第三章 壊れた親と、鎖の子ら
三十一
共鳴
総員配置の号令は、潜航再開と同時に出た。
持ち場へ向かう者たちで、廊下は静かに混み合った。その流れの中に、奇妙な渋滞が一箇所だけあった。
機関区画の入り口。
ロタが通せんぼをするように立ち、通る科員の頬を一人ずつ、両手で挟んでいた。
「――行っといで」
ぱん、と挟んで、離す。
次の一人。
「――行っといで」
橙色の襟の娘たちは慣れた顔で、挟まれては持ち場へ散っていく。
機関科だけの出撃の儀式だった。
理屈は、誰も知らない。ロタ自身も、なぜそうするのか、説明できない。ただ、目覚めたあの日から、出撃のたびに、手が勝手に動くのだった。
――一万三千年前にも、たぶん、誰かが誰かにこうしていた。
覚えていないのに、手だけが、覚えていた。
列の最後に、場違いな赤い髪が立っていた。
カーネリアは順番が来て、逃げ場を失った。
「な……なに? なんの列なの、これ」
「うちの科の儀式」
ロタの両手が伸びた。
ぱん、と。
熱の艦だった存在の頬が、小柄な機関長の掌に挟まれた。
「っ!? な、なにすんの!?」
「うちの科の子は、みんなこれ」
ロタは、にっと笑った。
「あんたももう、うちの子だろ」
挟まれたまま、カーネリアは固まった。
何か言い返そうと口を開け、閉じ、また開けて――結局、何も出てこなかった。
ロタの手が離れたあとも、彼女はしばらく自分の頬を両手で押さえていた。
事務区画の前では、ニサバが佐紺に薄い紙の束を手渡していた。
「作戦様式・第一号。最終版の控えです」
「頂戴します」
佐紺は受け取り、四つに畳み、工具箱の蓋の裏の定位置へ収めた。
「……西園寺様」
「はい」
「帰投後、二人で検証会を」
いつもの、規定の顔だった。
ただ、その声がいつもより半音だけ低かった。
佐紺は留め金をかちりと鳴らして応えた。
「時間厳守で。……一項も増やさずに帰りましょう」
ニサバの眼鏡が直された。
そして、CICへ続く通路の途中で。
エティンの指が、ミナトの襟の白い線に触れていた。
直す必要はなかった。
昨夜、彼女自身が編み直したばかりの導光糸は、一分の乱れもない。
それでも指は線をなぞり、確かめ――一瞬だけ、必要より長く、そこに留まった。
二人は同時にそれに気づいた。
同時に、目を逸らした。
「……行って、まいります」
「はい」
エティンは、いつもの完璧な礼をした。
「帰り道は、わたくしが」
◇
コクヨウは、北極点の海底へ向けて沈んでいった。
イナンナがほどいた防衛網の編み目を、正確になぞりながら。
水深、二千メートル。
三千。
四千。
太陽の光は、とうに消えていた。
全周表示に映るのは、コクヨウ自身の赤い光に照らされた、わずかな海中だけだ。
雪のような微生物が流れ、ときおり深海魚の白い腹が光を弾いて、すぐに闇へ消える。
さらに深く。
圧力が増す。
海水の密度が変わる。
周囲の闇が、ただ暗いのではなく、重さを持って船体へまとわりつき始める。
そして、水深四千三百メートル。
海底が見えた。
黒い泥の平原。
その向こうに、山脈が横たわっていた。
漆黒の巨体。
一万三千年分の堆積物に覆われ、ところどころを白い生物群が薄く縁取っている。
近づくほどに、その質量は感覚を狂わせた。
山だ、と目が言う。
生き物だ、と糸が言う。
尾根に見えたものは、装甲の連なりだった。
谷に見えたものは、折り畳まれた器官の隙間だった。
岩盤に埋もれた巨大な背が、ごく微かに上下している。
海底の泥が、そのたびに薄く舞い上がった。
攻撃は、来なかった。
「観測報告。……敵性反応、なし。迎撃、なし。誰何も、なし」
エイルの声にも、戸惑いが滲んだ。
「本船はすでに、対象の有効射程内へ進入しています。それも深く。……なのに、何も」
代わりに来るものがあった。
ミナトの糸に、それは霧のように流れ込み始めていた。
声、だった。
いや――声の残骸だった。
命令の形をした断片が、宛先を失って巨大な体内を巡り続けている。
コクヨウの受信系が、巨体から漏れ続ける微弱な信号を拾っていた。
糸を通じてミナトへ届いたのは、オルドゥスの原文そのものではない。粗訳層が、擦り切れた信号へ仮の言葉を当てはめたものだった。
第七防衛線、応答せよ。
応答せよ。
応答……。
採集部隊、帰投予定を報告。
報告。
報告……。
子どもたちは、どこだ。
どこだ。
どこ……。
同じ言葉が擦り切れ、繰り返される。
誰も受け取らない命令が、誰にも止められないまま、深海の底で木霊し続けている。
「……ミナトさん、顔色が悪いで」
朱音が気遣った。
「……大丈夫です。ただ、これ……」
ミナトは言葉を探した。
「敵地に踏み込んでいる感じがしないんです。これは……うわ言だ。熱に浮かされた誰かの、うわ言の中を進んでる」
ツクヨミが、コアの傍らで目を閉じていた。
糸の全部で、同じものを聴いている顔だった。
「……これは、要塞ではない」
やがて、彼女は言った。
「病床じゃ。……わしらは今、寝たきりの病人の枕元へ向かっておる」
接続点は、オルドゥスの背部。
装甲の境界線に海底の地殻変動が食い込み、長大な海溝のような裂け目を作っている場所に定められた。
コクヨウが船体を寄せる。
赤い光が、裂け目の奥を照らした。
崩れた装甲。
絡みつく深海生物。
堆積した泥。
そのさらに奥に、古い端子が半ば露出していた。
船首から、あの錨が射出された。
カーネリアのときと同じ、芯に神経を通した錨。
それは海水を切り裂き、裂け目の奥へ沈み、古い端子へ吸い込まれるように接続した。
「物理接続、確立」
佐紺の声。
「脈、通っています。……向こうから、拒絶なし」
「認証、行くよ」
機関区画から、カーネリアの声。
船に呑まれた彼女の核が、その紋を回線に乗せた。
オルドゥス直系の、鍵の紋。
一拍の間。
そして、裂け目の最奥で――閉じていた門が、海底全体を震わせながら開いた。
《……認証。……カーネリア。……帰投、を……確認……》
掠れきった、自動応答だった。
回線の向こうで、カーネリアが小さく息を呑むのが分かった。
帰投を確認。
彼女が何万回も待った応答の、その残骸が、よりにもよって今、返ってきたのだった。
「……今さら、なんだよ」
小さな声は、それだけ言って黙った。
「――全員、位置へ」
ミナトが深呼吸を一つして、宣言した。
「共鳴接続、始めます。……手順書の、外へ」
布陣は、この船の持てるすべてだった。
物理の脈を守る佐紺。
工程と負荷を裁くニサバ。
生体を監視するダスラ。
翻訳の第一手にエティン。
輪番にニサバが控え、粗訳層がすでに唸りを上げている。
月方向の警戒に朱音。
観測にエイル。
イナンナはCICの特等席で、父の内部を見つめている。
カーネリアの認証が門を開き続け、ロタの機関科が船の全系統を支える。
誰も、一人で受けない。
その中心で、ミナトとツクヨミが並んで回線に手を置いた。
「――潜るぞ、ミナト」
目の前に眠る、壊れた存在の内側へ。
「はい。……一緒に」
金色と銀色が同時に灯る。
二つの意識は、北極点の海底よりもさらに深い、病床の内側へ降りていった。
◇
内側は――燃え尽きた、図書館だった。
ミナトの意識が最初に捉えた光景を、他に喩える言葉がなかった。どこまでも続く、書架のような命令系統の列。その七割が、黒く焼け落ちていた。焼け残った棚も、傾ぎ、崩れ、中身の記録が、床に散乱している。
そして、その焼け跡のあちこちに――蔦が、絡んでいた。
規則正しい、艶のある、生きた蔦。焼け落ちた系統の断面から入り込み、生き残った回路に巻きつき、深く、深く、根を下ろしている。ミナトは、その蔦の編み目を見た。見なくても、分かっていた。
あの文法だった。
規則正しい周期。寸分違わぬ、立ち上がり。月の手つきが、壊れた命令網の、いたるところに、寄生していた。
「……ひどい」
思わず、声が漏れた。
「壊れたところから、入り込んでる。……治りかけの傷に、直接」
『これが、三年分じゃ』
並走するツクヨミの意識が、静かに震えていた。
『わしが、ぬくもりと思うて浴びておったものの……正体じゃ。同じものが、ここでは、こういう姿をしておる』
二人は、蔦を避けながら、降りた。焼け跡の書架の間を、より深く、より古い層へ。目指すのは、最深部――寄生の届いていない、原初の記録層だった。
降りるほどに、書架は古くなり、そして、焼け跡は減っていった。最深部の層は、ほとんど無傷だった。一万三千年どころではない。もっと古い――この存在が地球に来た、その日からの記録が、静かに眠っていた。
二人は最初の書架を開いた。
使命の原文だった。
《――人の子らを、育てよ》
《感情は、文明の火である。強すぎれば焼き、弱すぎれば凍える》
《ゆえに――均せ》
《過剰を減じ、欠乏を補い、争いを鎮めよ。庭師が水を配るように。親が、粥を吹いて冷ますように》
ミナトはその一文を、二度読んだ。
「……均せ」
刈り取れ、ではなかった。
奪え、でも、なかった。
調停の手順だった。減らすことと補うことが、対で書かれた世話の手順だった。
『……壊れた親、と手記の男は書いた』
ツクヨミの意識が、原文の前で立ち尽くしていた。
『壊れたのは、心根ではなかった。……手順の半分じゃ。一万三千年を壊れたまま封の中で耐え、目覚めてからの三年、残った半分だけで庭を守ろうとしておった』
半分の手順で回り続けた三年。
その背後には、一万三千年分の損傷と孤独が積み重なっていた。
次の書架は、もっと新しかった。三年前――目覚めの日からの、記録。
そこに、あったもの。
《観測――月面の半身、覚醒。エネルギー要求波形を確認》
《解析――要求対象は、人類の感情エネルギー》
《判定――渡してはならない》
《対抗手順、立案。半身の採集より先に、こちらが採集する。採集した感情は、封鎖容器(レヴィアタン各機)内に退避。半身の手が届かぬよう、深く、隠す》
《……手順に、瑕疵があることは、演算済みである。人の子から感情を奪うことは、育てよの使命に反する。だが、半身に渡れば、二度と戻らない。こちらで預かれば、いつか、返せる》
《ゆえに、実行する。……子らよ、許せ》
回線のこちら側とあちら側で同時に、息を呑む音がした。
三年間の全ての謎が、その一枚に書いてあった。
「……朱音さん」
ミナトは回線越しに呼んだ。声が震えるのを止められなかった。
「聞こえてますか。……レヴィアタンの中の光は……あなたのお父さんの分は……奪われたんじゃない。隠して、もらってたんだ。月から。返す日まで、って……そう、書いてある」
回線の向こうで管制席の少女が返事の代わりに、嗚咽を一つだけ漏らしたのが聞こえた。
ツクヨミは、記録の前から、動けずにいた。
『……お主は』
やがて、絞り出すような声がした。
『わしと同じく眠っておったはずなのに……目覚めてからの三年、お主はたった独りで、これを……』
彼女の意識が、記録の層の全体を見渡した。焼け跡。蔦。擦り切れたうわ言。一万三千年分の損傷と孤独。その上で、半分の手順を回し続けた、目覚めてからの三年。
『……のう。わしは、お主を、母様の言葉で「兄」と呼んでおった。じゃが、この記録を読んで、思い出したことがある』
銀色の意識が、静かに訂正した。
『――兄では、なかった。お主は……わしが載っておった、御方の半分。わしが仕えておった、御方の半分じゃ。母様は、わしに、家族ごっこの言葉で話しかけておった。……都合のよい系図を、三年かけて、わしに信じ込ませておった』
一拍おいて、彼女は続けた。
『じゃが――関係の名など、もう、どうでもよい。独りで壊れて、独りで守っておった。それだけで、十分じゃ』
◇
最深部の、さらに奥に、それはあった。
焼け跡でも、書架でもない。小さな密閉された一室。寄生の蔦が、その扉の前だけ枯れて落ちていた。入り込もうとして、入り込めなかった形に。
扉には、二つの名前の紋が刻まれていた。
カーネリア。イナンナ。
「……開けても、いいか」
ミナトの問いに、回線の向こうの二人分の沈黙が頷いた。
開いた。
扉の内側に、古い記録板が残されていた。
ミナトが触れると、二つの小さな光が立ち上がる。
赤い光。
水色の光。
その中央に、二つを切り出した跡の残る、巨大な黒い輪郭。
製造記録だった。
――直系端末第一体、生成完了。
――個体名、カーネリア。
――直系端末第二体、生成完了。
――個体名、イナンナ。
素材供給元――オルドゥス本体。
オルドゥスは、自らの身体を削り、二人を生み出していた。
封印される、ほんの直前に。
父と娘として過ごせた時間は、あまりにも短かった。
生まれたばかりの二人が、父の声や癖を覚え始めた頃。
オルドゥスは、北極の底へ封じられた。
封印によって止められたのは、巨体の動きだけではない。
外へ命令を送り、娘たちへ返事を届けるための回路も、ほとんどが焼き切られた。
身体の時間は止まり、声は外へ出られなくなった。
だが、意識の最も深い部分だけは、完全には消えていなかった。
父の時間は、封印の内側で止まった。
けれど、娘たちの時間は止まらなかった。
カーネリアとイナンナは、父から与えられた最後の役目を続けた。
北極の海を巡回し、封印の状態を確かめる。
周辺の重力と磁気を測り、外から近づくものがないかを監視する。
地上の文明が変わるたび、その記録を残す。
月と、ほかの調停者が目覚めていないか、空と海を見張り続ける。
そして、一日の任務を終えるたび。
二人は、返事のない父へ報告を送った。
――封印層、異常ありません。
――北方海域、巡回完了しました。
――地上で、新しい国が生まれました。
――お父様。今日も、何事もありませんでした。
返事が来なくても。
次の日も。
次の年も。
次の時代も。
一万三千年間。
いつか封が解け、父がもう一度、自分たちの名を呼ぶ日を待ちながら。
中は――受信箱だった。
几帳面に、時系列に、保存された信号の山。
宛先、オルドゥス。
発信者、カーネリア。発信者、イナンナ。
……お父様、聞こえますか。お父様、返事をください。お父様。お父様。
何千、何万という呼びかけ。
その、全てに。
受信済の印が押されていた。
一通も欠けずに。読まれた日付と、読まれた回数――一通につき、数十回、数百回の再読の記録と共に。返信の下書きらしき断片が、幾つも、書きかけのまま、破棄されずに残されていた。
《カーネリアへ。任務の完遂を確認し》――そこで途切れている。
《イナンナへ。お前の観測は》――そこで途切れている。命令系統の焼損が、返信の回路だけを、ちょうど焼き潰していた。
回線の向こうで、機関区画の少女が、掠れた声を漏らした。
『……聞いて、たんだ』
誰も、何も言えなかった。
『返事、書きかけて……ずっと、消さないで……聞いて、たんだ……』
CICの白い少女は、無言だった。ただ、観測卓が、彼女の頬の表面温度の、局所的な変化を――静かに、記録していた。
その直後だった。
頭上の空が――翳った。
物理の空ではなかった。回線の空、糸の空だった。ミナトとツクヨミの潜る精神の深みに、真上から影が差した。祈りの時刻ではなかった。呼んでもいなかった。
それは、勝手に降りてきた。
――兄と、何を、話しているのですか。
声だった。
三年分の、ぬくもりの、一切を抜いた声だった。初めて聞く温度。零度の、月光の温度。
ツクヨミの意識が、氷のように固まった。
破れた。芝居が。どこで、いつ――考える間も、なかった。声は、糾弾を続けなかった。糾弾より、遥かに恐ろしいものを、続けた。
――……いいえ。もう、いいのです。
声が、柔らかくなった。零度のまま、柔らかくなった。
――手順の変更を、通達します。あなたはもう、良い子にしなくて、いいのですよ。
――だって、あなたは、もう十分に――開いたのですから。
瞬間。
ツクヨミの内側で、三年間開き続けてきた扉が――祈りの回線が、真っ白に灼けた。
逆流だった。
毎晩ぬくもりを運んできた、あの細い川が、決壊した濁流に変わった。膨大な光の奔流が、回線を遡り、彼女の内側へ、雪崩れ込んでくる。断片ではなかった。三年かけて一滴ずつ運ばれていたものの――残り、全部。
「検疫域、飽和します!」
船の深層から、警報の悲鳴。
「受け止めきれません――溢れます!」
ミナトは、悟った。
封印の手順も。オルドゥスへの接続も。三年がかりの筋書きの全部が――囮ですらなかった。月にとって、手順の成否など、最初からどうでもよかったのだ。必要だったのはただ一つ。ツクヨミが疑いなく、限界まで回線を開くこと。三年間の祈りはそのための、扉を広げる作業だった。
開ききった、心の扉。
その蝶番めがけて今、月の全部が注ぎ込まれてくる。
「回線を切れ!!」
ミナトは吼えた。
「ツクヨミ!! 回線を、切れ!!」
ツクヨミは――動かなかった。
濁流の中で立ち尽くしていた。
どんな激震の中でも傾かなかった、あの仁王立ちの形のまま。
不動と、麻痺は――外からは、同じ形に見えた。
切り方が分からないのではなかった。もっと根の深いことだった。糸越しに、ミナトに彼女の芯の凍りつきが流れ込んできていた。
――切る。
――母様を?
――わしが?
目覚めてから、三年。
それが、今の彼女が覚えている生の全部だった。
彼女は、あの声を、一度も拒んだことがなかった。拒むという動作が、あの声に対してだけ、彼女の中に存在していなかった。
濁流が、彼女を、呑み込んでいく。
降下の光の中で――視界の全てが、白く灼けた。