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第四章 月へ至る航路

三十三

暖流

船は、南へ下っていた。

行き先は、決めていなかった。ニサバの航行計画書には、目的地の欄に、初めて「未定(暖海域にて修理と休養)」とだけ書かれていた。規定の人の書いた「未定」は、それだけで、少し可笑しかった。

北緯が下がるごとに、海の色が、還っていった。灰白が、鉛色に。鉛色が、群青に。三日目の朝、甲板に出た者たちは、久しぶりの、刺すところのない陽射しに、揃って目を細めた。

イナンナの乗船は、あっさりと決まった。

というより、決める前に、いた。父の眠りを見届けた白い少女は、帰投するコクヨウに当然のように同乗し、ニサバが特別客人受入様式・第二号を起案し終えたときには、もう観測席の隣に静かに立っていた。

「観測報告。……あなたの首の鎖が、消えています」

最初にそれを指摘したのは、隣の席のエイルだった。

イナンナは、自分の首元に手をやった。

鉄の首輪は、ある。だが、そこから北へ伸びていたはずの鎖が――いつの間にか、なかった。千切れたのでも、外されたのでもない。ただ、静かに、消えていた。

「……本当だ」

彼女は、数秒、演算した。

「喪失の瞬間を、特定できません。あの深海のどこかで……父の元を、自分の意思で離れた、どこかの時点で。……いつ消えたのか、観測し損ねました」

「観測の専門家が」

「はい。……自分のこととなると、観測は、粗くなるようです」

エイルは、少しだけ、間を置いて、言った。

「……観測記録。それは、わたしたちの側では――人間らしい、に分類されます」

それから、彼女は、卓上に海底図を呼び出した。北極点。四千三百メートルの底。泥に半ば埋もれて眠りについた、漆黒の巨影。

その傍らに、小さな光点が一つ、灯っていた。

「観測報告。もう一点。……あなたの本体が、まだ、あそこにあります」

「はい」

イナンナは、否定しなかった。

「置いてきました」

「回収は」

「しません」

水色の目が、海底図の一点を見た。

「お父様は、長い休眠に入りました。命令系統は焼け、防衛網も、わたしが自分の手でほどきました。……今のお父様は、無防備です。あの深さまで、月の光は届きました。ならば、いずれ、他の何かも届きます」

白い指が、巨影の隣の、小さな光点に触れた。

「ですから私は、本体をお父様の隣に置いてきました。観測と、防衛。……父の眠りを見張る者が、要ります。目を覚ますその日まで」

「……観測報告では、ありません。質問です」

エイルが、静かに言った。

「見張りだけなら、本体で足ります。任務は、成立しています。ですが、あなた自身が共にあれば、目も、耳も、精度はさらに数百倍のはずでした。……最適では、ありません。分かっていて、選んだのですか」

イナンナが答えるまでに、数秒がかかった。

演算の時間では、なかったように見えた。

「はい。……承知の上で、選びました」

彼女は、隣の椅子を、見た。

毎日の当直で、いつの間にか定位置になっていた、エイルの隣の席を。

「わたしは、この船で、皆の隣にいたいのです。……見張りの精度と、引き換えにしても」

「……この器でなければ」

彼女は、隣の椅子を、見た。

「隣に、座れませんので」

エイルは、何も言わなかった。

言わないまま、自分の椅子を、ほんの少しだけそちらへ寄せた。

その日の昼、八代からの臨時の報せが届いた。

定期の周期を外れた、緊急の一報。ラウンジに全員が集まり、光の男が立ち上がった。

珍しく、彼は、報告の順序を崩した。

『――前置きは、省きます。皆さんに、一刻も早くお伝えしたいことがあります』

光の男は、深く、息を吸った。

『三日前の夜、北の空から、光の流れが観測されました。世界中で、です。……そして同じ夜、各地の医療機関から、報告が相次ぎました。無感情症の患者の――一斉の、覚醒です』

ラウンジが、静まり返った。

『財団の確認できた範囲だけで、七千四百名超。今も、報告は増え続けています。……皆さんが、何を成されたのか。私には、想像することしかできません。ですが』

光の男は、頭を下げた。

『世界を代表する資格など、私にはありませんが――それでも、言わせてください。ありがとうございました』

顔を上げた八代は、手元の紙を、一枚、めくった。

『……最後に。個別の報告を、一件』

その声が、わずかに、和らいだ。

『療養七号施設、入所者名簿より。――早川氏、当夜未明、覚醒』

朱音の椅子が、音を立てた。

『意識、清明。身体機能、良好。そして……付き添いの看護師の記録によれば』

光の男は、そこで初めて、報告書から目を上げ、まっすぐに――まるでそこに彼女がいると知っているかのように、こちらを見た。

『第一声は、娘の名前でした』

朱音は、立ったまま、動かなかった。

一秒。二秒。

それから、膝から、崩れた。崩れる身体を、隣のダスラが、抱き留めた。三年分の音が、ラウンジに溢れた。数か月前、「含まれておりませんでした」と告げられた、同じ部屋で。少女は、ダスラの胸に顔を埋めて、声を上げて、泣いた。

その横で、おろおろと立ち尽くしている赤い髪がいた。

「え……ちょ、朱音? 泣い……なんで?嬉しいんでしょ? お父様……お父さん、目ぇ覚めたんでしょ?」

カーネリアは、本気で、分からないのだった。

「嬉しいのに、なんで……嬉しくても、出るの?それ」

「……出るんですのよ」

ダスラが、朱音の頭を撫でながら、静かに言った。

「嬉しさが、器から溢れたときも。……覚えておきなさいな。あなたにも、いつか、分かりますわ」

夕方、朱音は一人、録画装置の前に座った。

次の器に載せる、陸への便り。父に宛てた、三年ぶりの、最初の言葉。何度も撮り直して、結局、一番シンプルなものが、残った。

画面の中の少女は、泣き腫らした目のまま、精一杯、笑っていた。

『――お父さん。おかえり。……うちな』

深呼吸、一つ。

『うちな、めっちゃ強なったで。』

配属に先立って、二人の器は、ロタとダスラの合同検分を受けていた。

「――驚いたね」

機関長が、計器から顔を上げた。

「動力核が、完全に独立してる。本体からの供給線が、どこにもない。この小さな身体の中だけで、完結してるんだ」

「イナンナさんも、同じですわ」

ダスラが、検分表を繰った。

「本体は、北の海に置いたまま。それでこの子は、毎日、平然と観測席に座っておりますのよ。……つまり、この製法の器は――本体の傍にいなくとも、その人のままで、動ける、ということですわね」

検分表の結論欄に、二人分の「異常なし」が、並んで記された。

姉妹の配属は、自然に決まった。

イナンナは、観測班に。エイルの隣が、三日で、彼女の定位置になった。当直の観測席に、無言の青と、無言の白が並ぶ。会話は、ほとんどない。ないのに、二人の観測記録の精度は、単独時の倍になった。

ある夜の当直で、エイルが、ぽつりと言った。

「観測記録。……あなたが来てから、当直が、退屈ではない」

イナンナの演算は、数秒だった。

「……それは、わたしの収集した語彙では――友達、に分類されますか」

「………………」

エイルの沈黙も、数秒だった。

「……検証を、続けましょう」

「はい。継続観測が、必要です」

二人は、また、無言に戻った。無言のまま、どちらの口元も、ほんのわずか、緩んでいた。

カーネリアは、正式に機関科に組み込まれた。橙色の襟の水兵服が支給され――「似合わないし!」と言いながら三日目には着ていた――熱処理の班で、早くも欠かせない戦力になっていた。

ただ、二人が船内生活へ馴染むにあたり、セラフたちは新しい運用上の知恵を一つ得ることになった。

最初にカーネリアが大浴場へ入ったのは、乗船して四日目のことだった。

「なんで、あたしまで風呂に入らなきゃいけないの。汚れくらい自分で焼けるし」

「焼くという発想を、いったん捨ててくださいまし」

ダスラに背中を押され、朱音と一緒に湯船へ入った、その直後だった。

浴場の温度表示が、一度に二度上がった。

「……あれ?」

朱音が表示を見上げる。

さらに一度。

もう一度。

湯気が急に濃くなり、広い浴場の向こう側が白く霞み始めた。

「熱っ! ちょ、待って! 急に熱なってへん!?」

「知らないわよ! あたし、何もしてないし!」

カーネリアは湯船の中で両腕を上げた。確かに、意識して熱を放っている様子はない。

だが、彼女の身体から絶えず漏れる余熱が、そのまま浴槽の湯へ移っていた。船の温度調整機能が必死に冷却しているものの、熱を捨てる速度が追いついていない。

浴場を管理していたセラフたちは、短く顔を見合わせた。

一人が、何も言わずに脱衣所へ走っていく。

数分後。

「イナンナ様。よろしければ、ご一緒にご入浴なさいませんか」

妙に丁寧な誘いを受けたイナンナが、水色の髪をまとめながら入ってきた。

「……観測質問。姉様の入浴中に限って、わたしが強く推奨される理由は」

「お気になさらず、どうぞこちらへ」

「絶対、理由あるで」

朱音が言った。

イナンナが湯船へ足を入れる。

その瞬間、浴場に立ち込めていた湯気がわずかに薄くなった。

上がり続けていた温度表示が止まる。

一度下がり、もう一度下がり、やがて人間が心地よく入れる温度で安定した。

湯船の右側では、カーネリアの身体から熱が流れ込む。

左側では、イナンナの身体が余分な熱を吸い取り、冷却系へ静かに逃がしている。

二人のあいだで湯がゆっくり循環し、浴槽全体がちょうどよい温かさになっていた。

「観測結果」

イナンナが、肩まで湯に浸かりながら告げる。

「姉様の放熱量と、わたしの吸熱量が、現在の浴槽容積において、ほぼ均衡しています」

「人を風呂の温度調整装置みたいに言わないでよ!」

「実際、完璧に調整できとるで」

朱音は、ようやく入りやすくなった湯へ肩まで沈んだ。

「カーネリアちゃんとイナンナちゃん、二人で一組の入浴設備やな」

「誰が設備よ!」

「姉様。湯温は適正です」

「あんたも納得しないで!」

カーネリアの声が浴場へ響き、セラフたちが声を抑えて笑った。

それ以来、カーネリアが脱衣所へ姿を見せると、誰かが必ず観測室へ向かうようになった。

「イナンナ様。本日もご入浴はいかがでしょうか」

あまりに自然に誘われるため、当初は首を傾げていたイナンナも、やがて姉が浴場へ向かったと聞くだけで、黙って席を立つようになった。

カーネリアは毎回文句を言った。

それでも、自分の隣へ静かに入ってくる妹を、本気で追い返したことは一度もなかった。

夜になると、カーネリアは決まって、解析室の「温かい椅子」にいた。

そしてその夜は、珍しく、椅子の主が、二人だった。

ミナトが席を外した解析室で、カーネリアと、ふらりと入ってきたツクヨミが、二人きりになった。銀色の少女は、空いた席に座り、赤い髪の少女は、いつもの椅子で膝を抱えていた。

沈黙が、長かった。

先に破ったのは、カーネリアだった。彼女の視線は、ずっと、相手の首元にあった。

「……あんたのも、外れないの。それ」

ツクヨミは、自分の首輪に指で触れた。

「うむ。人の姿を得たときから、一万三千年。これだけは同じ場所へ戻ってくるのじゃ」

「……ふうん」

カーネリアも、自分の首輪に、触れた。鎖の千切れた根元が、指に当たった。

「あたしのも。鎖は、あいつが引っこ抜いてくれたけど……輪っかは、残った。ロタに頼んで、炉で炙ってもらったけど、傷一つつかない。あたしの熱でも、駄目。……なんなんだろうね、これ」

「さての。……わしにも、分からぬ」

ツクヨミは、首輪をなぞりながら、少しだけ、迷って――言った。

「じゃが、の。……ひびが、入ったらしい」

「……え?」

「先日の、月とやり合うた夜じゃ。わし自身は気づかなんだが……見ておった者が、おっての。細いのが、一筋、と」

翌朝、ミナトから聞かされて初めて、ツクヨミ自身もひびの存在を知ったのだ。

カーネリアは、膝を抱えたまま、まじまじと、相手の首輪を見た。言われなければ分からない、髪の毛ほどの、細いひび。それを見つけて、彼女は、ぽつりと言った。

「…………いいなあ」

それだけだった。

短い羨望の呟きに、彼女の何もかもが入っていた。

ツクヨミは、何も返さなかった。慰めも、励ましも、この件に関しては、嘘になる気がした。ただ、二人は、それからしばらく、同じ形の輪を首に嵌めたまま、温かい機械の唸りの中に、並んで座っていた。

事務区画では、約束が、果たされていた。

「――以上で、作戦様式・第一号の検証を、終了します」

ニサバが、赤の書き込みで埋まった様式を、卓に置いた。向かいで、佐紺が茶を淹れていた。検証会は、三時間に及んでいた。良かった点、二十一項。改善点、十四項。カーネリア救出時の権限オーバーライドの手順化から、輪番間隔の再計算まで。

「……ですが、総評としては」

ニサバは、眼鏡を直した。

「全員帰投。特記事項の増加、なし。……良い作戦でした」

「様式が褒めるの、初めて聞きました」

「様式ではなく、わたくしの所感です。……それで、西園寺様。次の様式の件ですが」

ニサバは、新しい書式の表紙案を差し出した。題名の下、起案者の欄。そこには、二つの名前を書く枠が、印刷されていた。

「今後の作戦様式は、共同起案としたく。……その、あなたの名を、先に」

「……私を、先に?」

「現場を知る者の名が先にあるべきだと、カルナの検証で、結論が出ています。規定上の、合理的な判断です」

規定の顔は、完璧だった。完璧すぎて、耳が少し赤いのだけが、規定の外だった。

佐紺は、茶を一口飲んで、居住まいを正した。

「光栄です。お受けします。――ですが、一つ、条件が」

「……条件?」

「この検証会を、定例にしてください」

佐紺は、まっすぐに彼女を見た。

「月に一度。議題がなくても、開く。……戦いが終わっても、ずっと。それが条件です」

ニサバの手が、止まった。

戦いが、終わっても。

その言葉の意味を、様式の言葉に翻訳しようとして――できなくて、彼女は、眼鏡を、二度、直した。

「…………規定化、しておきます」

「時間厳守で、お願いします」

「……あなたに言われなくとも」

その夜は、満月だった。

祈りの時刻が、来て――過ぎた。

甲板には、誰もいなかった。

ツクヨミは、ラウンジにいた。皆の輪の、真ん中に。朱音に髪を結われ(「絶対こっちのが可愛いて!」)、カーネリアと菓子の取り合いをし(「それ、あたしのだし!」「早い者勝ちじゃ」)、されるがままの騒がしさの中に、いた。

祈らない、初めての満月だった。

その騒がしさの中で、ミナトだけが、気づいていた。ふとした瞬間――笑い声の切れ目、菓子に伸ばす手の途中で、彼女の目が、窓の外の白い円を探して、そして、逸らされるのを。一度ではなかった。何度も、だった。

夜が更けて、輪が解けたあと、彼は、甲板に出た。

思った通り、彼女は、そこにいた。祈りの場所ではない、手すりの際に。月に背を向けて、海を見ていた。

「……のう、ミナト」

振り向かずに、彼女は言った。

「祈らぬ夜は、静かじゃの」

「……はい」

「三年、毎晩じゃった。あの時刻になると、身体が勝手に、甲板へ向く。膝が勝手に、折れようとする。……信じるのをやめても、身体の癖は、残るのじゃな」

彼女は、自分の両膝を見下ろした。

「静かで……静かすぎて、耳が痛い」

ミナトは、何も足さなかった。

信じたものを失う作業は、一晩では終わらない。何度も、失い直すのだ。

数か月前と、同じ配置で。

まるで違う沈黙を、二人は、分け合った。

眠れないまま部屋を出たミナトが、廊下の先に灯りを見つけたのは、それから一刻ほど後だった。

厨房だった。

こんな時刻に、と覗いて――彼は、固まった。

調理台の上に、焦げたものの山が、あった。焦げたパンケーキらしきもの。焦げた卵らしきもの。焦げた、何かだったもの。その山の前で、メイド服に三角巾のエティンが、フライパンを睨んでいた。

「……エティンさん?」

「――ミナト様」

彼女は、振り返り、焦げの山と彼の顔を見比べて、観念したように、肩を落とした。

「……お見苦しいところを。その、これは」

「料理の、練習ですか」

「はい。……ウェスタに基礎を習い始めて、十日ほどになります。まだ、この有様ですが」

ミナトは、調理台に歩み寄った。焦げの山は、よく見ると、少しずつ焦げ方が浅くなっていた。一番手前のものは、半分ほど、食べられそうな色をしていた。

「でも、セラフの食事って、完全食が――」

「はい。栄養は、完全です。三年間、それで参りました」

エティンは、フライパンを置いて、静かに言った。

「ですが……いつか、佐紺様が、船内食を初めて召し上がったとき、何かを言いかけて、飲み込まれたことがございました。わたくし、あの飲み込まれた言葉が、ずっと、気になっておりまして。……先日、ようやく、伺えたのです」

「……なんて言ってたんですか」

「『足りることと、美味しいことは、別ですね』――と」

彼女は、焦げの山を見た。

「完全食は、足ります。ですが、それだけです。皆様は今、大きな戦いを終えられて……次の、もっと大きな戦いが、来る。その前に、一度でいい。計算ではないものを、お出ししたいのです。美味しい、という、あの」

ミナトは、腕まくりをした。

「――手伝います」

「え? ミナト様が?」

「三年、自炊……もどきは、してたので。焦がすのだけは、俺の方が先輩です」

世界一心もとない料理教室が、深夜の厨房で、始まった。

三年コンビニ飯だった男と、三年間完全食だった娘が、火加減で揉め(「弱火です、たぶん」「先ほども弱火で焦げました」「じゃあ、もっと弱火で」)、卵の割り方で唸り、一枚のパンケーキと格闘した。

何枚目かの、比較的まともな一枚を、二人で半分ずつ、味見した。

同時に、顔をしかめた。

「……塩と砂糖」

「……間違えました」

同時に、噴き出した。

深夜の厨房に、灯りと、笑い声が、灯っていた。

笑いが収まった頃、エティンが、ふいに、手元の皿を見つめたまま、言った。

「……不思議です」

「はい?」

「わたくしは、ミナト様の命綱のはずなのです。翻訳の第一手。帰り道を持つ者。それが、わたくしの役目で……役目のことなら、わたくしは、何でも分かるのです」

三角巾の下の目が、少しだけ、途方に暮れていた。

「ですのに、この頃……綱ではないときのあなたを、見ている時間のほうが。厨房で塩と砂糖を間違えるあなたや、椅子を占領されて困っているあなたのほうが……気になって、仕方ないのです」

彼女は、自分の胸に手を当てた。

「わたくしの学んだ語彙の、どこを探しても……この気になり方の名前が、見つからなくて」

ミナトも、名指しは、返せなかった。

同じ名前のない何かが、自分の側にもあることだけは、とっくに分かっていた。分かっていて、彼の三年間は、それに名前を付ける練習を、してこなかった。

だから、彼は、彼にできる精一杯を言った。

「……この料理、完成したら」

「はい」

「最初に、俺に食わせてください。命綱じゃなくて、その……味見係として」

エティンは、目を瞬かせた。

それから、三角巾の下で、ふわりと笑った。いつもの給仕の微笑みと――初めて、違う種類の。

「……はい」

彼女は、丁寧に一礼した。

「予約、承りました」

夜明け前、観測席の空気が、変わった。

「……イナンナ。これを」

エイルが、解析画面を隣へ回した。三日がかりで走らせていた、月の周辺宙域の精密観測。その結果が、出たのだった。

イナンナは、画面を、長く読んだ。

「……観測結果を、報告します。全乗員に、共有すべき内容です」

朝のCICに、全員が集められた。

全周囲ホログラムに、地球と、月が映し出された。二つの天体の間の宙域に、解析の網が、淡くかかっている。

「月の軌道に、変化はありません」

エイルが、まず言った。

「落ちてくるのでは、ありません。ですが」

網の一部が、強調された。

月から、地球へ。目に見えない、しかし観測には確かに映る――勾配が、伸びていた。まだ細く、まだ途切れがちで、しかし着実に、編まれつつある、重力の傾斜。

「これは、落下ではありません」

イナンナが、続けた。

「――道です」

「道……?」

「わたしは、父の中で、原初の記録を読みました。その中に、ティアの――わたしたちの大元の、航行機関の設計が、ありました。恒星の海を渡るための機関。質量を動かすのではなく、重力の道を架けて、その上を渡る仕組みです」

彼女は、ホログラムの勾配を指した。

「この波形は、その起動波形と、一致します。月は、残存する航行機関を、起動しました。……月と地球の間に、坂道が、架けられつつあります」

CICが、ざわめいた。

「坂道て……なんのために」

「まさか、降りてくる――」

「軌道は変わってへんて言うたやん」

「なら、何を通す道や」

ざわめきの中で、ミナトだけが、ホログラムをじっと見ていた。

月から、地球へ。上から、下へ。傾いた、一本の道。

その絵を、頭の中で、ゆっくりと、裏返した。

「……なあ、皆さん」

彼の声は、静かだった。静かなまま、CICのざわめきを、断ち割った。

「降りてくる道が、あるってことは――」

全員が、彼を見た。

ミナトは、ホログラムの勾配を――月へと続く、その細い傾斜を、指でなぞり上げた。

「――登れる、ってことだ」

窓の外で、朝焼けが、暖かい海を染め始めていた。

船はまだ、南へ向かっていた。傷を癒すための、暖流の海へ。

だが、その朝から――全員の頭上に、最後の目的地が、白く、懸かった。