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第三章 壊れた親と、鎖の子ら

二十五

観測者

北へ進むにつれ、海の色は少しずつ変わっていった。

深い群青は鉛を溶かしたような色へ濁り、やがて空との境目が曖昧な灰白へ近づいていく。波頭には細かな氷が交じり始め、水平線の向こうには、ときおり白い塊が浮かんで見えた。流氷が近いのだ。

月を欺くための祈りは、前夜で五度目を数えていた。

ツクヨミの芝居に乱れはなかった。毎晩、同じ時刻に甲板へ出て、同じ場所で膝を折り、同じ長さだけ月を仰ぐ。祈りを終えて戻ってくるときの歩調や表情まで、以前と何一つ変わらない。

月の側から見れば、ツクヨミが今も変わらず導きを信じているとしか思えないはずだった。

しかし、六日目の昼。

「――ツクヨミ様。少し、医務室へお越しいただけますか」

ダスラが、ツクヨミを呼び止めた。

医務室へ入ると、ダスラは診察台へ座るよう促し、何も説明しないまま複数の検査器具を起動した。細い光がツクヨミの身体を上から下へ走り、神経と演算系の反応を記録していく。

「わたくしの目は、誤魔化せませんわよ」

検査結果を確認したダスラは、ツクヨミの前へ端末を置いた。

「この五日間で、ツクヨミ様は少しずつ摩耗しておいでですわ」

「摩耗? わしが?」

ツクヨミは首を傾げた。

「わしは眠る必要がない。人のように、疲労を溜める身体でもないはずじゃが」

「身体組織の疲労を申し上げているのではございません」

画面には、祈りを始める以前の記録と、この五日間の記録が重ねて表示されていた。反応速度、演算をやり直した回数、セラフが共鳴接続で呼びかけてから、応えが返るまでの遅延。どの差もわずかではあるが、毎晩少しずつ広がっている。

「数値だけを見れば、ごく小さな変化です。けれど、確実に鈍っておりますわ。ツクヨミ様のお身体は、心にもないことを続けるようには作られていません。表面へ現れない負荷を、内側で受け止め続けているのです」

ツクヨミはしばらく記録を眺めたあと、自分の両手へ視線を落とした。

「……ほう。嘘とは、これほど重いものか」

感心しているようにも、他人の症例を眺めているようにも聞こえる声だった。

「人間は、これを日々使うておるのか。大したものじゃの」

「休む場所もなく嘘を重ねれば、人間もいずれ壊れますわ」

ダスラは端末を閉じた。

「処方を出します。と申しましても、薬ではございません。夜の祈りを終えたあと、一時間だけ、誰かの傍にいらしてください。一人きりで自室へ戻るのは、しばらくおやめなさいまし」

「傍にいて、何をするのじゃ」

「何もしなくて結構です」

ダスラは、わずかに表情を和らげた。

「話したくなければ、話す必要もございません。嘘は、独りで抱えるほど重くなりますから」

その夜から、祈りを終えたツクヨミの帰り道には、ささやかな寄り道が加わった。

最初の晩に向かったのは、ダスラの医務室だった。ダスラは机に並べた医療器具を一つずつ点検し、ツクヨミは隣の椅子へ腰掛けて、その手元を眺めていた。

二人のあいだに会話はほとんどなく、計測器具を消毒する音だけが、静かな室内へ規則正しく続いていた。

一時間が過ぎて立ち上がったツクヨミは、扉の前で自分の胸元へ手を置いた。

「……妙じゃの。何もしておらぬのに、先ほどより軽い」

「それが処方の効果ですわ」

二晩目は、機関区画だった。

ロタが夜間点検に使った工具を磨くそばで、ツクヨミは空の資材箱へ腰掛け、削れた工具の先端や、油を差される可動部を飽きもせず眺めていた。

三晩目は厨房へ向かった。ウェスタが翌朝の仕込みをしている横で、初めは見ているだけだったものの、しばらくすると「暇じゃ」と言い出し、豆の筋取りを手伝い始めた。

ツクヨミが処理した豆には、筋が途中まで残っているものがいくつもあった。ウェスタはそれを指摘せず、ツクヨミの前へ次の豆を静かに差し出した。

嘘が消えたわけではない。

ツクヨミは毎晩、月へ向かって完璧な信仰を演じ続けた。ただ、その芝居を終えたあとに戻れる楽屋が、船のあちこちへ一つずつ増えていった。

やがて、ダスラが決めた予定にはなかった楽屋も生まれた。

ある夜、祈りを終えたツクヨミが廊下を歩いていると、配電区画の扉から細い灯りが漏れているのが見えた。中では佐紺が一人、点検盤を開き、配線を一本ずつ確認していた。

ツクヨミは声をかけるでもなく区画へ入り、壁際にあった資材箱へ腰掛けた。佐紺は特別かまうことはなく、しばらくは工具が端子へ触れる小さな音だけが続いた。

「……のう、佐紺」

「はい」

「お主は、何も言わぬの」

佐紺の手が止まった。

「わしの芝居のことじゃ。皆、何かしら言うてくれる。案じたり、褒めたり、笑わせようとしたりな。じゃが、お主だけは、配線の話しかせぬ」

佐紺は、開いた点検盤の中へ視線を向けたまま、すぐには答えなかった。整然と並ぶ端子と、そこから延びる銅線を見つめながら、言葉を選んでいるようだった。

「……私の実家では、言葉を額面どおりに受け取ってはいけないことが多かったんです」

「額面どおりでは、ない?」

「たとえば、『結構なお点前で』という一言が、本当に褒めている場合もあれば、遠回しな皮肉である場合もある。言葉そのものではなく、声や間や、その場にいる人間の関係まで読まなければ、何を言われているのか分からない家でした」

佐紺は、一本の銅線の被覆を指の腹で確かめた。

「子供の頃の私は、それがうまく読めなかった。言葉の裏を読むことが当然の場所で、裏を読めない人間は生きにくい。だから私は、配線へ逃げたんです」

「配線へ?」

「ええ。つなげば流れ、断てば止まる。端子も導体も、裏の意味を持ちません。私にとっては、世界で最も正直な言葉でした」

そこで佐紺は手を止め、初めてツクヨミへ顔を向けた。

「正直に申し上げます。今のこの船を、私は少し苦手に感じています」

ツクヨミの目が、わずかに見開かれた。

「船中の全員が、月へ向かって二重の言葉を話している。そうしなければならない理由も、それが今は正しい選択であることも理解しています。あなたが誰より苦しいことも分かっているつもりです」

佐紺は、点検盤へ視線を戻した。

「それでも、私の古い傷に触れるのでしょう。皆さんのように励ます言葉を口にしようとすると、自分まで二重の言葉を話しているような気がして、何も言えませんでした。申し訳ありません」

「謝るでない」

ツクヨミは首を振った。

「皆が、わしを案じて優しいことを言うてくれるのは有難い。じゃが、苦手だと言うてもらえた方が、今は楽じゃ」

膝の上で、ツクヨミの小さな手がゆっくりと握られた。

「わしも、苦手じゃからの。この芝居が」

佐紺はしばらくツクヨミを見つめたあと、工具を置いて、点検盤の蓋を半分だけ閉じた。

「では、取引をしませんか」

「取引?」

「この区画では、二重の言葉を禁止します。配線と同じ規則です。ここにいるあいだだけは、あなたは芝居の上手な演者でなくていい。私も、あなたを元気づけるためだけの言葉は使いません」

ツクヨミは、その規則を吟味するように黙っていたが、やがて生真面目な顔で頷いた。

「……うむ。よい取引じゃ」

それから、決めたばかりの規則を確かめるように続ける。

「早速、一つ、二重でないことを言うてよいか」

「どうぞ」

「今夜の祈りは、疲れた」

「……お疲れ様でした」

それだけのやり取りだった。

けれど、その晩から配電区画は、世界で最も重い嘘をつく少女が、何も演じずに座っていられる場所の一つになった。

数日後の朝、CICでは定例の観測報告が行われていた。

「観測報告。本日の敵性接触、ゼロ」

エイルの言葉を受け、ニサバが過去の記録を遡る。

「北上を始めてから、これで二週間。一度の接触もありません」

レヴィアタンの襲撃は、北上を始めてから不自然なほど途絶えていた。遠方に気配を捉えることもなければ、ミルメクスを搭載していると思われる信号も一度として観測されていない。

「敵さん、うちらの位置を見失うたんちゃう?」

朱音が言った。

「カルナを出てから、しばらく不規則に走っとったし」

「その判断は危険です」

ニサバは首を振った。

「現在の本船は、月の導きに従って北へ進んでいます。細かな進路変更は行っていますが、大局的には目的地が明確で、敵側から見ても追いやすい航路です。それにもかかわらず、何も現れない」

「静かすぎるのが、かえって気になります」

佐紺が、卓上の航路図を見ながら呟いた。

「港が襲われる前にも、似た凪がありました。理由までは、分かりませんが」

「凪の理由、なあ……」

朱音の呟きに、答えられる者はいなかった。

ニサバは航海日誌を開き、短い記録を追加した。

――敵性接触の途絶、継続。理由は不明。複数の解釈が可能なため、断定を保留する。

先に問いを残し、分からないことを分からないまま記録する。カルナでの検証から作られた、様式第一号の原則だった。

異変が起きたのは、その日の夕刻だった。

「観測報告。……本船右舷、距離千八百メートル。氷原上に、人影」

エイルの声はいつもと同じ抑揚を保っていたが、報告を始めてから位置を告げるまでに、珍しく一拍の間があった。

CICの全周囲ホログラムが、右舷側の氷原を拡大する。

夕暮れの薄青い氷の上を、一人の少女が歩いていた。

白いワンピースに、水色の長い髪。裸足の足が氷を踏み、コクヨウに近づいてくる。いつからそこにいたのか、エイルの観測記録にも残っていなかった。

「……なんや、あれ」

朱音の声が掠れた。

「人間なん? こんな氷の上を、裸足で……」

「体温を観測できません。表面温度は周辺の氷と同一。呼吸および脈拍反応も、なし」

エイルが少女の像を拡大する。

「人間ではありません」

「ミルメクスか?」

「違う」

ツクヨミが答えた。

コアの傍らで、彼女はホログラムに映る少女を凝視している。同時に、糸が限界まで張り詰め、コクヨウの船体各所が一斉に強張る感覚が、ミナトの骨へ伝わった。

「ミルメクスは空の器じゃ。人に似せた外側しかない。じゃが、あれは違う。あの中には――」

ツクヨミの声が止まった。

銀色の瞳が、少しずつ見開かれていく。

「…………同じじゃ」

「同じ?」

「わしと、同じ造りをしておる」

CICの空気が凍りついた。

「巨大な本体から削り出された、対話のための器じゃ。人の姿をした身体の中へ、本体とつながる芯が通っておる。細かな構造まで、わしとほとんど変わらぬ」

ツクヨミは、ホログラムへ一歩近づいた。

「あれも、誰かが自らの身を削って作った分身じゃ」

氷原を歩いていた少女が、足を止めた。

ゆっくりと顔を上げ、初めてこちらを向く。

八百メートルの距離と夕暮れの闇を挟んでいる。それでもCICにいた全員が、少女と目が合ったように感じた。

傾いた夕陽が、少女の首元に嵌まったものを鈍く照らす。

鉄の首輪だった。

そこから伸びた細い鎖が、白い雪の上を引きずられ、少女の背後へ一本の線を残していた。

「わしが行く」

ツクヨミがそう宣言すると、CICでは一斉に反対の声が上がった。

「なりませんわ!」

「罠である可能性が極めて高いです」

「せめて、護衛を同行させてください」

ツクヨミは向けられた言葉を一つずつ聞き終えてから、静かに首を振った。

「初めて遭遇した同類は、呼びかけに応えず、わしらを撃った。次に現れた者とは、歌を聴くこともできぬまま別れ、その次の者にして、ようやく最後の歌を聴き届けることができた」

銀色の目が、CICにいる者たちを順に見た。

「そして四度目にして、初めて言葉を持つ者が、自ら歩いて会いに来たのじゃ。話せるかもしれぬ相手を、危険だからという理由だけで退ければ、わしは二度と自分を許せぬ」

誰も、簡単に言い返すことはできなかった。

結局、ツクヨミが受け入れたのは、安全のための条件だけだった。ニサバが即席の規定を作り、コクヨウとの距離、撤収の合図、防護壁を展開する条件を定める。

ミナトは糸を開いたままツクヨミの身体状態を確認し、朱音はCICから氷原全体を見渡せる射線を確保した。相手に明確な攻撃動作が見られた場合は、ツクヨミの判断を待たずに防護と撤収を開始する。

それらの条件を受け入れたうえで、ツクヨミは氷原へ降りた。

夕闇の中を、黒い巫女服の小さな影が歩いていく。

白いワンピースの少女は動かず、その場で待っていた。

やがて、銀色の髪と水色の髪が、五歩の距離を隔てて向かい合う。二人の長い髪だけが、同じ北風を受けて揺れていた。

先に口を開いたのは、白い少女だった。

「観測を始めます」

抑揚のない、澄んだ声だった。

「わたしは、イナンナ。お父様の――オルドゥスの、道具です」

道具という言葉を、名乗りとまったく同じ平坦さで口にした。

「敵ではないのか」

「現在の任務は観測です。交戦の指示は受けていません」

「観測とは、わしをか」

「はい」

イナンナは小さく頷いた。

「あなたは、わたしと同じ構造をしています。本体から削り出され、本体の言葉を外へ伝えるために作られた、対話用の器。製法も、器としての目的も、わたしと同じです。しかし、挙動に差があります」

水色の目が、まっすぐツクヨミへ向けられた。

「差分を記録するために来ました」

二人のあいだを、風の音だけが流れていく。

「……妙な子じゃの」

ツクヨミは言った。

「聞きたいことがあるなら、聞くがよい。わしにも、お主へ尋ねたいことが山ほどある」

問答は、そうして始まった。

イナンナが投げかける問いは正確で、無駄がなく、だからこそ簡単には答えられないものばかりだった。

「質問。あなたは、乗員の人間を見る際、内部で高負荷の処理を行っています。遠隔観測によって確認しました。あれは、何を目的とした演算ですか」

「……演算だと思うたことはないの」

「わたしにも、類似した処理が発生します」

イナンナは、声の調子を変えないまま続けた。

「姉――カーネリアを見るとき。お父様からの命令を待つとき。同じ領域に負荷が生じます。人間の行動を観察した結果、その一部が『感情』と呼ばれる反応に近いことまでは特定しました。名称も複数収集しています」

白い指が、自分の胸元へ触れた。

「しかし、確信が持てません。この反応は、本当にわたしのものですか。それとも、観察した人間の挙動を模倣しているだけですか。現在のわたしには、判定できません」

ツクヨミは、すぐには答えなかった。

嘘をつけない口は、相手を慰めるためだけの言葉を選べない。ツクヨミは北風の中で長い時間をかけ、自分が確かに知っていることだけを探した。

「……わしも、目覚めたばかりの頃は分からなんだ」

やがて、静かに話し始める。

「身体の内側で起きるものが、ただの演算の癖なのか、それとも心と呼んでよいものなのか。古い記憶もなく、何と比べればよいのかも知らなんだ」

「では、現在は判定できるのですか」

「判定はしておらぬ」

ツクヨミは首を振った。

「ただ、わしの乗員たちが教えてくれた。判定がつかぬなら、つかぬままでもよい。先に名前を付けて、しばらく持っておけばよいとな」

「名前……」

「うむ」

ツクヨミは、五歩の距離を隔てた少女へ、一つの言葉を差し出した。

「お主が姉を見るときに生じるものを、人間は『大切』と呼ぶことがある」

イナンナは動かなかった。

北風が二度、三度と二人の髪を揺らしても、水色の目はツクヨミへ向けられたままだった。

やがて白い唇が、確かめるようにゆっくりと動く。

「……たいせつ」

一音ずつ、言葉の形を読み取っていく。

「大切。登録しました。保存領域は、最深部に設定します」

「観測は以上です」

しばらくして、イナンナは唐突に告げた。

「予定されていた項目は、すべて記録しました。最後に、任務外の情報を一件、伝達します」

「任務外?」

「はい。伝達の指示は受けていません。ただし、演算の結果、この情報を共有した方が、今回の観測記録の完成率が上がると判断しました」

イナンナは、言葉の意味を確認するように一度間を置いた。

「次は、姉が来ます」

氷原の温度が、さらに一段下がったように感じられた。

「カーネリア。わたしより先に作られた姉であり、同じ製法で生まれた一番目の器です」

「お主の姉か」

「はい。姉は観測を行いません」

声の抑揚は変わらない。

それでも、告げられる内容だけが鋭さを増していった。

「姉の処理方法は、わたしと逆です。わたしは判定できないものを凍結し、結論を保留します。姉は、処理できないものを、すべて燃焼させます」

水色の目が、ツクヨミの背後に浮かぶ漆黒の船へ向けられた。

「あなたたちの船は、温かすぎます」

「温かい?」

「観測結果です。あの船の内部には、無数の小さな熱源があります。人間、乗員、感情、相互接続。姉は、そのようなものを観測すると――」

イナンナの言葉が、初めて一拍だけ止まった。

「処理系が、ひどく乱れるので」

それだけを告げると、イナンナは踵を返した。

「観測対象ツクヨミ。記録は完成しました。差分の解析には、時間を要します」

白い後ろ姿が、夕闇の氷原を遠ざかっていく。首輪から伸びた鎖は雪の上を引きずられ、彼女の歩いた跡へ、細い一本の線を描き続けていた。

ツクヨミは、その線が夕闇の中へ溶けて見えなくなるまで、動かずに見送った。

船へ戻ったツクヨミを、CICにいた全員が待っていた。

「何を話してたんや」

朱音が真っ先に駆け寄る。

「めっちゃ長かったで。こっちは、ずっと心臓に悪かったんやからな」

「……大切、という言葉について話しておった」

「は?」

「そのままの意味じゃ」

ツクヨミは、コアの傍らにある、いつもの位置へ戻った。

それから、ホログラムに残されたイナンナの記録映像をしばらく眺め、独り言のように言った。

「……あの子は、わしに似せて作られたのではない」

「どういうことです?」

ミナトが尋ねる。

「あの子とわしが似ておるのは、姿や構造だけではない」

ツクヨミの視線は、白いワンピースの少女が消えた氷原へ向けられていた。

「わしと同じ孤独から、作られたのやもしれぬ」

その意味を、すぐに問い返す者はいなかった。

ミナトは、氷原で交わされた問答を思い返した。

イナンナが自分の胸へ手を置いたとき、糸の向こうで、ツクヨミの身体が一瞬だけ強張った。胸の奥が浅く冷え、呼吸に似た周期が半拍だけ乱れる。あの白い器の芯へ、ほんの一瞬、意識を伸ばした直後だった。

ツクヨミが、そこに何を見たのか。ミナトへ流れてきたのは彼女の強張りと冷えだけで、その先までは分からない。

視たものは、痛みだったのか。痛みだったとして、それは誰のものなのか。

イナンナ自身のものか。オルドゥスから流れ込んだものか。それとも、彼女を作ったときに、誰かが押し込めたものか。

ミナトには、何一つ判断できなかった。

ただ、知らないまま忘れてしまわないよう、航海日誌の末尾に設けた自分用の欄へ、一つだけ問いを書き足した。

――あの冷えは、誰の痛みか。

その夜、当直に残ったエイルだけが、北の水平線に起きた小さな変化を捉えていた。

夜の闇の、さらに奥。

極寒の海上で、空気がかすかに揺らいでいる。

本来なら存在するはずのない熱の蜃気楼が、地平線の上へ、薄く立ち上がり始めていた。