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第三章 壊れた親と、鎖の子ら

幕間

陸にて

時間は、コクヨウが進路を真北へ定める数日前まで遡る。

それは、カーネリアを救出したコクヨウが、北方海域で航行を止めていた頃のことだった。

八代恭一郎は、人の瞬きを数える男だった。正確には、意識して数えようとする前に、相手がどのくらいの間隔で目を閉じるのかを、身体が勝手に覚えてしまう。逢魔の交渉役として三十年、言葉の内容よりも先に、話している人間の身体が何を語っているかを見る癖が染みついていた。

人は言葉ならいくらでも飾ることができる。だが、瞬きの間隔や、左右どちらの足へ重心を預けているか、湯呑みへ手を伸ばす速さまで、完全に偽るのは難しい。すべてを意識して制御できる者もいるが、その場合は、自然に動いている人間とは別の硬さが身体へ現れる。

その朝、専属運転手は、七分間の乗車中に二度しか瞬きをしなかった。

十一日前まで八代の車を運転していた男は、赤信号で停車するたび、何度か無意識に目をしばたたかせていた。今の運転手が瞬きをしたのは、どちらも八代が話しかけた直後である。目が乾いたから閉じたのではなく、人間らしく振る舞うために、瞬くことを思い出したような間だった。

「今日は、冷えますね」

八代は後部座席から、いつもと変わらない穏やかな声で話しかけた。

「はい。夕方から雪になるそうです」

声も、返事をするまでの時間も、何一つ不自然ではなかった。ただ、自然であろうとするあまり、わずかな言い淀みも、気分による揺れもない。八代は窓の外へ視線を戻し、頭の中の帳面へ静かに記録を加えた。

運転手、交代から十一日。七分間で瞬き二回。こちらを観察中。

変わったのは運転手だけではなかった。先週から専属になった秘書の一人、財団本部で夜間清掃を担当する二人、八代が長年通っている喫茶店へ新しく入った店員。この一月ほどのあいだに、彼の日常は、瞬きの少ない目に幾重にも囲まれていた。

八代は、それを不快には思わなかった。敵が人員を割いて監視しているということは、八代には見張るだけの価値があると認めているということだ。そして、自分が見られていると知っている者にとって、監視網は檻ではない。役者の立ち位置を明るく照らしてくれる、舞台の照明だった。

港で月の使者と接触した夜から、八代は、その照明の下で一つの役を演じ続けている。

亡き妻の姿を餌として差し出され、死者を取り戻せるという誘惑へ抗えず、少しずつ月の側へ堕ちていく男。妻を失った悲しみに負け、長年守ってきたものを裏切ろうとしている、老いた交渉役。

その日も、八代は役を崩さなかった。昼の重役会では、コクヨウ捜索網の「拡充」を提案し、衛星観測、海上レーダー、民間船舶からの通報体制を組み合わせた新たな探索計画を提出した。資料は専門家が見ても隙がないほどよくできていたが、流氷や悪天候によって観測精度が落ちることを理由に、高緯度の海域だけが、さりげなく優先度の低い範囲へ移されている。

コクヨウが北へ向かっていると知らなければ、意図的に作られた穴だとは気づけない。少なくとも、逢魔の正規の情報系統で、現在の航路を正式に知らされている陸上要員は八代だけだった。

ただし、それはあくまで正規の系統に限った話である。

月がどこまで船を捉えているのか。財団内部に、正規の報告を通さず情報を得ている者がいないのか。そこまでを、八代は断定していなかった。知らない経路の存在まで否定するほど、彼は自分の組織を信用してはいない。

それでも、会議の席で異議を唱える者はいなかった。八代は誰にも見咎められないまま、書類の上に北方海域への小さな抜け道を残した。

夕方になると、八代は妻の眠る墓地へ立ち寄った。月の使者との接触が始まってから、墓参の回数は意図的に増やしている。亡き妻への未練を募らせ、月が差し出した誘惑へ少しずつ呑まれていく男の変化を、監視者へ見せるためだった。

八代は墓前へ白い花を供え、少し傾いていた一本を指先で整えた。

――すまないな。君を、看板に使って。

胸の内でだけ詫びても、墓石は何も答えない。生前の妻も、八代が危険な仕事へ向かうとき、細かな事情を問い詰める人ではなかった。少し呆れたように笑い、曲がったネクタイを直してから、「行ってらっしゃい」と送り出す人だった。

もし、今も隣にいたなら、今回も同じように送り出しただろう。そう思えることだけが、妻の名を芝居へ使う八代に残された、わずかな救いだった。

深夜の埠頭に、光はいつも音もなく現れた。

倉庫が並ぶ谷間に、複数の監視カメラの画角からわずかに外れた場所がある。潮の匂いが漂う暗闇へ細かな光の粒が集まり、やがて、現代的なスーツを着た細身の青年の輪郭を編み上げていく。

能面を思わせる整った顔には表情がなく、開かれた目は、瞬きを必要としていなかった。

「定時連絡を開始します」

月の使者は、挨拶も前置きもなく本題へ入った。この定例連絡が始まってから、九度目の夜だった。

「コクヨウは北上を継続しています。針路は封印海域。到達は数日以内と予測されます」

「……順調、ということですね」

「はい。妹神は、手順を受領しました。兄神の封印完了と同時に、計画は最終段階へ移行します。その完了後、あなたの妻の再構成が開始されます」

八代は、月の使者へ向かって深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

声をわずかに震わせる。大きく震えさせれば、悲しみを演じていることが見える。平静すぎれば、妻を取り戻せるという話に心を動かされていないと判断される。八代は、港で接触して以来、月へ堕ちていく男に必要な震えの量を、一度も変えていなかった。

頭を下げたまま、思考だけを冷静に動かす。

月の使者は、コクヨウの北上を、計画どおりに進んでいると認識している。ツクヨミが手順を受領したことも把握しているが、その後に船内で何が起きたかは知らない。つまり、海の上で行われている芝居は、まだ見破られていない。

もう一つ、八代が注意深く拾ったのは、「再構成」という言葉だった。

月の使者は、復活とも蘇生とも言わない。九度の定例連絡で、一度として表現を変えず、妻を「再構成する」とだけ述べてきた。

月は、恐ろしいほど正確だった。

死者本人が戻るとは、一度も約束していない。生前に観測した姿、声、反応、記憶を材料として、妻と同じように振る舞うものを編み直す。それを再構成と呼び、八代が「妻が帰ってくる」と受け取ることだけを止めない。

嘘をつかずに、人を欺く。

その正確さこそが、月の持つ最も深い毒だった。

だから、八代も月の使者へ嘘をつかなかった。この相手へ明確な虚偽を口にすれば、長くは通用しないだろう。八代を守ってきたのは、真実を隠すことではなく、どの真実を、どの順番で、どの角度から差し出すかという選択だった。

「一つ、確認させてください」

八代は顔を上げた。

「先日お伝えした、財団内部の不穏分子についてですが、処分の判断は」

「不要と判断されました。観測の結果、あなたの行動は計画に寄与しています」

「……恐縮です」

それも、八代にとっては重要な情報だった。月の側は、今も八代を自分たちの計画に役立つ人間だと判断している。少なくとも、彼の忠誠を疑い、排除しようとはしていない。

定例連絡は、通常なら五分ほどで終わる。その夜も、必要な報告を終えた月の使者は、すぐに光へ戻って消えるものと思われた。

しかし、青年は動かなかった。表情のない顔を八代へ向けたまま、長い沈黙へ入る。

八代は急かさずに待った。月の使者の沈黙は迷いではなく、演算に要する時間だ。沈黙が長いほど、内部で処理している問いが、通常の規則へ収まらないことを示している。

「質問」

やがて、月の使者は口を開いた。

「人間は、応答しない相手へ、なぜ祈り続けることができるのですか」

八代の呼吸が、半拍だけ深くなった。

予定にない問いだった。九度の定例連絡で、月の使者が作戦や任務と直接関係のない疑問を口にしたのは、これが初めてである。

そして、その問いがどこから生じたのか、八代にはすぐに分かった。

月は、今、誰かの祈りを観測している。その祈りの中に、自分の演算規則では説明できない何かを見つけ始めている。

危険な兆候であると同時に、得難い情報だった。

「……信じたいものが、あるからでしょう」

八代は、正直に答えた。

「応答がなければ、信頼の根拠は更新されません。根拠を失った信頼を維持する行為は、非合理です」

「ええ。非合理です」

八代は頷いた。

「ですが、祈りは取引ではありません。応答は、差し出したものに対して支払われる対価でもないのです」

月の使者は動かない。八代は、相手の反応を待たずに続けた。

「人は時に、返事がないと分かっていても、何かを差し出し続けます。差し出した結果、何かを受け取るためではありません。祈ること自体が、その者の生き方になっているからです。相手が応えてくれるかどうかとは、別のところで」

月の使者は、再び沈黙した。先ほどよりも長い演算だった。

「……記録します」

最後にそれだけ告げると、青年の身体は光の粒へほどけ、夜の埠頭から消えた。

潮の匂いだけが残った暗闇で、八代はしばらく動かなかった。今の問答は、月の使者を介して月へそのまま届けられる。月の巨大な演算のどこかへ置かれ、すぐには意味を持たないまま保存されるのだろう。

それでよかった。

毒に満ちた海へ、真水を一滴だけ垂らす。その一滴が、いつか別の一滴と出会い、何かを変えるまで、同じことを繰り返すしかない。

それが、陸に残った八代の仕事だった。

執務室へ戻ったときには、午前二時を過ぎていた。

八代は上着も脱がず、机の前へ立った。壁際には、コクヨウへ送る報せを記録するための投影装置が置かれている。その夜は、次の定期報告を録画すると決めていた。

録画前の準備は、すでに儀式に近くなっていた。

まず、昼のうちに作成しておいた原稿を、声に出さず三度読み返す。補給計画、回復者の経過、財団内部の近況。どの一文も、月の監視下で読まれることを前提に作られ、文字どおりの意味を知られても問題がないよう整えてある。

次に、鏡の前へ立つ。

ネクタイへ指を伸ばし、結び目の緩みを確かめる。少し緩んでいたが、八代は締め直さず、触れただけで手を下ろした。

港で月の使者と接触した夜から、八代はこの癖を封じている。

言うべきでないことを口にしかけたとき、無意識にネクタイを締め直す。三十年をかけて染みついた、彼自身の癖だった。

監視者の目には、癖の消えた八代は、迷いを捨てて月へ従った男に見えるだろう。しかし海の上には、過去の報せを保存し、八代の所作を比較できる者たちがいる。

癖が出ないことこそが、船へ送る最初の伝言だった。

今の私は、すべての動きを意識して制御している。これは普段の八代ではなく、演技をしている八代だ。そう読み取ってもらうための、不在そのものを使った符号だった。

八代は、机の上に置かれた写真立てを伏せた。

妻の写真は、もともとカメラの画角には入らない。伏せる必要などない。

それでも、これから行う芝居を、妻の顔に見せたくはなかった。

カメラの前で指輪へ触れ、死者への未練から月へ屈した男を演じる。妻を取引材料として差し出されたことを、船へ伝えるために。

演技へ、本物を混ぜない。それが三十年間、人の嘘と真実のあいだに立ち続けた男に残された、最後の衛生だった。

「……行ってきます」

伏せた写真へ小さく告げ、カメラの前へ立つ。

録画が始まった。

『皆さん、お変わりありませんか。八代です』

柔らかな声だった。疲れは滲んでいるが、決して崩れない微笑みを保ちながら、補給の見通し、回復した百十七名の経過、財団内部の当たり障りのない動きを、淀みなく報告していく。

その途中、一度だけ、組んだ両手の上で、右の指先が左手の薬指へ触れた。

一秒にも満たない所作だった。

監視者が見れば、亡き妻を思い出した男の、無意識な動きに見える。

船の解析室で過去の報せと比較すれば、敵が八代へ差し出した取引材料は妻である、という開示になる。

一つの動きで、二つの観客へ、異なる意味を届ける。三十年間磨いてきた技術を、一秒にも満たない動作へ圧縮した符号だった。

報告が終わりへ近づいた。

原稿では、「それでは、どうかご無事で」と結ぶ予定だった。

八代は半瞬だけ迷った。その迷いをネクタイへ逃がすことはせず、決められた台本から、一歩だけ外へ出た。

『……最後に、年寄りの繰り言を一つ』

声の調子は変えなかった。

『長く交渉の仕事をしておりますと、本当に大事な局面で人を救うものは、手順書に書かれていないのだと痛感します』

カメラの向こうを、静かに見据える。

『皆さんの選ぶ道が、手順書の外にあることを祈ります』

月が聞けば、老いた交渉役の感傷にすぎない。

船が聞けば、意味は一つだった。

月から与えられた手順に、従うな。

『それでは。……どうか、ご無事で』

録画が終わると、八代は長く息を吐いた。伏せていた写真立てを元へ戻し、妻の顔をしばらく見つめてから、執務室の灯りを消した。

録画した報せを収めた伝令器が海へ放たれたのは、翌朝だった。

同じ日の夕刻、八代は、財団の通信網から完全に切り離された古い端末を、執務室へ持ち込んだ。端末そのものには通信機能がなく、情報は一度しか復号できない記録媒体へ保存され、逢魔の古い伝達経路を通じて手元まで届けられている。

差出人は、逢魔の系譜に属しながら、九十九財団の名簿には載っていない老調査人だった。ミナトをコクヨウへ送り届けた直後、八代が個人的に依頼していた調査の最終報告である。

件名は、事務的だった。

――黒金ミナト氏、契約解除の経緯について。最終報告。

八代は執務室の施錠を確かめ、室内の電子機器がすべて停止していることを確認してから、記録を開いた。

調査の対象は、ミナトの契約解除の原因となったシステム障害だった。

顧客のシステムへ行われた外部攻撃は、複数の国と企業の端末を経由し、侵入経路の痕跡も幾重に洗浄されていた。ミナト一人へ責任を負わせるためだけに行われたとは思えないほど、手の込んだ攻撃だった。

老調査人は時間をかけ、幾重にも洗浄された侵入経路を、一層ずつ剥がしていった。

最後に残ったのは、犯人の名前でも、使用された端末の所在地でもなかった。

攻撃経路の途中で、一度だけ使用された認証情報だった。

九十九財団の内部管理網でしか発行できない、高位権限の認証鍵。

外部から盗まれたものではない。少なくとも攻撃が行われた時点では、財団内部の正規の仕組みを通じて発行され、短時間だけ使用された形跡が残っていた。

どの端末から発行されたのかは分からない。記録は意図的に欠落させられ、接続元を示す情報も、複数の内部中継を通して消されている。役員、技術部門、警備部門、あるいは、それらの権限を一時的に借りられる者。候補を狭めるには、まだ材料が足りなかった。

それでも、一つだけ動かない事実がある。

――内側だ。

月とつながっている者が、九十九財団の内部にいる。

必ずしも役員とは限らない。高位の権限を持つ本人かもしれず、その端末や認証を管理する部下かもしれない。あるいは、財団の仕組みそのものへ、八代たちの知らない入口が作られている可能性もあった。

ミナトが職場から追い出されたのは、不運でも、上司の無責任だけでもなかった。残響の性質を持つ者を社会から切り離し、守る者も、捜す者もいない状態へ追い込む。ミルメクスが狩りやすい形へ、最後の環境を整えるために行われた工作だった。

「……あなたは、狙われる前から、逃げ道を削られていたのですね。ミナトさん」

誰もいない執務室で、八代は呟いた。その声には、その夜初めて、演技ではないものが混じっていた。

八代は報告内容を記憶すると、一度限りの記録媒体を端末から抜き取った。端末上の復号領域を完全に消去し、媒体そのものも工具を使って割る。破片は、互いに結びつけられないよう、別々の処分経路へ回すことにした。

内通者はいる。だが、どの階層に、どの立場で潜んでいるのかは分からない。

役員だけを疑えば、その補佐役を見落とす。技術者だけを調べれば、他人の権限を使わせた指示者を逃がす。ここで範囲を狭めること自体が、相手の望む誤誘導かもしれなかった。

性急に名前を挙げれば、無実の者を敵へ追いやり、本物の内通者には地下へ潜る時間を与えるだけだ。

次に船へ送る報せには、この事実を織り込まなければならない。ただし、文面へ直接書くことはできない。監視者に読まれず、船にいる者だけが意味を拾える形へ変える必要がある。

――あなた方が帰ろうとしている岸辺には、腐った杭が一本ある。

八代は、その杭がどこに打たれているのかを、まだ知らなかった。

その警告を、どのような言葉や所作へ変換するか考えながら、八代は上着を着直した。

窓の外では、月が昇り始めていた。

いつもより明るく、大きな月だった。通りを歩く人々が足を止め、夜空を見上げている。ガラス越しにも、「綺麗だ」と話す声が聞こえてきそうな、白く澄んだ月だった。

八代は見上げなかった。

誰も見ていない執務室で、緩んでいたネクタイを、素の癖のまま一度だけ締め直す。

それから、瞬きの少ない運転手が待つ車へ向かい、月へ堕ちていく男の顔で、静かに階段を下りていった。