第三章 壊れた親と、鎖の子ら
二十九
客人
コクヨウは、それから数日、航行を止めることになった。爆縮海域から十分な距離を取り、流氷の少ない海域に船体を留める。熱と衝撃によって傷ついた外殻の修復と、移されたばかりのカーネリアの身体の安定、オルドゥスへ接触するための準備を優先した。
その一方、船内では、これまで一度も想定されていなかった問題が持ち上がっていた。
「ですから、現在の規程体系には、該当する区分が存在しないのです」
ニサバは端末を睨みながら言った。
議題は、一人の赤い髪の少女を、船内でどのように扱うかだった。
「捕虜には該当しません。拘束も、武装解除の強制も行っていません。客人とするには正式な招待がなく、乗員として登録するための経歴、所属、本人の申請もありません」
項目を順番に消していく。
「漂流者、遭難者、亡命者、保護対象者。いずれも、既存の要件を満たしていません」
「ほな、なんなん。あの子」
朱音が尋ねる。
「該当なしです」
ニサバは眼鏡の位置を直した。
「現行規程が、完全に沈黙しています」
「規程が黙っとる間にも、本人は廊下うろうろしとるで。ダスラさんに見つかるたび、めちゃくちゃ怒られながら」
「……新様式を起案します」
ニサバは諦めたように新規書式を開いた。
題名の欄へ指を置き、しばらく考える。
――特別客人受入様式・第一号。
「客人なんや」
「招いたわけではありませんが、拾いました。拾った以上、寝床と食事を提供し、船内での安全を保障しています。運用上は、客人として扱うのが最も近いでしょう」
「規定外、増えたなあ。最近」
「……ええ」
ニサバは否定しなかった。
「第一号ばかりが増えていきます」
規程が悩んでいるあいだに、現場は先に動き始めていた。
◇
修理作業の音が響く機関区画で、赤い髪が一人、所在なさげに立っていた。
医務室にいてもダスラから安静にしろと言われ、客室へ案内されても落ち着かず、船内を歩き回った末に、一番温度の高い機関区画へたどり着いたらしい。
「おい、そこの赤いの」
ロタが声を投げた。
「……なに」
「あんた、熱を扱うのだけは得意なんだろ」
ロタは、熱で歪んだ装甲板の山を顎で示した。
「昨日、あんたに焼かれたところだ。歪みを戻すには、場所ごとに温度を変えながら炙る必要がある。うちの炉で順番にやれば、三日はかかる」
赤い髪の少女を、まっすぐに見る。
「手伝いな」
「……は?」
カーネリアは目を丸くした。
「あたし、敵だったんだよ。昨日まで、あんたたちを沈めようとして――」
「その焦げ跡を付けたのも、あんただろ。付けた本人が直すのが一番早い。理屈だよ」
「理屈って……」
「それとも、巨艦の身体を失くしたら、細かい熱は扱えないのかい」
「できるし!」
カーネリアの掌に、赤い光が灯った。
巨艦だった頃のように海を蒸発させる出力はない。だが、掌の中に生まれた熱は、機関区画にあるどの炉よりも精密に制御されていた。
「上等」
ロタは笑い、歪んだ装甲板を一枚、カーネリアの前へ置いた。
「うちの科はね、口より先に手を動かすやつを重用する。まずは、この歪みからだ。摂氏八百二十度、指二本分の幅で炙りな。できるかい」
「そんなの」
カーネリアは装甲板の前へしゃがみ込んだ。
二本の指先が、指定された温度へ正確に灯る。
「朝飯前だし」
その日から、機関区画の片隅には、赤い髪の少女が姿を見せるようになった。
◇
正式な事情聴取は、翌日に設定された。
そして、開始から十分も経たず、完全に行き詰まった。
「質問を繰り返します。オルドゥスの現在の稼働状態について、把握している範囲でお答えください」
「やだ」
「回答を拒否する理由を、伺ってもよろしいですか」
「尋問みたいでムカつく」
カーネリアは椅子の上で膝を抱え、ニサバから顔を背けている。
ニサバが用意した聴取様式は、回答欄の三行目から一文字も進んでいなかった。
「……一度、休憩にしませんか」
見かねた朱音が口を挟んだ。
「休憩時間は、予定では十五分です」
「その十五分、この子、うちに貸して」
「貸す、とは」
「場所変えて、聴取の続きしたる」
朱音が選んだ場所は、遊技室だった。
「……なに、ここ」
「ゲームコーナー。ほら、座り。対戦や」
返事を待たず、カーネリアを対戦格闘ゲームの筐体へ座らせ、自分も隣の席へ着く。
「あたし、こんなの、やったことないんだけど」
「レバーで動く。ボタンで殴る。以上。ほな、始めるで」
一戦目は、三十秒で終わった。
カーネリアの完敗だった。
「……は?」
「はい、二戦目」
二戦目も負けた。
三戦目、四戦目と続けても、朱音のキャラクターへまともな攻撃すら届かない。
「ちょっと待って! 今のずるい! 下がるふりして、急に殴った!」
「読み合いや。文句あるなら、次は読み返してみ」
「やる! もう一回!」
五戦目を過ぎる頃には、カーネリアは完全に画面へ食いついていた。
十戦目で、筐体の過熱警告が点滅を始める。集中に引きずられ、レバーを握る掌から熱が漏れているのだ。
「ほんで?」
十二戦目の読み込み画面で、朱音は画面を見たまま尋ねた。
「イナンナちゃん、今どうしてんの」
「直衛区画。お父様の、一番近く。保管されてる」
カーネリアも、画面を見たまま答えた。
攻撃してよい場所を与えられたことで、身体の熱だけでなく、口元の力も少し抜けている。
次のラウンドが始まった。
「でも、連れていかれたっていうのは、正確じゃないんだよね」
「どういうこと?」
「あの子、自分から戻ったの」
カーネリアはレバーを忙しく動かしながら続ける。
「『わたしが最後に観測するべきものは、お父様です』とか言って、そのまま北へ歩いて帰った。直衛区画に入れられたのは、そのあと」
「自分から……」
「馬鹿だよ。何を見ても、何を言っても、あれは何も返してくれないのに」
朱音の入力が、コンボの途中で半拍遅れた。
その隙に、カーネリアの攻撃が初めてまともに入る。
「入った! 見た!? 今の!」
「見た見た。ええ蹴りやったわ」
朱音は笑いながらも、今の言葉を頭の隅へ残した。
十五戦目。
今度は朱音から、もう一つ問いを置く。
「オルドゥスって、どんくらい強いん。うちら、これから会いに行くんやけど」
「強いっていうか……」
カーネリアはレバーを動かしながら、言葉を探した。
「あれ、ほとんど動けないんだよね」
「動けへん?」
「目を覚ましたのは三年前。でも、身体がもう駄目なの。一万三千年も封じられて、あちこち死んでる。北極の底から、ほとんど動けない」
「だから、遠くにある腕を使う。あんたたちがミルメクスって呼んでるもの。あれは全部、お父様が遠くを触るための手足。レヴィアタンは、もともとお父様の身体だったわけじゃないけど、今は命令網につながれてる。本体はずっと、北極の底で寝たきり」
「あんたたちの解析で、出たんでしょ。あたしたちが作られたの、封印の直前だって」
カーネリアの視線は、画面から動かなかった。
「お父様は、あたしたちを娘って呼んでたけど。……作られて、すぐだった。まともにお父様と話せた時間なんて、ほとんどないんだよね」
口調は素っ気なかった。
だが、レバーを握る指に、わずかに力が入っていた。
それ以上は話さなかった。
一万三千年という時間だけが、言葉の切れた場所へ残った。
朱音のレバーが止まった。
画面の中のキャラクターが、棒立ちのまま蹴り飛ばされる。
「勝った! 初勝利!」
カーネリアは立ち上がりかけ、それから朱音を睨んだ。
「……って、今の手抜きでしょ!」
「ちゃうちゃう。ちょっと考え事しただけや」
「絶対手抜き!」
「次は本気でやる。それでええやろ」
北極海底で動けず、遠隔の手足だけを動かしている、寝たきりの魔王。
朱音の中で、オルドゥスの姿が、これまでとはまるで違う形を取り始めていた。
◇
事情聴取――もとい、対戦中に得られた情報は、その日の夕方に共有された。
「イナンナは、自らの意思でオルドゥスのもとへ戻った。その後、直衛区画に置かれている。オルドゥス本体は北極点付近の海底からほぼ移動できず、レヴィアタンとミルメクスを遠隔の手足として使用している」
ニサバは、内容を一つずつ様式へ書き込んだ。
「以上が、本日の聴取結果です」
備考欄の前で、指が止まる。
少し考えたあと、
――聴取形式:対戦格闘ゲーム、計三十一戦。
と、几帳面に書き加えた。
「もう一つ、確認しておきたいことがあります」
ミナトが口を開いた。
「カーネリアの巨艦に組み込まれていた、自壊機構についてです」
卓上の空気が重くなる。
《思想汚染ヲ検知。鹵獲状態ト判定》
あの無機質な警告音を、誰もが覚えていた。
「カーネリアは、あの機構を、自分が不要だから組み込まれたものだと受け取りました。敵に奪われるくらいなら壊れろと、最初からそう作られていたのだと」
ミナトは、記録された発動条件を卓上へ表示した。
「俺も最初は、同じ意味に聞こえました。ですが、条件を正確に読むと、単純な廃棄命令とは少し違います」
「思想汚染と、鹵獲」
佐紺が文字を読む。
「敵に捕らえられ、内部を書き換えられる可能性が生じた場合のみ発動する」
「はい。オルドゥスにとっての敵が誰なのかを考えると、別の読み方もできます」
ミナトは慎重に言葉を選んだ。
「カーネリアたちを捕らえ、自分の兵器へ作り変えようとする存在。現時点で考えられるのは、月です」
誰も口を挟まなかった。
「自壊機構は、娘を捨てるためではなく、オルドゥスが想定した鹵獲者が月だった可能性があります」
「親心ってこと?」
朱音が眉を寄せる。
「でも、子供そのものを爆弾にしてるんやで。やり方、むちゃくちゃやろ」
「はい。やり方は壊れています」
ミナトは頷いた。
「でも、アダマスの手記にあった言葉を借りるなら、愛し方の手順が壊れているだけなのかもしれない」
断定はしない。
「材料は足りません。ただ、問いとして残しておく必要はあります」
ニサバは、様式の「未解決事項」の欄へ、そのまま書き込んだ。
会議卓にいた人間たちは気づかなかったが、扉の陰から赤い髪が半分だけ覗いていた。ツクヨミは、その小さな熱源がそこにいることを知っていた。それでも、追い払わなかった。
カーネリアは会議の途中から、ずっと話を聞いていた。
最後まで何も言わず、音を立てないよう扉から離れると、そのまま機関区画へ戻っていった。
その夜、彼女の熱処理は、普段よりも何度か温度を外した。
ロタは何も尋ねず、歪んだ装甲板を一枚ずつ交換した。
◇
もう一つの発見は、深夜の解析室で起きた。
ミナトは、コクヨウが呑み込んだカーネリアの核から、残留記録を読み出していた。
人格はすでに新しい身体へ転送されている。核に残っているのは、巨艦として活動していた間の戦闘記録と、オルドゥスから送られ続けた命令信号の履歴だった。
三年間、ほとんど一方通行で届いていた、父から娘への指示。
命令の本文、伝達経路、認証形式、時刻署名。
層を一つずつ剥がし、最も深い通信文法へたどり着いたところで、ミナトの指が止まった。
「……またか」
一部の命令信号の根へ、見覚えのある骨組みが絡みついていた。
規則正しい周期。
寸分違わない立ち上がり。
囮歌と、月のぬくもりに含まれていたものと同じ文法。
ただし、オルドゥスから送られたすべての命令に含まれているわけではない。古い命令にはなく、この三年間に送られた一部の命令だけへ、蔦のように別の構文が巻きついている。
命令の本文までは、核の損傷によって完全には復元できなかった。
それでも、少なくとも一つの事実は動かなかった。
オルドゥスの命令網には、月と同じ文法で書かれた何かが、外側から混入している。
ツクヨミへ更新命令を送り続けたのと同じ手口で、月はオルドゥスの命令系統にも触れていた可能性がある。
翌朝、その解析結果を見せられたツクヨミは、長いあいだ画面を見つめた。
「……わしと同じか」
掠れた声だった。
銀色の目が、北の方角へ向けられる。
「あやつも、何かを聴かされ続けておったのか」
どの命令がオルドゥス自身の意思で、どれが月の文法によって書き換えられたものなのか。
その答えは、まだ解析の先に残されていた。
◇
その夜の祈りは、これまでで最も重かった。
月から降りてきたぬくもりが、薄くなっていた。
温度が消えたわけではない。ただ、いつもの柔らかな層が何割か削られ、その奥にあった命令の骨組みが、以前よりも近く感じられる。
月からツクヨミへ、明確な手順が送られてきた。
――手順を確認します。
――兄の核へ、あなたの動力を接続しなさい。
――あなたの力で、封印の輪を閉じます。
――手順は一度きりです。間違えてはいけません。
最後に、ぬくもりが一瞬だけ、以前と同じ濃さへ戻った。
――あなたは、良い子ですね。
――昔から、ずっと。
祈りが終わった。
ツクヨミは完璧な芝居を崩さないまま立ち上がり、いつもの歩調で船内へ戻った。
甲板の扉が閉じ、月光の届かない廊下へ入る。
そこで初めて、足が止まった。
ツクヨミは壁へ片手をつき、少しのあいだ動かなかった。
「……ミナト」
「はい。波形が、いつもと違っていました。祈りの形じゃなく、命令の形をしていた」
「うむ。手順書じゃった」
ツクヨミは、月から届いた言葉を、一語も変えずに口へ乗せた。兄の核への動力接続。封印の輪。一度きりの手順。すべて、検疫室で読み解いた筋書きのとおりだった。
「それから最後に、こう言うた。……あなたは、良い子ですね。昔から、ずっと――と」
声にはまだ芝居の平坦さが残っていた。
それでも、壁へ触れている指先が、かすかに冷えている。
「わしと、あの声との付き合いは三年じゃ。今のわしにとっては、生のすべてではある。じゃが、それでも三年にすぎぬ」
銀色の目が、ミナトへ向けられる。
「昔からとは、いつからのことじゃ」
ミナトは答えを持っていなかった。
月は、現在のツクヨミではない、別の何かを知っている。
あるいは、現在のツクヨミと、過去の誰かを区別していない。
どちらなのかは、まだ分からない。
ただ「昔から」という一語だけが、氷の欠片のように喉へ残った。
◇
翌日、オルドゥスへ接触するための作戦が組まれた。
ホワイトボードには、月から伝えられた手順が順番どおりに書き出されている。
オルドゥスへの接近。
核への動力接続。
封印の輪の完成。
そして、その瞬間に起動する、コクヨウの動力コア転送。
「月の筋書きを、途中まで完全になぞります」
ミナトは、動力接続の項目へ線を引いた。
「接近も、オルドゥスとの接触も、月が指示したとおりに進める。月から見れば、餌を咥えた魚のままです」
その横へ、別の言葉を書き込んだ。
――共鳴接続。
「最後の動力接続だけを差し替えます。コクヨウの心臓を封印へ使うのではなく、オルドゥスとの通信経路にする」
「外からオルドゥスへ共鳴接続を成立させる経路がありません」
ニサバが冷静に指摘した。
「オルドゥス本体の防疫と認証は、これまでの相手とは系統が違います。レヴィアタンは、コクヨウと同じ調停者の器。同族の核だからこそ、呑めば読めました。ですが調停者の命令網は、上から下への一方通行――こちら側から本体へ開く口が、そもそも存在しません。カーネリア様の巨艦へ入れたのも、配線という物理の道があったからです。オルドゥスの門前では、そのどちらの手も通じない。近づいたとしても、入口で拒絶される可能性が高い」
「――経路なら、あるよ」
声が、扉の方から聞こえた。
全員が振り返る。
カーネリアが立っていた。
いつものように膝を抱えても、そっぽを向いてもいない。会議卓を、まっすぐに見ている。
「あたしの認証、まだ生きてるはずだから」
自分の胸元へ指を当てる。
「巨艦の核ごと、この船が呑んだでしょ。あの中には、お父様の直系認証が残ってる。直衛区画まで届く鍵だよ」
「使わせてくれるん?」
朱音が尋ねた。
「別に、あんたたちのためじゃないし」
カーネリアは腕を組み、途中で気まずそうに顔を背けた。
「妹を返してもらうんだから。直衛区画は、お父様の一番近くにある。どうせ行くなら、道は同じでしょ」
直系認証。
カーネリアの核。
コクヨウとオルドゥスをつなぐための経路。
必要だった鍵が、そこで揃った。
出発は翌朝と決まった。
オルドゥスの封印海域までは、残り一日の距離だった。
◇
その前夜、船のあちこちで、小さな支度が交わされていた。
事務区画では、ニサバが印刷したばかりの書類を佐紺へ手渡した。
作戦様式・第一号。
工程、配置、負荷の中断基準、撤収線。二人が三時間かけて詰めた、明日の作戦のすべてが記されている。
「控えです。西園寺様」
「確かに受領しました」
佐紺は用紙を確認した。
「帰投後、二人で検証会を行います」
帰ることを前提とした約束を、規程の形で差し出す。それが、ニサバの流儀だった。
佐紺は書類を几帳面に四つ折りにし、工具箱の蓋の裏へ収める。
「時間厳守で」
遊技室では、電源の落ちた筐体の前に、朱音とカーネリアが並んで座っていた。
「うちのお父ちゃんな」
朱音は、真っ暗な画面へ向かって話し始めた。
三年前、父から感情を奪われた日のこと。
話しかけても、目が合わなくなったこと。
それでも、もし心が戻ったなら、最初に呼んでほしいのは、自分の名前だと思っていること。
カーネリアは、途中で口を挟まずに聞いていた。
長い沈黙のあと、ようやく声を絞り出す。
「……取り返せると、いいね」
朱音は暗い画面に映る二人の姿を見て、少し笑った。
「うん。ええ言葉やん、それ」
ミナトの客室前には、エティンが畳んだ戦闘服を両手で持って立っていた。
襟と袖へ編み込まれた白い導光糸が、廊下の灯りを鈍く反射している。
「導光糸を編み直しました。明日の想定負荷に合わせ、翻訳と帰還経路の保持を優先しております」
「ありがとうございます」
「ミナト様」
戦闘服を渡したあとも、エティンの指はすぐには離れなかった。
「明日は、わたくしの負荷ばかりを案じないでくださいませ」
青い瞳が、ミナトをまっすぐに見ている。
「あなたの帰り道は、わたくしが持っています。ですから、わたくしの帰る分も、残しておいてください」
そして、甲板。
祈りの時刻は、すでに終わっていた。月へ向けた芝居を済ませたツクヨミは、一人で北の海を眺めている。
背後から近づく足音にも、振り返らなかった。
「……ミナト。妙な話をしてよいか」
「はい」
「わしは明日、母と信じておったものへ嘘をつきながら、敵と教えられたものを助けに行く」
夜風が銀色の髪を揺らした。
「わしは、正しいのかの」
ミナトはツクヨミの隣へ立った。
大丈夫だとも、正しいとも言わなかった。
持っていない保証を差し出さないことは、この航海の中で覚えたことの一つだった。
「……分かりません」
ミナトは、持っている事実だけを口にした。
「ただ、一万三千年前の夜にも、同じ問いを抱えて眠れなかった人がいたと思います。アダマスです」
ツクヨミは黙って聞いている。
「あの人も、自分が正しいという答えを持っていなかった。それでも、朝になったら行った。自分が持っている中で、一番ましだと思える選択をするために」
「…………そうか」
ツクヨミの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「同じ夜を過ごしておるのか。あの男と」
◇
翌朝、コクヨウは進路を真北へ定めた。
海図の先には、航路も港も陸地も記されていない。
あるのは、一万三千年前から閉ざされてきた封印海域だけだった。
「観測報告。現在の速度を維持した場合、到達は明朝です」
エイルの声に、誰もすぐには答えなかった。
窓の外では、海の色が黒から白へ変わりつつある。
流氷は次第に数を増し、気温も落ち続けていた。
コクヨウの感覚を通じ、北の方角から、低く長い振動が届いている。
機械音とも、潮流の響きとも違う。
途方もなく巨大な何かが、氷の下で、ゆっくりと呼吸しているような振動だった。
生きている。
動けないまま、北極海の底で。
ミナトは、白い海の先を見つめた。
あそこで待っているものは、敵なのか。
助けを求めている者なのか。
あるいは、その両方なのか。
答えへたどり着くまで、もう一晩も残されていなかった。