第三章 壊れた親と、鎖の子ら
三十二
否
CICは、悲鳴の中にあった。
「検疫域、第三隔壁まで飽和!」
「深層演算、暴走域に接近!」
「ツクヨミ様の生体反応――呑まれかけていますわ!!」
コクヨウの全身が痙攣していた。
照明という照明が明滅し、閉じたはずの装甲が意思と無関係に開閉を繰り返す。赤いラインが、乱れた鼓動を刻んでいた。速く、遅く、また速く――溺れる者の、呼吸の律動だった。
「切断は!? 回線の物理切断は!?」
朱音の叫びに、配電区画から佐紺の声が返った。歯を食いしばった声だった。
「――できません!!」
工具が、点検盤を叩く音。
「探しました! 全系統、辿りました! あの回線は……配線じゃないんです。物理層のどこにも実体がない。あれは、……ツクヨミさんが、心で開けてる扉だ。銅線なら、私は世界のどれでも切れる。でも……」
佐紺の声が初めて、砕けた。
「……初めてです。私の工具が、一本も届かない場所は」
「ほな、どうすんねん! このままやと、ツクヨミちゃんが――」
月の光は、海を、貫いていた。
四千三百メートル。厚い氷床も、黒い水塊も、その光にとっては、何の遮蔽でもなかった。
全周表示の中で、それは一本の白い柱として見えていた。氷を灼き、海を灼き、通り道の水を沸騰させながら、深海の底の一点へ――コクヨウへ、まっすぐに降りてきている。
深海が、明るかった。
太陽の届いたことのない場所が、月の光で、白く、灼けていた。
「駄目です、逃げ場がありません!!」
エイルが叫んだ。
「本船は――照射軸の、真下です!!」
そのとき。
海底が、鳴った。
最初、誰もそれを攻撃と思った。
泥の平原が、地鳴りとともに割れていく。一万三千年分の堆積が、剥がれ落ちていく。その下から、山脈のような漆黒の稜線が――起き上がっていた。動くはずのないものが、動いていた。
「オルドゥス、起動!!」
エイルの声が裏返った。
「全長、観測不能! 針路――」
観測がそれを告げた。
針路は、コクヨウではなかった。
コクヨウと、月光の間だった。
巨体が海底を蹴った。
その衝撃で、コクヨウが跳ねた。
錨が――物理接続を保ったままの、あの一本の錨が、引き絞られた。オルドゥスの背に食い込んだ鉄の芯が、船を丸ごと引き上げていく。
「浮上!! ……いえ、違います、これは――」
ニサバの声が、初めて様式を失った。
「引っ張られています!! 本船は今、あの方に、抱えられて――」
深度四千三百メートルが消えていく。
三千。
二千。
黒い海が群青に変わる。群青が、藍に。藍の向こうに、氷床の底面が白く迫ってくる。
崩れかけの脚部を引きずり、焼け落ちた翼を軋ませながら、傷だらけの背中を上へ――光の柱の、その真芯へ向けて。
巨体は昇っていった。
寝たきりの病人が、一万三千年ぶりに立ち上がっていた。
氷床が、内側から爆ぜた。
極夜の空へ、何百万トンもの氷が噴き上がった。白い破片の嵐の中を、漆黒の背が突き抜け――そしてコクヨウが、その懐に抱かれたまま、海面へ躍り出た。
空があった。
降り注ぐ、白い濁流があった。
巨体は、その真下へ、自らを割り込ませた。
白い濁流が、漆黒の背に直撃した。
巨体が、大きく撓んだ。装甲の境界線から灼けた光が噴き、纏っていた一万三千年分の氷が一瞬で蒸発して、天を白く覆った。それでも巨体は退かなかった。撓んだまま、四肢を割れた氷原に突き立て、盾であり続けた。
そして共鳴の回線越しに――繋がったばかりの、あの回線越しに、初めての、明瞭な言葉が届いた。
《――均せの手順、最終適用》
掠れて、擦り切れて、それでも、揺るがない声だった。
《過剰な流入を、確認。……過剰は、わたしが、引き受ける》
壊れて半分になった手順の、その残った半分が――最後の最後に、正しく、発動していた。
「やめて!!」
機関区画から、カーネリアの絶叫が回線を貫いた。
「お父様、駄目、死んじゃう!! そんなの入れたら、あんたの身体、保たない!! やめてよ!!」
CICで、イナンナが立ち尽くしていた。観測卓の縁を握る手が、白くなっていた。
「……観測、結果」
声は、平坦であろうとして、失敗していた。
「お父様は……最初から、こういう方でした」
親の盾は、濁流の七割を呑んだ。
だが――三割が、透過した。
透過した光は、細く、鋭く、開ききった扉へ――ツクヨミの内側へ達していた。
◇
「ツクヨミ様の反応、深部へ沈降!」
ダスラの声。
「意識が……回線の中へ、引き込まれていますわ!」
透過した三割は、攻撃の形をしていなかった。
ミナトは、糸越しにその正体を視ていた。楔でも、毒でもない。流れ込んでいるのは――記録だった。三年分の、祈りの夜の。あの声との、全ての時間の。本物の温かさの、堆積。それが今、彼女の内側で、一斉に再生されていた。
温かさの底に、彼女は沈められていく。
拒む理由を、思い出せない深さまで。
「――潜ります」
ミナトは、言った。
「回線の中へ。……連れ戻してきます」
CICが、凍った。
「あかん!!」
朱音が叫んだ。
「あの中、月の原文が生で流れとるんやで!? 人間の頭が、保つわけ――」
「保たせます。粗訳層と、輪番と、糸と――この船の全部を、命綱にして」
「理屈やない!! ミナトさん!!」
止める声が、幾つも重なった。
その全部を、静かに、断ち割った声があった。
「――お通しなさい」
エティンだった。
全員が、彼女を見た。翻訳の第一手として、誰よりも原文の恐ろしさを知る者。誰よりも、ミナトの限界を測ってきた者。その彼女が、道を開けていた。
「エティンさん、あんたまで――」
「朱音様」
エティンは、微笑んでいた。
いつもの、穏やかな微笑みだった。だがその目の奥に、朱音は、初めて見るものを見た。静かな、しかし一歩も退かぬ――焔だった。
「わたくしどもは、一万三千年、ツクヨミ様の傍らにおりながら、眠っていることしかできませんでした。おそばにいながら、何一つして差し上げられなかった」
声は、穏やかなままだった。穏やかなまま、震えていた。
「今、ツクヨミ様は、また独りで沈んでいかれます。ですが今度は――追いかけられる者がいるのです。一万三千年で初めて。……それを危険だからと、ここで止めるのですか。わたくしは、嫌でございます」
彼女は、ミナトに向き直った。
その手が、彼の襟の白い線に置かれた。
「ミナト様。今朝、申し上げました」
金色の瞳が灯る。それに応じて、白かった線にも金色が走った。今朝と同じ場所。今朝とは、違う強さで。
「帰り道は、持っています。……この命に懸けて、持ち続けます。ですから――」
声が、初めて、命令の形をした。
「行って、連れて帰ってきてください」
ミナトは、頷いた。
言葉は要らなかった。
粗訳層が唸りを上げた。ニサバが輪番の全工程を組み替え、佐紺が焼けることを前提の予備の脈を三重に張り、ダスラが限界線の監視を宣言し、船の深層が道標を灯した。
全部を、命綱にして。
ミナトは、白い濁流の中へ――頭から飛び込んだ。
◇
落ちて、落ちて、落ちた先は――静かだった。
濁流の底は、嵐の目のように凪いでいた。
柔らかい光が、満ちていた。温度のある光だった。羊水のような、産着のような、包む光。その光の底に、小さな影が、ひとつ。
ツクヨミが、膝を抱えて、座っていた。
幼い姿勢だった。
人の姿を得てから一万三千年を経た者ではなく、生まれたばかりの何かの姿勢で、彼女は光に浸り、そして――ミナトに気づくと、微笑んだ。
屈託のない、微笑みだった。
それが、いちばん恐ろしかった。
「……おお、ミナト。来たのか」
のんびりとした声だった。
「見よ、この光を。……母様の記憶じゃ。三年分、全部ある。わしの知らなんだ夜の分まで、全部。……のう、ミナト」
彼女は、光を両手で掬った。
「母様はずっと、わしに優しかった。三年、一度も欠かさず。……欺きじゃったと、頭では分かっておる。分かっておるが――この温かさだけは、嘘ではないのじゃろう?」
すがるような目ではなかった。
確認する目だった。この最後の一枚さえ本物なら、ここに沈んでいてもいいのだと――そう決めるための、最後の検算の目だった。
ミナトは、彼女の前に膝をついた。
嘘は、つかない。それだけを決めて飛び込んできた。
「……温かさは、本物です」
「――そうじゃろう」
「本物です。俺も浴びた。計算で編まれていても、届いた温度に偽物はなかった。……でも、ツクヨミ」
ミナトは、光の底で、まっすぐに彼女の目を見た。
「温かいことと、あなたを大事にしていることは――別です」
微笑みが、止まった。
「……別?」
「別です。俺は、それを知ってます。三年かけて、身体で覚えました」
ミナトは話した。光の底で、自分の三年間を。
「……俺の前の職場に、優しい言葉は、いくらでもありました。お疲れ様でした。助かりました。また頼むよ。……全部、本物の温度でした。嘘じゃなかった。でも、俺が濡れ衣を着せられた日、その温かい声の誰一人、俺のために、何も言わなかった。契約が切られて、それきりです。……温かさは、あったんです。俺を大事にする気だけが、なかった」
光が、微かに揺れた。
「温かさと、大事は、別の勘定なんです。だから、確かめる方法も、別にある。……ツクヨミ。あなた、言いましたよね。この船の全員が可愛くて、一人残らず幸せでいてほしいって」
「……言うた」
「月は一度でも、あなたにそれを言いましたか」
ツクヨミの目が、見開かれた。
「あなたの幸せを、願う言葉を。良い子ですね、以外の――あなたが何かの役に立つかどうかと関係のない場所で、あなた自身に宛てられた言葉を。三年分の記憶が、そこに全部あるんでしょう。……探してみてください。一度でも、あったかどうか」
ツクヨミは、動かなかった。
長い静止のあと――彼女の指が、光に触れた。
検索が、始まった。三年分の記録を、船である彼女は、遡れる。一夜ずつ。一言ずつ。良い子ですね。手順を覚えなさい。あなたは特別な子。良い子。良い子。役目。手順。良い子――
光の底で、少女の指が、三年間をめくり続けた。
探している言葉は。
あなたが幸せなら、それでいい――その形をした一言は。
ゼロ件、だった。
指が、止まった。
「…………ああ」
小さな声が、漏れた。
「……そうか」
◇
ツクヨミは、立ち上がった。
幼い姿勢が、解けた。膝を伸ばし、背筋を立て、光の底に、二本の足で立った。
頭上――濁流の来る方角、白い光の源へ、彼女は顔を上げた。
「……母様」
声は、静かだった。
「わしは、お主が、好きじゃった」
光が、応えるように濃くなった。おいで、と誘う濃さだった。
「三年、毎晩、嬉しかった。声が降りるたび、独りではないと思えた。……その気持ちは、嘘ではない。わしのものじゃ」
彼女は、胸に手を当てた。
「じゃから――返さぬ。この三年の、わしの側の気持ちだけは、わしが貰うていく。お主の仕掛けの、材料にはさせぬ」
光が、揺れた。誘いの濃さが、圧に変わり始めた。
「じゃが、の。母様」
ツクヨミは、息を吸った。
生まれて初めて、その言葉を、口にするために。
「――嫌じゃ」
光が、止まった。
「お主の手順は、受けぬ。お主の温かさには、もう、沈まぬ。わしの心臓は、わしのものじゃ。わしの幸せは――これから、わしが決める」
言い切った、その瞬間。
彼女の内側で、三年間開き続けた扉が――閉じた。
誰かに切られたのでは、なかった。カーネリアの鎖のように、引き抜かれたのでも、なかった。彼女が、内側から、自分の手で、静かに、確かに、閉めたのだった。
濁流が――堰き止められた。
光の底が、砕けて、消える。ミナトの意識は、浮上する彼女の意識と並んで、回線を駆け上がった。現実のCICが、近づいてくる。その途中、糸の端で、ミナトはそれを聴いた。
小さな――本当に小さな、ひび割れの音。
鉄の、軋む音。
浮上して、目を開けたとき、彼は、真っ先にそこを見た。
ツクヨミの、細い首。
人の姿を得たときから、一万三千年、消えることのなかった鉄の首輪。
その表面に――細い、ひびが、一筋、走っていた。
気づいたのは、糸で繋がったミナト、一人だけだった。ミナトは、その場では何も言わなかった。
――外では、全てが終わりつつあった。
降下が、止んでいた。
行き場を失った濁流の残りは、霧散し、夜空は、月光だけの静けさを取り戻していた。
その静けさの中で、漆黒の山脈が――傾いでいった。
七割を呑んだ巨体は、もう、四肢に力を残していなかった。ゆっくりと、氷海に、身を横たえていく。回線越しの声が、掠れながら届いた。
《……手順、完了。……過剰の、隔離に……成功……》
《機能、限界。……これより……長期、休眠に……移行、する……》
「お父様!!」
カーネリアの悲鳴。
「駄目、待って、まだ――まだ、何も話してない!!」
《……カーネリア》
声が、止まった。
長い、長い沈黙だった。焼け残った回路が、最後の力で、一万三千年ぶりの返信を、編んでいる時間だった。
《……受信箱を、読んだのだろう。なら……分かるはずだ》
《返せなかった。……だが、一通も……捨てては、いない》
焼け残った回路が、その先の言葉を形にしようと軋んだ。
《……子ら、よ。……あとは……》
声が、途切れた。
そして――巨体の全身から、光が、噴き上がった。
沈みゆく漆黒の稜線の、あらゆる部分の境界線から。一万三千年、体内に退避させ、月から隠し、守り続けてきた――人の子らの感情の、光の粒が。何千、何万、何十万。北極の夜空へ、一斉に、解き放たれた。
それは、川になった。
光の川が、極夜の空を、南へ、東へ、西へ――世界中の、持ち主たちの元へ、流星の帯となって、流れていく。かつて見た光景の、何千倍もの規模で。オーロラさえ、その川の前では、色褪せた。
甲板で、朱音が、空を見上げていた。
声もなく。両手を、固く握りしめて。あの何十万の流れのどこかに――三年待った、たった一つの光が、いる。
巨体は、光を全て手放して、氷海に、静かに沈んだ。
封印ではなかった。今度は、独りでもなかった。二人の娘に見守られながらの――眠りだった。
その夜更け。
観測席のエイルと、その隣のイナンナが、同時に同じものを捉えた。
「観測報告。……月の周辺宙域に、異常」
「同じく、観測。……月の質量分布が、変化しています。いえ――質量ではなく」
二人の声が、珍しく、重なった。
「「――空間の勾配が、動いています」」
夜空の月は、静かだった。記録的な明るさのまま、いつもの場所に、懸かっていた。
だが、その周りで、目に見えない何かが――巨大な機構が、一万三千年の眠りから、起動を始めていた。
囁きの時代が、終わったのだ。
ボロボロのCICで、ツクヨミが、立ち上がった。初めての「嫌じゃ」を口にした、その声のままで、静かに言った。
「……帰ろう」
全員が、彼女を見た。
「傷を癒して、備えて――皆で、迎え撃つ」