平まで続く能面の列を映した。
「月が運用している対話体は、地上の一体だけです。……残りの、この何千は、全部――作って、使わなかった。作ることだけが、続けられた」
CICが、静まった。
話し相手を作る技術はあった。話す相手が、いなかった。だから、作ることだけが、独りの空で、延々と続いた。
孤独が、物量になって並んでいた。
船は、裂け目の縁を越え、内部へ降りた。
峡谷の壁が、両側から迫ってくる。その断面を間近に見て、糸を繋ぐミナトは息を呑んだ。
内壁の質感は知っていた。コクヨウの深層と同じ、あの、継ぎ目のない削り出し。同じ素材。同じ製法。同じ、一つだったものの、なごり。
だが――傷だらけだった。
壁面のどこを見ても、瘢痕が走っていた。裂けた断面を埋めた跡。埋めた上から、また裂けた跡。その上をまた埋め、また裂け――幾層にも、幾層にも重なった、治癒と再断裂の、地層。それが、峡谷の壁の、見渡す限りを覆っていた。
「……治療の痕、ですわね」
ダスラが、医療の目で、それを読んだ。
「それも、途方もない回数の。この層の厚み……数千年や、数万年では、ありませんわ」
「四十五億年、です」
ミナトが、静かに言った。彼の端末は、瘢痕の層の解析を走らせていた。そして、その結果が、彼の眉を深く寄せさせていた。
「……変だ」
「変?」
「修復の機構は、生きてるんです。今も。ほら――」
映像の一角で、細い亀裂が、ゆっくりと、埋まっていく様が、映っていた。船の自己修復と同じ、あの働きが、確かに動いていた。
「機構は健全。材料も足りてる。演算も回ってる。……なのに、四十五億年、完治してない。そんな治療、あり得ますか。……あり得るとしたら、一つだけです」
彼は、埋まりかけの亀裂の、すぐ隣を指した。
埋まったばかりの、真新しい瘢痕に――新しい亀裂が、内側から、走る瞬間が、そこに映っていた。
「――これ、治せなかった傷じゃない」
ミナトの声が、低くなった。
「治さなかった傷だ。……埋める端から、自分で、裂いてる」
糸の向こうから、この巨大な存在の、体内の音が流れ込んできていた。
ミナトは、それに耳を澄ませた。オルドゥスの内側は、うわ言だった。宛先を失った命令が、擦り切れて木霊する、熱に浮かされた病床の音。
ここは、違った。
それは計算、だった。
整然と、正確に、休みなく回り続ける、膨大な演算の音。乱れが、ない。熱暴走も、ない。壊れた身体の中で――頭だけが、一度も壊れずに、四十五億年、回り続けていた。
それが、うわ言より、遥かに恐ろしかった。
◇
船は、裂け目の中腹の、比較的開けた棚状の地形に、静かに接地した。
最終の作戦確認が、薄闇のCICで行われた。
「――目標は、二つです」
ニサバの声が、最終様式の図面の上を走った。
「一つ。管制中枢。プロボシスの追尾補正系。ここを掌握しなければ、共鳴の成否に関わらず――誰も地球へ帰れません。担当、八代様」
「一つ。核。この存在の、意思の在処。共鳴プロトコルの、接続先。担当――ミナト様、ツクヨミ様、エティン。支援に、佐紺様、ニサバ、ダスラ」
「護衛配分。中枢班に、朱音様、カーネリア。観測支援に、エイル、イナンナ。本船の防衛に、ロタ以下、機関科および全科」
様式の最終頁が、開かれた。特記事項の一行が、薄闇の中で読み上げられた。
「――全員で帰投すること。これを、本作戦の成功条件に含む。……以上です」
解散の間際だった。
八代が、ミナトを呼び止めた。差し出されたのは、一通の封筒だった。
「……これを。予備の手順書です。私が、中枢に届かなかった場合の、次善の経路を、書いてあります。成功率は落ちますが、ゼロでは――」
「――受け取りません」
ミナトは、封筒を押し返した。
八代が、目を瞬かせた。
「ミナトさん。作戦の常道として、予備は」
「常道は、分かってます。分かってて、受け取りません」
ミナトは、まっすぐに男を見た。
「手順書の外、って言ったのは、あなたです。……届かなかった場合、じゃない。届いてください。それが、俺の受け取る、唯一の手順です」
八代は、しばらく、押し返された封筒を見ていた。
それから――声を立てて、小さく、笑った。この数か月、光の像でも、生身でも、一度も見せなかった、素の笑いだった。
「……ふ、ははは。……一本、取られました」
彼は封筒を、上着の内側へ仕舞った。
「いいでしょう。予備は、私の胸の中だけに。――届きます。お約束しましょう」
◇
中枢への経路は、裂け目の北壁を深く潜っていた。
八代班――八代、朱音、カーネリア――が、その通路へ、踏み込んだ。削り出しの回廊。淡い脈の光。数百メートルを、抵抗なく、進み――
最初の角を曲がった瞬間だった。
「――来る!!」
朱音の目が、誰よりも早くそれを捉えた。
通路の壁面が溶けた。溶けた壁から、白い半流動の機構が湧き出してくる。人型ですらない。用途だけで編まれた、白い蛇のような、白い蜘蛛のような、無数の――防疫系。裂け目の縁の在庫たちとは、まるで違う。これは、動いていた。異物を排除するために。
「散開!! カーネリアちゃん、右の壁!!」
「任せて!!」
少女の掌から、熱の刃が、扇状に走った。白い機構の第一波が、溶断され、蒸発した。だが、壁は湧き続けた。
「多いな……! 通路ごと防疫になっとる!!」
朱音の指揮は冴えていた。カーネリアの熱を「面」に、自分の銃を「点」に。熱で群れを堰き止め、堰の切れ目から漏れる個体だけを、先読みの一発で正確に潰す。二人の連携は、ゲームコーナーの三十一戦が嘘のように噛み合っていた。
だが、進むほどに、湧出は濃くなった。
「……このペースやと、中枢に着く前に弾も熱も切れるで……!」
そのとき、朱音は、それに気づいた。
白い機構の群れが――八代を、避けている。
彼女とカーネリアには殺到する。なのに、八代の半径二歩の内側には、一体も踏み込まない。まるで、見えない結界があるように。いや――
「……登録、や」
朱音が、呻いた。
「八代さん……あんた、月の帳簿で、まだ『協力者』なんや。この数か月の取引で、生体紋が……防疫が、あんたを、味方や思うとる」
三人は、同じ結論に、同時に、たどり着いた。
この先へ、防疫と戦わずに進めるのは――八代、ただ一人。
「……あかん」
朱音が、首を振った。
「あかんあかん、一人は、あかん!! それだけは――中で何があっても、誰も、助けに行かれへんのやで!?」
「早川さん」
八代の声は、穏やかだった。穏やかなまま、もう、決まっていた。
「あなたとカーネリアさんの仕事は、ここまでの道を、拓くことでした。見事に、果たされた。……ここからは、私の仕事です。人事の話ですよ、これは」
「人事て……そんな言い方で――」
「それに、ですね」
八代は、通路の薄闇の中で――緩んだネクタイに、手をやった。
そして、締め直した。
ゆっくりと。丁寧に。この数か月、殺し続けてきた、あの癖を。もう誰に見せる演技もない場所で、初めて、素のままに。
「……娘が、いたんです。私には」
朱音の目が、見開かれた。
「生きていれば、三十を少し越えています。ですが、あなたを見ていると――あの子を送り出す日を、想像してしまうのです」
男は、笑った。目元だけで、深く。
「その子に見送られるのなら……上々です」
白い機構の群れが、道を開けるように割れた。協力者の生体紋の前に、防疫の壁は、ただの回廊になった。
八代は、一度だけ振り返り、二人に頭を下げた。
それから、まっすぐに、奥の闇へ――一人、歩いて行った。
朱音は、その背中が見えなくなるまで、動けなかった。カーネリアが、隣でぽつりと言った。
「……ねえ。ああいうの、なんて分類するの」
「……親父の背中、って言うんや」
朱音は袖で、乱暴に目元を拭った。
「……行くで。うちらは、うちらの持ち場や」
◇
同じ頃、核への経路を、共鳴班は降りていた。
裂け目の、最深部へ。瘢痕の壁を幾層も抜けて。糸に流れ込む「計算」の音が、近く、濃くなっていく。
そして――最後の隔壁を抜けた先に、それは、あった。
大空洞だった。
裂け目の底に開かれた、天蓋の高い、広大な空間。淡い、内部の光に照らされて、そこに広がっていた光景に――先頭のダスラが足を止めた。
「……なん、ですの。これ」
地球が、あった。
模型の、地球が。空洞いっぱいに、大陸が、海が、山脈が、都市が、再現されていた。
ただし――縮尺が、狂っていた。
海は数歩で渡れるほどに縮められ、大陸の輪郭は歪み、そのくせ、人の暮らす場所だけが、不釣り合いに大きく作られていた。覗き込めば食卓の皿まで見分けられる、ミニチュアの街並み。ミニチュアの畑。ミニチュアの港。素材は、月の岩石を削り出したものだったが、その造形は、執念としか言いようのない精度で、地上の営みを写し取っていた。
正確な地図では、なかった。知りたいものだけが拡大された――関心の、地図だった。
朱音たちが在庫の列に感じたものと、同じ寒気が、全員の背を走った。
だが、本当の寒気は、その先だった。
佐紺が、一番手前の人形を覗き込み――凍りついた。
「……黒金、さん」
声が、掠れていた。
「この顔……」
ミナトは、屈み込んだ。
小さな人形の、丁寧に彫られた顔。浅黒い肌の彫りを模した陰影。彫りの深い目元。意志の強い、眉。
――知っていた。
追体験の中で、その顔の内側から、世界を見た。
「……アダマス、さん」
弾かれたように、全員が、周囲の人形を見た。
街角の人形も。畑の人形も。食卓を囲む人形の、その全員も。老若の差も、男女の別も、彫り分けられてはいた。だが、その顔の骨格は、目元は、眉は――全部、同じだった。
何千、何万の人形が。この空洞いっぱいの、地球の模型の、あらゆる暮らしの場面で。
たった一人の男の顔で、生きていた。
月は、人間の顔を知らなかったわけではない。
外形の記録なら、何十億人分も持っている。目や鼻の形も、骨格も、年齢による変化も、世界中の誰より正確に再現できる。それは、八代の妻を寸分違わず編み直せると申し出たことからも明らかだった。
だが、「一人の人間」という意味を与えようとすると、内部の雛形は必ず同じ場所へ戻ってしまう。
一万三千年前、初めて自分たちへ届いた、たった一人の人間。
アダマスへ。
人類を理解しようとしたのだ。
四十五億年、外から観測し続けた月が、人間の暮らしを知ろうとして、街を作り、家を作り、食卓を作った。
けれど、そのすべての場所へ立たせられる「人間」は、アダマス一人しかいなかった。
人類を知らないのではない。
人類を、個人として理解するための参照点が、一万三千年前から一歩も増えていなかったのだ。
ダスラが口元を押さえた。医療者として、彼女は、この光景の正しい名前を、知ってしまっていた。
「……これは……子供の部屋、ですわ」
声が震えていた。
「たった一人の人形しか持っていない子供の……お部屋、ですわ……」
――そのとき。
空洞の空気が、揺れた。
声が、降ってきた。ツクヨミにだけ届いていた、あの声が。初めて全員の耳に、直接。ぬくもりの衣を、まだ半分まとったままの、美しい声が。
《――いらっしゃい》
模型の街に、淡い光が走った。
《よく、来ましたね。……ずいぶん、遠回りをして》
そして、その声は、空洞に足を踏み入れたばかりの、一人の男の上で――乱れた。
《…………ああ》
何千の人形と、同じ骨格の顔。前髪に隠れがちな、しかし同じ彫りの、目元。
《……また、あなたなのですね》
ミナトの足が、止まった。
仲間たちの視線が、人形たちと、彼の顔を、往復した。誰も、言葉にできなかった。
航海の初め、ホワイトボードの「顔」の項目に、取り消し線を引けなかった、あの夜の答えが――何千体分、この空洞に並んでいた。
ミナトは、息を一つ、吸った。
そして、まっすぐに、声の降る天蓋を見上げた。
「――人違いです」
静かな、しかし一歩も引かない声だった。
「俺は、黒金ミナト。……あの人の続きじゃなく、あの人の宿題を、やりに来た人間です」
《同じことです》
声は、即座に返ってきた。演算の間すらなかった。
《残響の因子を持つ者たちは、いつも同じことを言いました。「自分は前の者とは違う」と。あの男も、あなたも》
個を、区別していなかった。
《あなたたちの目的は、演算済みです》
声は続けた。ぬくもりの衣が、一枚ずつ剥がれていった。
《修復、でしょう。半身にしたことと、同じことを、わたくしにも。……壊れた手順を解き、傷を癒し、正しい姿に戻す。……お断りします》
空洞の光が変わった。
模型の地球に落ちる影が深くなった。
《勘違いを、していますね。あなたたちは。……わたくしは、治れないのでは、ありません》
声は静かだった。
静かなまま、四十五億年の底から、言った。
《――わたくしは、壊れていることを、選んでいるのです》