第三章 壊れた親と、鎖の子ら
二十六
業火
夜のあいだから北の水平線に立ち上っていた熱の揺らぎは、夜明けとともに、その正体を隠せなくなった。
水平線が燃えている。
朝焼けではなかった。朝焼けなら染まるのは空だ。しかし、今、赤く染まっているのは海だった。鉛色の水面が水平線の一点から沸き立ち、その上へ巨大な水蒸気の壁が、雲を突き破るほど高く立ち上っている。
「総員、戦闘配置。観測報告を開始します」
警報と同時にCICへ駆け込んだ者たちを迎えたのは、観測席に座り続けていたエイルの声だった。
「熱源、一。北方より本船へ直進。速度、約五十ノット。表面温度、約三千。周囲の海水は継続的に沸騰しており、進路上の流氷は接触前に消滅しています」
全周囲ホログラムに、熱源を中心とした海水温の分布が表示される。
赤く染まった範囲は、点ではなかった。
敵を中心に、数キロメートルもの海域が、巨大な熱の塊となって移動している。
「敵性個体の周辺では、海水温がすでに人間の生存限界を超えています。本船が有効射程へ入る前に、外殻の一部が軟化を始めると予測します」
「撃たれる前に、近づくだけで船が焼けるってことか」
朱音の声に、エイルは短く頷いた。
「肯定」
水蒸気の壁が大きく割れ、その向こうから巨体が姿を現した。
船体は、真紅だった。
亀裂から噴く光の照り返しではない。地の色そのものが、灼けた鋼の赤に染まりきっている。
形状はコクヨウと異なるが、継ぎ目のない船体と、全体を一つの塊から削り出したような構造は同じだった。しかし、その身にまとっているものは正反対だ。
コクヨウの船体を走る赤い光が、深い場所で打つ静かな鼓動だとすれば、目の前の光は、内側に閉じ込められなくなったものの決壊だった。
船体の随所に走る亀裂や放熱孔から、熔けた金属のような光が噴き出している。熱を抑えようという構造には見えない。むしろ、内部に生じた熱を片端から外へ捨てなければ、自分自身が焼け落ちる――そのために全身を開いているようだった。
燃えるような真紅の巨体は、進む先の海水を蒸発させながら、まっすぐコクヨウへ向かってくる。
「……あれ、撃つとかいう次元やないやん」
朱音が掠れた声を漏らした。
「向かってくる太陽やん……」
その直後、全帯域の通信が、外から無理やりこじ開けられた。警告表示がいくつも立ち上がり、船内のスピーカーから若い娘の声が響く。
『ねえねえ! 聞こえてる!? そこの黒いの!』
弾むような、明るい声だった。
聞く者を安心させるための明るさではない。感情が生じた瞬間、調整も濾過もせず、そのまま声になって飛び出している。明るいのに、妙に危うかった。
『あんたが、妹の言ってた「温かい船」!? あはは、本当だ。近づくだけで分かる! あっつーい!』
通信の向こうで、娘が笑う。
『中に人間がいっぱい! 小さい熱が、いーっぱい! ぜんぶ大事にしてるんだ!? 壊れないように、消えないように、抱えてさ。 へえー。 ふうーん』
笑い声が、不意に途切れた。
『――ムッカつくなあ!!』
水平線が、白く灼けた。
最初の熱線は、コクヨウを狙っていなかった。敵艦の照準系が本船を捉えるより前に、砲口から莫大な熱があふれ出し、遥か手前の海面へ落ちたのだ。
海が数百メートルにわたって消えた。
一瞬遅れて、周囲から流れ込んだ海水が超高温の空間へ衝突し、巨大な水蒸気爆発を起こす。届いた衝撃波が、コクヨウの四百メートルの船体を横から殴りつけた。
「回避を――いや、今のは外したんか!?」
「違う」
ツクヨミは、燃える巨艦から目を逸らさずに答えた。
「あれは、まだ狙うてもおらなんだ。撃ったのではない。内側に生じたものが、抑えきれずにあふれたのじゃ」
「イナンナが言っていた、燃やして捨てるって……」
「うむ。あの砲口は、敵を撃つためだけのものではない。自分の中で処理できぬものを、熱へ変えて外へ逃がすための出口でもあるのじゃろう」
コクヨウが記録した発射波形にも、兵器として整えられた収束手順は見られなかった。照準も威力調整もなく、膨れ上がった熱を、そのまま海へ放り出している。
ただし、その一度の放出だけで、海面が数百メートル蒸発した。
「戦闘形態へ移行! 総員、対熱防御を最優先じゃ!」
ツクヨミの号令に応じ、コクヨウの船体が変わっていく。
豪華客船の上部構造が装甲の下へ収納され、巨大な胸ビレと尾ビレが展開される。漆黒の表面へ赤い光が走り、四百メートルの船は、海上を駆ける獣の姿へ変貌した。
しかし、戦闘形態へ移行しても、状況が好転したわけではない。
光線を逸らす鏡面装甲は、周囲一帯を焼く熱には意味がない。質量弾を放っても、敵の周囲を覆う超高温域を通過するあいだに軟化し、弾道を保てなくなる可能性が高かった。
正面から戦えば、持たない。
その計算だけは、CICにいる全員が同じ時刻に終えていた。
◇
『ツクヨミ様!』
機関区画から、ロタの声が飛び込んできた。
『あれを使うときだよ! 今使わないで、いつ使うんだい!』
CICが、わずかに静まった。
歌い手が用いた偽像技術から作り上げた、コクヨウの抜け殻。
機関区画の隅で覆いを掛けられたまま、一度も起動されずにいた欺瞞装置だった。
視線が、ツクヨミへ集まる。
ツクヨミは燃える巨艦を見つめたまま、ほんの一拍だけ目を伏せた。
一万五千年前、コクヨウは人を欺き、誘い出して撃つための道具にされた。同じ仕組みを、今度は自分の意思で使うのか。その決定だけは自分に残してほしいと、ツクヨミ自身が望んだものだった。
銀色の目が、再び開く。
「――放て」
声に迷いはなかった。
「わしが決めた。欺くためではない。皆を生かすために使う。放て、ロタ!」
『あいよぉッ!』
船腹の一部が開き、四基の投影子が海へ射出された。
着水した投影子は、即座に音紋と熱紋を編み始める。海上へ四百メートル級の輪郭が立ち上がり、内部には、人間とセラフを模した無数の小さな熱源まで配置された。
燃える巨艦が熱で捉える世界の中で、コクヨウは五隻に増えた。
『……は?』
通信の向こうで、カーネリアの声が裏返った。
『え、増えた!? なに、なんで!? 五つ!? 全部温かい! 全部、人間の熱がする! どれ!? どれが本物!?』
CICに、小さなどよめきが走った。
「欺瞞成立。今のうちに距離を――」
ニサバが退避針路を表示しかけたとき、通信へ癇癪に似た声が重なった。
『――もういい! 分かんないなら、全部燃やす!!』
燃える巨艦の側面に並んだ放熱口が、一斉に開いた。
今度は狙い撃ちではない。海面すれすれを、複数の熱線が扇状に薙ぎ払ってくる。五隻の船影を、海ごと焼き払うつもりだった。
「デコイ三号、消失」
白い熱の帯が海面を走り、偽のコクヨウ一隻を投影子ごと呑み込んだ。
「残存デコイ、三。熱線は継続。次弾までの間隔に規則性なし」
「本物とデコイの機動を混ぜます!」
ミナトが管制系へ手を走らせる。
「ロタさん、三基の動きをこちらへ同期してください。ツクヨミ、デコイと同じ旋回角で。本物だと読ませないように!」
「うむ!」
『了解だよ!』
最初の薙ぎ払いが、水平線の左側から来た。
「熱線走査、方位二七〇。海面上十五メートルを通過します!」
エイルの報告が終わるより先に、熱線の通り道が見えた。
刃そのものは、ほとんど視認できない。
見えるのは、その軌跡だけだった。幅二百メートルほどの海面が、横一線に爆沸の壁へ変わり、その白い壁が恐ろしい速さで迫ってくる。
「面舵いっぱい! デコイ一号は逆舷へ!」
ツクヨミが船体を傾け、ロタは一号機を反対方向へ走らせた。
船が傾く。CICの床も傾く。正面の背中だけが、傾かない。
コクヨウの巨体が波を押し潰しながら旋回する。爆沸の壁は、船尾から六十メートルほど離れた位置を通過した。
直撃はしていない。
それでも、右舷後部に露出していた外部観測器が、飴のように垂れて機能を失った。
「右舷後部、外部観測器全損。外殻表面温度、八百度を超過しています」
「二射目。方位三一〇より二本同時。挟撃軌道です」
二本の熱線が、鋏のようにコクヨウとデコイ二号を挟み込もうとする。
『二号、潜るよ!』
ロタがデコイを海中へ沈めた。
熱線は空振りせず、そのまま海へ突き刺さった。水中の一点が白く輝き、直径数百メートルの海水が、半球状に蒸発する。
生じた空白へ周囲の海が雪崩れ込み、二秒後、激しい水蒸気爆発が船体を揺さぶった。
CICの床が跳ね上がり、立っていた者の半数が姿勢を崩す。天井の内張りから断熱材の破片が、雪のように降った。
「デコイ二号、消失。残存二基」
『あっはは! 潜っても茹だるだけだよ! 海なんて、あたしの前じゃ、ただの鍋!』
哄笑とともに、三射、四射と熱が放たれる。
もはやカーネリアは、個々の船影を狙っていなかった。半径数キロの海そのものを、自分の内側からあふれた熱の捨て場にしている。
海面のあちこちに、円形の白い空洞が開く。その周囲の海水が一斉に流れ込み、何十メートルもの波柱となってぶつかり合った。
水蒸気が広がり、敵艦も海も、白い闇の向こうへ消えていく。
「光学観測不能域、拡大」
「――逆や」
管制席で、朱音が目を細めた。
「湯気は、うちらだけやなく、向こうの目も塞いどる。ミナトさん、重さの変化で本体を追える?」
「コクヨウの重力観測なら見えます。本体、方位〇二〇、距離四千。水蒸気の壁を抜ける瞬間も予測できます」
「ほな、そこを叩く。ロタさん、デコイ四号を右へ走らせて。ダスラさん、槍やのうて散弾。装甲を抜かんでええ。面でぶつける!」
「承知しましたわ」
「一発、頬っぺた張ったる」
水蒸気の壁が大きく膨らみ、その向こうから、燃える巨艦の艦首が姿を現した。
「今や!」
朱音の指が照準を確定する。
コクヨウの船体から削り出された小さな質量弾が、数百発に分かれて散開した。幅五百メートルの黒い弾幕が、現れたばかりの真紅の艦首へ叩き込まれる。
削り出された分の鈍い痛みが、糸を通じてミナトの肩口を掠めた。槍一本には遠く及ばない。それでも、無償で撃てる弾は一発もなかった。
装甲を貫くほどの威力はない。
敵の周囲を覆う高熱によって、多くは着弾前に赤く軟化した。それでも、密度の高い弾体の一部が艦首へ届き、数百の火花を一斉に咲かせた。
『――ったぁ!? 全然痛くないけど! 今の、ムカつく!!』
「よっしゃ、通った」
朱音が笑った。
「効かへん一発にも、価値はあるんや。あんた今、デコイやのうて、うちらを見たやろ」
敵の意識が、本物へ向いた。
その一瞬を利用し、コクヨウは水蒸気の壁の中へ再び身を隠した。
そこから始まったのは、燃える巨艦を倒す戦いではない。
限られた二基のデコイと、濃い水蒸気の目隠しを使い切るまでに、どうにか生き延びるための、海上の鬼ごっこだった。
◇
残された時間は、デコイが焼かれるたびに短くなっていった。
失われた投影子は、その場では補充できない。偽の船影が一つ消えるたび、本物を特定される確率が高くなる。
その細い猶予の中で、全員が自分の持ち場を守り続けていた。
「朱音様。敵の射撃に、何らかの癖は読めまして?」
「読めるかい、あんなん!」
ダスラに尋ねられ、朱音は管制卓へ食らいついたまま答えた。
カーネリアは、照準が安定していない。次弾までの間隔も、狙う方向も一定ではなく、教科書どおりの予測はまるで通用しなかった。
朱音は、これまで放たれた熱線を順番に並べ直した。
三射目、四射目、五射目。
狙点には規則性がない。
しかし、熱線が放たれる直前に各デコイが何をしていたかを重ねると、別の並びが見えてくる。
「……待って」
朱音の指が止まった。
「こいつ、でたらめちゃう」
「何か、見つけましたの?」
「ムカついた相手から、先に撃っとる」
朱音は、ホログラム上の航跡を示した。
「派手に横切ったやつ、鼻先で急旋回したやつ、弾を撃ったやつ。近い順でも、当てやすい順でもない。自分を腹立たせた順番に焼いてんねん」
ダスラの目が見開かれた。
「感情の動きが、射撃順序に直結している……」
「それなら読める。弾道やなくて、腹立つ順番をこっちで作ったる」
朱音は通信を開いた。
「ロタさん、デコイ四号を敵の正面へ。鼻先をかすめて、ぎりぎりで横へ逃げて!」
『注文が細かいね! でも、そういうのは得意だよ!』
デコイ四号が、水蒸気の壁から飛び出した。
燃える巨艦の眼前を挑発するように横切り、船尾を見せつけるような軌道で逃げていく。
海に、二色の航跡が伸びた。海ごと灼きながら追う真紅と、水蒸気の幕を裂いて躱し続ける漆黒と。
『また偽物! ちょこまか、うるさい!!』
熱線が、吸い寄せられるように四号へ向いた。
反対側に生じた空白へ、コクヨウが滑り込む。
「通った!」
朱音が拳を握る。
「この誘導、残りのデコイが保つあいだは使えるで!」
「ですが、最後の一基まで失えば終わりです」
ミナトは欺瞞航路を更新しながら答えた。
「根本的な解決にはなりません。逃げ切る方法を探さないと」
その言葉を待っていたかのように、数度目の誘導へ出たデコイ四号が、振り向きざまの熱線に呑まれた。
「デコイ四号、消失。残存一基」
船内でも、別の時間との戦いが続いていた。
敵の輻射熱は、熱線が直撃していない区画まで外殻を加熱し、人間用の配線や冷却設備を端から壊し始めている。
「第六系統、許容温度を超えます」
配電区画で、ニサバが端末を確認した。
「このまま維持すれば、隣接する三系統へ延焼します」
「第六を切ります」
佐紺の判断は早かった。
「冷却能力を第四と第九へ集約し、第六の負荷は系統ごと切り離す。ニサバさん、次に危険なのは?」
「第十一。現在の上昇率なら、三分後です」
「承知しました。第六を落とし次第、十一へ回ります」
生かす系統と、捨てる系統を選ばなければならない。船の血管を対象にした、設備のトリアージだった。
同じ頃、放棄が決まった第六区画では、医療科と接遇科のセラフたちが人員を移していた。ダスラは朱音の隣を離れられない。搬出の指揮は、現場の娘たちへ委ねられていた。
「急いでください! 外殻が軟化すれば、隔壁が開かなくなります!」
赤い襟と黒いメイド服の一団が、熱を帯び始めた通路を走る。
先頭に立ち、分岐ごとに人員を振り分けているのはアヤだった。
「三班は左側を確認! 熱で扉が歪む前に、開放状態で固定してください! 絶対に転ばないで!」
港で初めて銃を握り、肩を撃たれたときの震えは、もう声に残っていなかった。
CICでは、ミナトがコクヨウと接続したまま、各区画から集まる情報を整理していた。
デコイと本物の位置、外殻の温度分布、放棄される配線、残された冷却能力。糸を介して届く船の身体感覚を、エティンが人間の理解できる情報へ翻訳し、戦闘服の金色の線が、その負荷をさらに複数の補助系統へ分散している。
「第六系統、切断されます」
エティンの両手が、ミナトの肩へ置かれていた。
「痛覚情報は、こちらで抑えます。ミナト様は経路の接続だけを」
「分かりました」
焼けるような感覚は消えなかった。
それでも、以前のように一人で船の痛みを丸ごと受け止めているわけではない。エティンが翻訳し、戦闘服が薄め、コクヨウの深層が不要な情報を切り離している。
ミナトは、残った必要な感覚だけを使って船の神経をつなぎ替え、デコイが消える時刻を予測し、次の航路を朱音へ渡し続けた。
全員が少しずつ負荷を引き受けることで、辛うじて戦線は保たれていた。
◇
終わりは、予告もなく訪れた。
「デコイ一号、消失」
エイルの声が、最後の抜け殻が焼かれたことを告げた。
海上に残された温かい船影は、コクヨウ一隻だけになった。
燃える巨艦が、ゆっくりと進路を変える。
水蒸気の壁を抜け、今度こそ迷うことなく、まっすぐこちらへ艦首を向けた。
「距離、三千二百」
『……ようやく』
通信の向こうから、癇癪も笑いも消えていた。
抑揚を失った声には、先ほどまでよりも深い熱が潜んでいる。
『捕まえた』
燃える巨艦の艦首が、縦に割れた。
花が開くように八枚の装甲が展開し、その中心から巨大な砲口が姿を現す。砲口が開いただけで、周囲の海水が蒸発しながら中心へ吸い寄せられ始めた。
「観測報告。敵艦首へ、急速なエネルギー集中を確認」
エイルの声が速くなる。
「周辺海水の蒸発量から出力を逆算――測定限界を超過しました」
「距離三千で、本船外殻温度が再上昇!」
砲口の奥に生まれた光が、白から青白へ変わり、やがて観測器が色として捉えられない領域へ移っていく。
直視した外部センサーが、次々と焼き付いて停止した。海と空の境界さえ、巨大な陽炎の中へ溶けていく。
「回避可能範囲を算出」
ニサバが演算結果を呼び出した。
表示された予測図は、すぐに全面が赤く染まった。
「照射範囲が広すぎます。左右いずれへ回避しても、有効射界から出られません」
「鏡面装甲は?」
「反射率を高めるより先に、表面が蒸発します」
「潜るんや!」
「潜水形態への移行が間に合いません!」
数秒のうちに、選択肢が一つずつ消えていった。
コクヨウは乗員を守るための配置を計算し、全員を一つの区画へ集める案、複数区画へ分散する案、防護壁へ出力を集中する案を順に試す。
どの計算結果にも、生存可能を示す表示は出なかった。
砲口の奥で、肉眼には捉えられない光が膨れ上がる。
熱線が放たれた。
全周囲ホログラムが白く染まる。
だが、白はコクヨウを呑み込まなかった。
熱ではない白が、船の眼前で爆発的に広がった。
霧だった。
放たれた熱線は、コクヨウへ届く直前で何かに衝突し、莫大な水蒸気と細かな氷の粒へ散らされていた。
霧の向こうに、巨大な影がある。
白い巨艦だった。
周囲の海を凍らせながら進む、静かな船体が、熱線の射線へ自ら割り込んでいる。
正面装甲が熱を受け、融け、蒸発する。その端から新たな氷が生まれ、失われた装甲を次々と埋めていく。
融ける速さと、凍らせる速さが拮抗し、白い巨艦そのものが、巨大な冷却壁となって熱線を受け止めていた。
真紅の光を、純白の壁が受け止め、その影に漆黒が立っていた。
艦首の先端には、小さな白い人影が立っている。
熱風と冷気が衝突する渦の中で、白いワンピースと水色の長い髪が激しくはためいていた。
「……イナンナ」
ツクヨミの声が震えた。
本体から削り出された、対話のための器。氷原で彼女自身が語ったとおり、あの小さな身体には本体があった。ツクヨミにとってのコクヨウ。それと同じ意味を持つ船体が、いま射線を塞いでいる。
通信へ、聞き覚えのある平坦な声が流れ込む。
『……姉様』
『――は!?』
熱線が止まった。
カーネリアの声が、驚きで素っ頓狂に裏返る。
『イナンナ!? あんた、何してんの!? どいて! 焦げる! っていうか、もう焦げてる! あんた、どっちの味方なの!?』
すぐには返事がなかった。
氷の艦の上で、イナンナは問いに対する答えを、一つずつ検算しているようだった。
『……分からない』
やがて返ってきたのは、飾りのない答えだった。
『分からない。けれど、あの船で、わたしは単語を一つ受領しました』
声の調子は、前日と変わらない。
それでも、白い巨艦は射線から一歩も退かなかった。
『保存領域の最深部に登録されています。その単語が、本当にわたしの内部反応と一致するのか、検証はまだ終わっていません』
白い装甲が大きく軋み、融けかけた箇所を再び凍らせる。
『検証が完了するまで、燃やさせません』
『な……あんた、それ、命令違反……!』
カーネリアの声から、怒りの勢いが崩れていった。
命令に従うはずの妹が、自分の前へ立っている。処理できない出来事が新たに生じ、熱へ変えるべき感情の行き先を見失っているようだった。
そのとき、北方から強い指向性信号が飛来した。
「観測報告。外部命令信号、一。発信方向、北」
エイルの指が観測卓を走る。
「同一の信号が、二隻へ同時に照射されています。応答手順のない、一方通行の命令構文です」
『……お父様』
カーネリアの声から、コクヨウへの関心が瞬時に消えた。
『帰るよ、イナンナ! お父様が呼んでる!』
燃える巨艦が急旋回し、艦首を北へ向ける。
白い巨艦も、しばらくコクヨウとのあいだに留まっていたが、やがて静かに船体を反転させた。
去り際、艦首に立つ白い点が一度だけこちらを振り返ったように見えた。
二つの巨影は、現れたときと同じ唐突さで北へ加速し、水平線の彼方へ消えていった。
あとに残ったのは、沸き立つ海と、濃い霧と、傷だらけのコクヨウだけだった。
◇
勝ったわけではなかった。
四基の投影子はすべて失われ、船体の広い範囲が熱による損傷を受けた。人間用の設備も複数の系統が焼け、治療ポッドには、再び眠る者が出ている。散弾として削り出した質量も、海水から鉄を集め直すまでは戻らない。
コクヨウは、ただ生き延びた。
夜のCICで、応急修復の報告を聞き終えたツクヨミが、北の闇を見つめながら呟いた。
「……あの姉妹は、壊せぬ」
「そら、あんだけ強かったら、倒すんも難しいやろけど」
「違う」
朱音の言葉に、ツクヨミは首を振った。
「強さの話ではない。壊してはならぬのじゃ」
「イナンナの芯へ一瞬だけ触れたとき、指先をかすめたものがあった。あれとよう似た気配が、カーネリアの芯からもしたのじゃ。同じものかどうかは、わしには断じられぬ。じゃが――宛先を失うたまま長く捨て置かれた何かが、あの子の熱の奥で燻っておるように思えてならん」
ツクヨミの声が、わずかに低くなる。
「もしそうならば、あれを壊すことは、誰かに捨てられた心を、もう一度わしらの手で捨てることになる。その疑いが晴れぬ限り、壊すのはこの船のすることではない」
反対する者はいなかった。
その夜遅く、廊下を歩いていたミナトは、観測室から出てきたエイルに呼び止められた。
「解析が終了しました」
エイルが差し出した端末には、複雑な波形が表示されている。
「カーネリアの熱紋に含まれていた基底波形です。熱線の表層ではなく、その形を組み上げている最深部の構文を抽出しました」
エイルの指が、波形の終端を示す。
「構成素材がコクヨウと同系統であることは、すでに判明しています。ですが、この箇所には、素材の違いでは説明できない編み方の特徴があります」
「もう一つ、製造年代に関する記録を復元できました」
エイルは、波形の横へ新しい表示を開いた。
「カーネリアの核には、生成時の時刻情報が残されています。現在から、およそ一万三千年前。誤差を考慮しても、オルドゥスが封印された時期と、ほぼ一致します」
「封印された頃に、作られた?」
朱音が聞き返した。
「より正確には、封印の直前です」
エイルの指が、カーネリアの核を構成する基底波形を拡大する。
「材料の供給元も判明しました。外部から運び込まれたものではありません。カーネリアの核と巨艦本体は、オルドゥス自身の構成物質から分離され、編み直されています」
「……自分の身体を、削ったんですか」
ミナトが尋ねた。
「はい」
エイルは頷いた。
「同じ製造記録を、イナンナの残留波形からも確認しています。姉カーネリア。妹イナンナ。二人は、一万三千年前、オルドゥスが封印される寸前に、自らの身体を削って生み出した直系端末です」
拡大された基底波形を、ミナトはじっと見つめた。
力を逃がす経路が一度外へ膨らみ、最後の結びだけが必ず内側へ折り返されている。
ミナトは、その形を知っていた。
誓約封の表面。
図書館を覆っていた封。
アダマスの記録に触れるたび、指先で確かめてきた、あの結び方だった。
「……図書館の封と、同じだ」
「はい」
エイルは頷いた。
「アダマス様が図書館へ使用した封印技術と、同じ文法です。ただし、アダマス様ご本人が姉妹を設計した証拠にはなりません。アダマス様が学んだ技術と、姉妹を作った技術が、同じ出所を持つ可能性もあります」
それでも、偶然で片づけられる一致ではなかった。
敵の中枢と、味方の始祖が残した図書館。
二つのあいだに、これまで見えていなかった経路がある。
ミナトは端末を持ったまま、図書館が保管されている船体中央部へ向かった。エイルも同行し、佐紺とエティンを呼び出す。
正十二面体の前で、カーネリアの基底波形を、第二層を覆う封の表面へ重ねた。
最初は、何も起こらなかった。
だが、波形の終端にある内向きの折り返しを、封の同じ位置へ合わせた瞬間、十二面すべての文様が淡く輝いた。
封は、開かない。
その代わり、表面の編み目が波形へ呼応するように並び替わり、これまで読み取れなかった構造が浮かび上がった。どの結び目を、どの順で、どちらへ解けばよいのか。固く閉ざされた扉の上へ、錠前の在り処だけが示されていく。
「……解錠手順だ」
ミナトは、淡い光を放つ文様から目を離せないまま呟いた。
「封が、自分の解き方を教えてる。カーネリアの波形は、扉を叩く合図だったんです」
扉そのものは、まだ沈黙している。
それでも、一万三千年のあいだ誰にも応えなかった第二層が、初めてこちらへ返事をした夜だった。