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第三章 壊れた親と、鎖の子ら

三十

氷原

コクヨウが進路を真北へ定めてから、数時間が過ぎた。封印海域へ入る前の最後の日は、奇妙なほど、いつもと変わらずに流れていた。

それは、奇妙なほど、いつもと変わらない朝から始まった。

朝食を終えたミナトが解析室で接続機構の最終調整をしていると、扉がノックもなく開き、赤い髪の少女が入ってきた。

「……別に、あんたに用があるわけじゃないから」

誰も理由を尋ねていないうちから、カーネリアはそう言い訳した。

「ここの椅子が、ほかより温かいだけだし」

解析室の隅には、演算装置から出る排熱がちょうど当たる古い椅子が置かれている。カーネリアは、この数日ですっかりそこを自分の席と決めたらしく、膝を抱えて座ると、ミナトの作業を、見るともなく眺め始めた。

「どうぞ」

ミナトは画面から目を離さずに答えた。昨夜の試験結果を開いたところで、伝え忘れていたことを思い出す。

「昨日は助かりました。カーネリアさんが出してくれた耐熱値のおかげで、接続系の見積もりが三時間ほど早く終わりました」

椅子の上で、抱えられていた膝がわずかに縮んだ。

「う、うるさいし。礼なんか、いらないから」

「でも、助かったのは本当なので」

「道具じゃない、って言ったのは、あんたでしょ! だからって、急に対等みたいに礼を言うの、やめてよね! 言われた方が、どう反応すればいいか困るでしょ!」

「……すみません」

「謝るな!」

どう返しても怒られるらしい。ミナトは追及を諦め、画面へ向き直った。

直後、解析室の照明が一度だけ、ごく弱く明滅した。電圧に異常はない。コクヨウの深い部分が二人のやり取りへ反応したのかもしれなかったが、指摘すればカーネリアがさらに怒りそうなので、見なかったことにした。

解析室を出たあと、カーネリアは廊下で別の赤い色と出会った。

赤いレザーのナース服に、短いピンク色の髪。

ダスラの姿を認めた瞬間、カーネリアは音もなく半歩後ろへ下がり、近くを歩いていたミナトの背中へ隠れた。

「……何をしているんですか」

「静かにして。あの赤いの、目で撃ってくるから」

「目からは撃ちませんよ」

「撃ってくるの! 医務室にいたとき、ずっと撃たれてた!」

ダスラは、ミナトの肩越しに覗く赤い髪を一瞥した。

何も言わないまま通り過ぎたが、その一瞥だけで、廊下の温度が少し下がったように感じられた。

「……ツクヨミ様のお傍に、また一人、世話の焼ける方が増えましたのね。ますます忙しくなりますこと」

歩き去りながら漏らされた独り言を聞き、カーネリアはミナトの背中から顔だけを出した。

「ほら。絶対、あたしのこと言ってる」

「たぶん、そうでしょうね」

「そこは否定しなさいよ!」

昼になると、遊技室からもカーネリアの叫び声が響いた。

「なんで!? なんで、また負けるのよ!」

音楽ゲームの筐体の前で、カーネリアが両手を振り上げている。画面には無慈悲な判定が並び、得点差は、初心者と熟練者という言葉では説明できないほど開いていた。

隣の筐体では、メイド服姿のエティンが涼しい顔で最高難度の譜面を処理していた。指先は激しく動いているのに、上半身にはほとんど力が入っていない。最後の一音まで正確に押し終えると、画面へ再びフルコンボの表示が現れた。

「おかしいでしょ! 反応速度なら、あたしはこの船の誰にも負けないはずなのに!」

「これは、反応だけで弾くものではございませんので」

エティンは穏やかに答えた。

「曲の流れと譜面の癖を覚え、次の音が来る場所で、指が先に待っている必要がございます。わたくしは、この曲を少々長く嗜んでおりますから」

「少々って、何回やったのよ」

「回数は数えておりません」

背後で見物していた朱音が、腹を抱えて笑っていた。

「無理やて、カーネリアちゃん。エティンさん相手に音ゲーはあかん。この船で一番、勝負を挑んだらあかん人や」

「じゃあ次! 対戦するやつ! 朱音、あんたが来なさい!」

「はいはい。また筐体の過熱警告を出さんように気ぃつけや」

「出してない! 勝手に熱くなるの!」

夕方には、大浴場からも騒ぎ声が聞こえた。

「熱いですわ! カーネリアさん、また湯温が上がってますわよ!」

ダスラの叫び声が聞こえる。

「上げてないって言ってるでしょ! 気を抜くと、勝手に上がるの!」

「浴場規程に定められた適正温度は――」

なぜかニサバの声まで混じっていた。

しばらくして騒ぎが収まり、広い浴場へ静けさが戻った頃、カーネリアは湯船の隅で肩まで湯に沈み、目を半分だけ閉じていた。長い赤髪が湯面へ広がり、その隣へ、銀色の髪が静かに並ぶ。

「どうじゃ、湯は」

ツクヨミに尋ねられ、カーネリアはしばらく湯面を見つめた。

「……変なの」

「何がじゃ」

「あたし、熱の中にいるときだけは落ち着くの。熱はあたしの一部だし、処理できないものを捨てる場所でもあったから」

カーネリアは両手で湯を掬い、指のあいだからゆっくりとこぼした。

「でも、これは違う。あたしが作った熱じゃない。攻撃でもないし、排熱でもない。外から来て、ただ温かいだけ」

掌から落ちた湯が、小さな波紋を広げていく。

「温かいって、こういうものでもいいんだ」

いつもより少しだけ小さな声だった。

ツクヨミは何も言わなかった。茶化す者も、口を挟む者もいない。湯気だけが二人の上で、ゆっくりと渦を巻いていた。

やがてカーネリアの視線が、ツクヨミの細い首へ嵌まった鉄の首輪に止まった。ツクヨミも、その視線に気づいている。

カーネリアは自分の首輪へ一度だけ指を触れたが、どちらも何も言わなかった。今はまだ、それを言葉にする時ではなかった。

その夜、陸から数日をかけて海を渡ってきた無人伝令器が、コクヨウに回収された。

八代の定期報告だった。

ラウンジへ光の粒が集まり、スーツ姿の男を形作る。いつもの柔らかな声で、補給の見通し、回復した百十七名の経過、九十九財団の近況が語られた。

報告内容を一通り確認したあと、ミナト、佐紺、エイルの三人は解析室へ移り、映像の精読を始めた。

最初に文面を確認し、過去の報告と矛盾する情報がないかを洗う。そのあと、八代の表情や所作を比較し、意図的に残された可能性のある言葉や動きを拾い上げる。八代の報せを初めて符号として読み解いた日を経て、三人のあいだには、すでに一つの手順ができていた。

「観測報告。ネクタイに触れた回数、ゼロ。所作の統制は継続しています」

エイルが、八代の上半身を並べた比較画面を見ながら告げた。

「指輪には、一度触れています」

ミナトは報告の冒頭を再生した。

組んだ両手の上で、右の指先が左の薬指へ触れる。前回とほぼ同じ位置、同じ長さの所作だった。

「敵が差し出した取引材料は、まだ有効だということでしょう」

佐紺は腕を組み、光の男を見つめた。

「あの方は、今も綱の上にいる」

三人が繰り返し再生したのは、報告の結びだった。

『……最後に、年寄りの繰り言を一つ』

八代の像が、少し疲れた笑みを浮かべている。

『長く交渉の仕事をしておりますと、本当に大事な局面で人を救うものは、手順書に書かれていないのだと痛感します。皆さんの選ぶ道が、手順書の外にあることを祈ります』

五度目の再生が終わっても、三人はすぐには口を開かなかった。

「手順書……」

ミナトは、その言葉を確かめるように口にした。

今、コクヨウにとって「手順」という言葉が指すものは、一つしかない。

月がツクヨミへ繰り返し伝えている、オルドゥス封印の手続き。兄の核へ動力を接続し、封印の輪を閉じろという命令だった。

「八代さんは、月がツクヨミに何らかの手順を与えたことを知っている」

「そして、その手順の外へ出ろと伝えているのでしょう」

佐紺が続けた。

「月に聞かれても問題のない言葉で、船にだけ別の意味を残している」

八代が、封印の代わりに共鳴を選ぶという船内の作戦まで知っているはずはない。それでも、彼の言葉は、結果としてミナトたちの選択を後押ししていた。

報告を受けたニサバは、送受信に必要な日数を確認してから静かに首を振った。

「返信は間に合いません。本船は明朝、封印海域へ入ります。今から器を流しても、陸へ到着する頃には、作戦の結果が出ています」

「なら、返事の方法は一つだけです」

ミナトは立ち上がった。

「手順書の外を選ぶ。それを、結果として見せるしかない」

夜半を過ぎても、船内では最終点検が続いていた。

ミナトが接続機構の確認のため配電区画へ降りると、開かれた点検盤の前に佐紺が膝をついていた。工具箱の中身は、手術台へ並べられた器具のように整然と配置され、佐紺は明日の作戦で使う配線を一本ずつ、指の腹で確かめている。

「導通、問題なし。被覆も正常。……よし」

テスターの数値を見て頷き、次の線へ移る。その手つきは、設備を検査しているというより、明日の仕事へ送り出す仲間の状態を、一人ずつ確かめているようだった。

「西園寺さん」

「ああ、黒金さん。もう少しで終わります」

佐紺は振り返らず、一本の線へテスターを当てた。

「明日、この配線には無理をさせます。オルドゥス級の情報を通すのですから、定格を大きく超える負荷がかかるでしょう。焼き切れたら、私が予備へつなぎ直します。それでも、焼けるまでのわずかな時間、この線は確実に私たちの命を運ぶことになります」

指先が、被覆に生じたごく小さな傷を見つけた。

佐紺は何も言わず、その線を取り外した。新しい線を同じ長さへ切り、端子を取り付け、元の経路へ丁寧に這わせていく。

「文句も言わず働くのですから、こちらも最高の状態で送り出さなければなりません」

ミナトは、その手元を見ていた。

以前の職場には、こういう人間はいなかった。

そう考えて、思い直す。

実際には、いたのかもしれない。深夜のサーバールームや、誰も見ていない設備室で、故障が起きないよう機械へ触れ続けていた誰かが。自分が疲れ果て、周りを見る余裕を失っていたから、気づかなかっただけなのかもしれない。

ミナトは、点検盤と、その前に膝をつく佐紺へ静かに頭を下げた。

事務区画では、ニサバが作戦様式・第一号の最終版と向き合っていた。

工程、配置、中断基準、撤収線。全二十七項の内容を、冒頭から一つずつ読み直している。すでに七度目の確認だったが、第十九項へ差しかかったところで、指が止まった。

――緊急時には、人員の保護を、任務の完遂に優先する。

ニサバ自身が書き加えた一文だった。

古い規程にも乗員を守るための項目は存在していた。しかし、任務の完遂と衝突した場合に、どちらを優先するのかが明文化されていなかった。そのため、判断を下す者が、状況ごとに正しさを選ばなければならなかった。

カルナを失った日の検証を経て、ニサバは初めて、迷う余地のない優先順位として書き直した。

様式は、彼女にとって単なる書類ではない。何を守り、どこで止まり、誰を一人にしないかを、事前に交わしておく約束の束だった。

新しい行が増えるたび、その裏には、必要性を教えた誰かの痛みがある。カルナが消えた日の痛みも、佐紺が負傷した日の痛みも、直接は書かれないまま、規定の中へ残っていた。

「……明日は」

誰もいない事務区画で、ニサバは表紙へ向かって小さく言った。

「誰の痛みでも、新しい一行を増やしません」

眼鏡の位置を直し、八度目の確認を始めた。

夜が明けた。

最初に変化を捉えたのは、夜間当直を続けていたエイルと、いつの間にか観測席の隣へ立っていたツクヨミだった。

「観測報告。北極点直下海域へ到達しました」

朝焼けに染まった空の下、大小の氷盤が海面を埋め尽くしていた。氷は互いに押し合い、重なり、白い大地のように水平線まで続いている。

目的地は、その下にあった。

「海底走査を開始します」

エイルの指が観測卓を滑る。

走査波が厚い氷を透過し、その下に広がる黒い海を降りていく。全周囲ホログラムへ、深海の地形が少しずつ描き出された。

水深二千メートル、三千メートル、四千三百メートル。

北極点の直下に、既存の海図には記録されていない巨大な隆起が現れた。

「前方海底に、大規模構造体を確認」

エイルの声が、珍しくそこで途切れた。

最初は、海底山脈のように見えた。

深海底から盛り上がった漆黒の稜線が、観測範囲の外まで幾重にも続いている。海底火山の連なりか、沈んだ大陸の背骨だと言われれば、そう見えなくもない。

しかし、地質走査は、それを岩盤とは判定しなかった。

稜線の内部には規則的な空洞が走り、自然の地層では生じない密度差がある。材質は既知の金属にも鉱物にも一致せず、その巨大な構造体全体が、非常に長い周期で、ごくわずかに収縮と弛緩を繰り返していた。

眠る者の呼吸ではない。

大部分を損傷しながらも、辛うじて生命活動を維持している身体の循環だった。

「推定全長は、コクヨウの十数倍。現在の走査範囲では、全体を収められません」

エイルが、ようやく報告を続けた。

一万三千年にわたり海底へ封じられ、三年前に覚醒したあとも、損傷した巨体を動かすことができずにいる存在。

レヴィアタンとミルメクスだけを、遠くへ伸ばした手足として動かしながら、海底の地形へ半ば埋もれたまま生き続けていたもの。

オルドゥスだった。

その巨体の上方、氷床の直下に、もう一つ、小さな反応が浮かんでいる。

「人型反応、一。静止状態で、本船の方角を向いています」

白い人影は、コクヨウが到着する時刻を知っていたかのように、暗い海の中で待っていた。

コクヨウは北極点を覆う氷へ船体を寄せ、音を立てずに海中へ沈んだ。

豪華客船の輪郭が水面下へ消えると、頭上で白い氷が閉じる。朝の光は、数十メートルも潜らないうちに淡い青へ変わり、さらに下では完全に途絶えた。

そこから先は、コクヨウの船体を走る赤い光だけが、深海を照らした。

氷床の裏側が、はるか頭上を流れていく。逆さまの山脈のように連なる氷の凹凸から、長い氷柱が暗い海へ垂れ下がっている。

コクヨウは水圧を押し分け、ゆっくりと深度を下げていった。

白い人影は、氷床の下で待っていた。

イナンナは、初めて会った日と変わらない姿をしている。白いワンピースに、裸足。長い水色の髪も、衣服の裾も、周囲の海水から切り離されているように静かだった。

コクヨウの船腹が開き、海中へ小さな収容室がせり出した。

イナンナは抵抗せず、開かれた入口へ歩いていく。隔壁が閉じ、内部の海水が排出されると、船内側の扉が開いた。

最初に飛び込んだのは、カーネリアだった。

「イナンナ!」

厚底のブーツが、まだ濡れている床を蹴る。

「あんた、無事!? 直衛区画で何されたの!? どこか壊されてない!?」

「姉様」

イナンナは、駆け寄ってきた姉をまっすぐに見た。

「観測。あなたの巨艦本体が失われたことを確認しました。その後、内部負荷の分類を継続していました」

「それで?」

「当初は、『悲しい』に分類しました」

「……あんたは、また、そういう言い方を」

「ですが、現在の観測結果に基づき、分類を修正します」

水色の目が、カーネリアの頭から爪先まで、ゆっくりと確認していく。

「あなたは、ここにいます。声も、熱も、その過剰な音量も、以前と一致しています」

ほんの短い間を置き、イナンナは続けた。

「観測結果。わたしの姉は失われていません。内部負荷を、『嬉しい』へ再分類します」

カーネリアは何か言おうとしたが、声が出なかった。

代わりに妹の頭へ両手を伸ばし、水色の髪を乱暴に撫で回す。

「……心配かけんじゃないわよ、馬鹿」

イナンナは抵抗せず、髪をぐしゃぐしゃにされるまま姉を見ていた。

再会が一段落するのを待ち、イナンナはツクヨミへ向き直った。

「観測対象ツクヨミ。……訂正します」

呼び方を変えるために、短い処理の間が入る。

「ツクヨミ。わたしは、お父様の内部での観測を完了しました。最終報告を伝達します」

「聞こう」

「お父様は、壊れています。命令系統の焼損率は七割を超え、自己修復速度を損傷の進行が上回っています」

イナンナの声には、前置きも感傷もなかった。

「そして、これが最も重要な観測結果です。お父様の命令網から発せられている指令のうち、少なくない数が、お父様自身の原文ではありません。基底構文へ、外部の文法が寄生しています」

「発信元は、分かるか」

「演算の結果、上空です」

数千メートルの海と厚い氷の下で、その言葉は迷いなく、一つの場所を指していた。

月だった。

ミナトは、カーネリアの核から発見した寄生構文を思い出した。外部に残された痕跡だけでは、まだ推測にすぎなかった。

今、その命令網を内部から観測したイナンナが、同じ結論を持ち帰った。

「書き換えられていた命令の内容は、読めたんですか」

ミナトが尋ねると、イナンナは頷いた。

「一部を復元しました。特に改変率が高かったのは、残響を持つ人間への指令です」

「残響――エコーズのことか」

「肯定。お父様の命令記録では、高情報密度因子保有者と分類されています」

ミナト、朱音、佐紺の三人へ、水色の目が順番に向けられる。

「お父様の原文は、『対象を確保し、感情情報を月の観測圏から退避させよ』です。方法は、人間を保護するものではありません。対象から感情を分離し、お父様の内部へ隠す指令です」

「やっぱり、心を奪うこと自体は、オルドゥスの命令なんやな」

朱音の声が硬くなる。

「肯定。ですが、対象の死は目的に含まれていません」

イナンナは淡々と続けた。

「三年前から追加された外部構文により、確保に失敗した場合の分岐が書き換えられています。改変後の指令は、『確保不能時、対象を排除せよ』です」

ミナトの呼吸が止まりかけた。

契約を切られた夜、倉庫街の搬入路へ追い込まれたときの光景が戻ってくる。

最初、ミルメクスの腕は、対象を捕らえて逃がさない形へ開いていた。ツクヨミが現れ、捕獲が失敗した直後、その腕は人間の身体を貫くための尖端へ変わった。

捕獲から殺害へ、目的が切り替わった瞬間だった。

あれは、オルドゥスの本来の指令ではなかった。

壊れた方法ではあっても、オルドゥスはミナトの感情を月から遠ざけ、自分の内側へ退避させようとしていた。その命令網へ月が寄生し、確保できないなら本人ごと消せという分岐を加えたのだ。

「……わしと、同じか」

ツクヨミが静かに言った。

「わしへ温かな声を送り、心臓を差し出させようとしたように、あやつの壊れた命令網へも、自分の言葉を潜り込ませておったのじゃな」

イナンナは、しばらく沈黙したあと、一つの問いを口にした。

「質問。あなたたちは、お父様を、どうするつもりですか」

収容室の隔壁の向こうで、深海が低く軋んだ。

月の手順に従うなら、答えは封印だった。人類の側から見れば、長く人の感情を奪ってきた怪物を、討伐すべきだという答えもある。

ツクヨミは、そのどちらも選ばなかった。

「聴きに来た」

銀色の目は、イナンナから逸れなかった。

「一万三千年前、あやつを理解する時間を持てぬまま、力で封じた男がおる。今度は撃つ前に、声を聴いてやってくれと、未来へ書き残した男じゃ」

ツクヨミは、隔壁の向こうに広がる暗い海へ視線を向けた。

さらに深い海底では、巨大な影が、損傷した身体をかろうじて動かし続けている。

「その男が残した宿題を、わしらが終わらせに来た。まず、あやつの話を聴く。撃つかどうかを決めるのは、そのあとじゃ」

イナンナは長い時間をかけて、その答えを処理した。

船の機関が生む低い振動が、三度、床を伝う。

やがて彼女は、壁面へ表示された海底走査図へ近づいた。巨大なオルドゥスの周囲には、音波、圧力、重力制御、認証信号による何重もの防衛層が編み込まれている。

イナンナは、その中の一点を指した。

「道を開きます」

いつもと変わらない、抑揚のない声だった。

「わたしは、破壊の記録を大量に保有しています。封印の記録も、お父様の中で読みました。しかし、破壊でも封印でもない接触を、観測したことがありません」

水色の目が、ツクヨミを見た。

「その差分を、最後まで観測させてください」

「うむ」

ツクヨミは頷いた。

「特等席で、見ておるがよい」

収容区画からCICへ戻る途中、コクヨウの船体を通じ、海底から届く低い振動が少しずつ強くなっていった。

それは感情でも、言葉でもない。損傷した巨大な身体が、途切れそうな生命活動を維持するたびに生じる、長く擦れた振動だった。

その周期へ触れたとき、ミナト自身の中に残されていたものが反応した。

アダマスの残響だった。

糸から記憶が流れ込んだわけではない。誓約封へ触れたときからミナトの内側へ残っていた断片が、かつて向き合った相手の気配を受け、形を取り戻しかけたのだ。

強い陽射しと、乾いた大地。熱を含んだ風の向こうで、誰かを呼ぶ低い男の声。

像になる前に消えてしまうほど短い断片だったが、一万三千年前にオルドゥスと向き合った男の記憶が、再会を前に身じろぎを始めていることだけは分かった。

ミナトは立ち止まり、頭上を見た。

もちろん、空は見えない。数千メートルの黒い海と、その上を塞ぐ厚い氷があるだけだ。

さらに向こうにある月が、昼の空へ白く浮かんでいるのか、雲に隠れているのか、ここから確かめることはできない。

ただ、月との回線が、この海と氷によって遮られないことは、これまでの祈りで分かっていた。

回線が届いている以上、月がこちらの変化をどこまで拾っているのかは分からない。何も見えていない可能性に賭けることはできなかった。

見られているという前提で、月の手順どおりに動いているように見せながら、その内側で別の答えを選ぶ。

それが、これから始める作戦だった。

ミナトは頭上から視線を戻し、オルドゥスの巨大な影が映るCICへ向かって歩き始めた。

その夜、CICの定例で、ニサバが一枚の様式を掲げた。

「様式第九号――関係存在分類表、初版です」

全周囲ホログラムに、整然とした表が浮かんだ。

「ここ数日で判明した情報が、多すぎます。各員の理解に齟齬が出る前に、一度、線を引きます」

彼女の指が、表の上をまっすぐに動いた。

「分類は、四つ。第一に――『親』。月と、オルドゥス。系統は最上位。相互の関係は」

ペン先が、空欄を叩いた。

「……不明。月はオルドゥスを『兄』と呼びますが、裏付けは未取得です。よって、空欄のままとします」

「第二に、『子』。親が自らの身体を削って生んだ、独立した人格です。カーネリア様。イナンナ様。……そして構造の上では、ツクヨミ様の人型の器も、コクヨウの『子』に相当します」

「第三に、『道具』。人格を持たない、遠隔の端末。ミルメクス。製造元はオルドゥス。使い捨てで、判断をせず、手順を反復します」

「第四に――『変えられた同類』。レヴィアタン。元はコクヨウと同じ、独立した存在。それが改造され、命令網に繋がれ、感情の器にされたものです。……『道具』では、ありません。ここを、混同なさいませんように」

朱音が、腕を組んで表を眺めた。

「……ほな、あれやな。親が二人おって、姪っ子が二人おって、操り人形がようけおって、あと――攫われて働かされとる親戚がおる、っちゅう家や」

ニサバは数秒、様式と朱音を見比べた。

「……乱暴ですが、正確です。備考欄に採用します」

イナンナが、表の一点を見て、小さく手を挙げた。

「確認を要求します。わたしとお姉様は、自分を『道具』と分類してきました。……この表では、『子』の欄なのですね」

「ええ」

ニサバは、事務の顔のままで言った。

「様式上、そうなります。……様式は、嘘を書けませんので」

水色の目が、数秒、演算に沈んだ。

「……記録します」