第三章 壊れた親と、鎖の子ら
二十七
手記
翌朝の会議は、カーネリアの熱線から抽出された一枚の波形図を前に始まった。
「事実から整理します」
ニサバはホワイトボードの前に立ち、波形の終端にある、内側へ折り返された結び目を示した。
「カーネリアの熱紋を構成する最深部の文法と、図書館の封印技術には、同一の規則が確認されました。現時点で立てるべき問いは二つです。なぜ同じなのか。そして、どちらからどちらへ技術が渡ったのか」
ボードには、左右へ向かう二本の矢印が引かれた。
「可能性の一。アダマス様が用いた技術が、何らかの経路でオルドゥス側へ渡った。可能性の二は、その逆です」
「逆って……アダマスさんが、敵から技術を手に入れたってこと?」
朱音が眉を寄せる。
「味方の大将やったんやろ」
「その立場と、技術の出所は別の問題です。分からないからこそ、先に問いとして残します」
ニサバは淡々と答え、ボードに向き直った。
「そして、この問いへ答えられる可能性がある場所は、一つしかありません」
集まった者たちの視線が、保管区画の方角へ向いた。
カルナが最後にコクヨウへ託した、正十二面体の図書館。その第一層はすでに開かれているが、アダマスの手記が保存されていると思われる第二層は、今も固く閉じたままだった。
「第二層の封は、第一層とは比較になりません」
ミナトが解析結果を表示する。
「編み目の密度だけでも数倍あります。第一層が、あとから誰かに読ませるため整えて書かれた清書だとすれば、第二層は、自分だけが分かればいいつもりで書いた手帳に近い。省略が多く、前後の説明もなく、書き直した跡まで構文の一部になっています」
「翻訳側の負荷は、どの程度ですの?」
ダスラの問いに、ミナトは試算結果を隠さず示した。
「第一層と同じ方式では無理です。エティンさんとニサバさんの交代間隔を半分にしても、第二層の底へ着く前に、二人とも中断基準を超えます」
会議室が静まった。
「では、今の仕組みでは開けられない、と」
「今のままなら、です」
ミナトは首を振り、ホワイトボードへ新しい図を描き始めた。
図書館から流れ出す原文。その奔流を受け止め、人間の理解できる形へ変換する翻訳者。これまでの方式では、両者のあいだに何もなく、エティンやニサバが原文を直接受け止めていた。
ミナトは、その間に一つの四角を描き加えた。
「全部を、人が最初から訳す必要はありません」
「どういう意味です?」
「以前の職場で障害が起きると、一晩で何億行というログが出ることがありました。そんなものを、最初から最後まで人間が読むことはできません。必要な箇所へ着く前に、読む側が潰れます」
四角の中へ、ミナトは「粗訳層」と書いた。
「だから、先に自動の手順で索引を作る。日付、記録の種類、同じ構文の繰り返し、異常値。意味を完全に理解できなくても、似たものをまとめ、違うものへ印をつけることはできます」
第一層と第二層を示す二本の線を、その四角へつなげる。
「第一層は、原文がそのまま残っています。そして開封のとき、エティンさんたちが訳した結果は、逐語のままコクヨウの記録へ保存されている。原文と訳文の対が、教材として揃っているんです。これを使って、アダマスが使った構文の規則を、コクヨウの深層へ覚えさせます。第二層を開いたとき、まず粗訳層が文の境目や日付、繰り返しを整理する。そのあとで、エティンさんたちは必要な箇所だけを原文から確認する」
「粗訳層だけで、どこまで判別できる見込みですか」
エイルが尋ねた。
「試算では七割ほどです。ただし、残り三割を捨てるわけではありません。手順が判断できなかった部分は、未処理のまま印をつけて残します。そこだけを、人の翻訳者が深く読む」
ミナトは、粗訳層の四角を指先で叩いた。
「翻訳者へ流れ込む量そのものを減らせます。精度より前に、人が壊れない仕組みにするんです」
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて、ツクヨミが図を見つめたまま呟く。
「……アダマスは、何でも自分で背負おうとする男じゃったらしい。誓約封を編んだときも、図書館へ記録を残したときも、最後には自分一人の責任として抱え込んだ」
「はい。だから、俺は逆の方法で開きます」
ミナトは頷いた。
「一人が受け止めてから誰かへ渡すんじゃなく、受け止める前に仕組みで分ける。アダマスが一人で編んだものを、俺たちは複数人で開きます」
粗訳層を作り上げるまでに、三日を要した。
◇
三日目の深夜も、解析室には灯りがついていた。
ミナトが端末へ向かっていると、湯気の立つ椀が、キーボードの邪魔にならない位置へそっと置かれた。
「ウェスタさんから。作っとる本人が持ってきたら、絶対に食べ終わるまで見張るから、うちが代わりに持っていけって」
盆を抱えた朱音が笑っている。
「ありがとうございます」
「礼は食べてからや。冷めたら、うちが怒られるねん」
部屋の隅では、佐紺が粗訳層へ電力を供給する予備系統を組み直していた。通常系統に異常が起きても演算が途切れないよう、複数の供給経路と物理遮断器を設けている。
エイルは、第一層の原文と翻訳結果を一つずつ照合し、粗訳層が誤って分類した箇所へ修正を加えていた。扉の外を通り過ぎたニサバは、工程表へ何かを書き込み、時計を確かめてから、また無言で歩いていく。
画面とコードを前に、夜が明けるまで終わらない作業を続ける。光景だけなら、会社にいた頃の深夜と変わらなかった。
それでも、何もかもが違っていた。
以前は、誰もいないオフィスで、一人きりでログの海を見つめていた。今は湯気の立つ椀があり、背後では工具が鳴り、別の端末にはエイルが修正した印が増えていく。
ミナトは味噌汁を一口すすり、温かさが喉を通りきるのを待ってから、再びキーボードへ両手を置いた。
画面の隅では、コクヨウの深層が、次に読むべき記録を淡く照らしていた。
◇
第二層の開封は、四日目の朝に始まった。
ミナトは内部へ入り、封の構造を読み解く。エティンが第一翻訳を担当し、ニサバは工程管理と第二翻訳を兼ねて待機する。佐紺は物理接続と緊急遮断、ダスラは全員の神経負荷と循環状態の監視を受け持った。
朱音は工程表と警告表示を読み上げ、エイルはCICから月方向を含む外部干渉を監視する。ツクヨミはコクヨウの深層を安定させながら、図書館と船の双方に異常が起きないかを確かめていた。
誰か一人でも中断を要求すれば、理由を問わず作業を止める。
それが、開始前に全員で決めた条件だった。
「粗訳層を起動します」
ミナトの指が端末を走る。
三日かけて作り上げた仕組みがコクヨウの深層で目を覚まし、第一層から学んだ構文と、第二層の表面に刻まれた原文を照合し始める。
「基本構文の一致を確認。日付、記録単位、話者署名を仮分類します。エティンさん、接続を」
「はい」
両肩へ、エティンの手が置かれた。
穏やかな青だった瞳が、内側から金色へ変わる。
ミナトは第二層へ潜った。
入り口を越えた瞬間、粗訳層の効果が分かった。
第一層を開いたときには、原文の圧力が剥き出しのまま意識へ押し寄せてきた。今は、同じ奔流が薄い膜を一枚通り、流れの向きを整えられてから届いている。
濁流そのものが消えたわけではない。
だが、どこが本流で、どこが枝分かれなのかを、先に示された川になっていた。
『……驚きました』
共鳴接続の中で、エティンの声が届く。
『ずいぶん、楽です。原文へ触れる前から、流れの形が見えます』
「粗訳層が判断できない箇所には印がつきます。そこは、必ず原文を確認してください」
『承知しております』
降下は順調に進んだ。
手記の外郭、記録された日付、複数の文章をまとめた束。粗訳層が大まかな構造を先に分け、エティンが意味を確認し、ミナトが必要な箇所だけを深く読んでいく。
第一層で経験した深さを越え、原文の密度がさらに高まっても、中断基準には届かなかった。
ところが最深部を目前にしたところで、粗訳層の処理が止まった。
「エラーか?」
ミナトは処理記録を確認した。
異常終了ではない。粗訳層は正常に動作したうえで、目の前の区画を「分類不能」と判定していた。
そこだけ、封が二重になっている。
外側の編み目の下に、もう一層、別の文様が埋め込まれていた。どちらもアダマスの手によるものだが、内側の線は、これまで見たものと違って安定していない。
結び目を深く締めたかと思えば、次の箇所では浅く戻り、力を外へ逃がそうとして、途中でまた内側へ引き戻している。
「同じ人が編んだはずなのに、癖が一定じゃない」
『いいえ、ミナト様』
エティンが静かに訂正した。
『手の癖は同じです。揺れているのは、書いた方の迷いでしょう』
「迷い?」
『わたくしに、昔の記憶はございません。ですが、身体へ刻まれた仕事は残っております。眠りにつくよりも前――記憶を失うよりも前のわたくしが、人の手の編んだものを、訳し続けていたのでしょう。手を動かすときのわずかな乱れが何を意味するのか、それだけは、この身体が覚えておりますの。書き残すべきか、消してしまうべきか。誰かに読んでほしいのか、永遠に隠しておきたいのか』
エティンの声は穏やかだった。
『そのどちらも捨てられないまま、それでも最後まで編んだ手です』
ミナトは、二重の封を見つめた。
読まれることを望みながら、読まれる日を恐れている。手記の中へ、さらに隠された手記。
「ここは粗訳層では処理できません。書き方そのものが途中で揺れているから、既存の規則へ当てはめられない」
原文を直接読むしかない。
その意味を説明する必要はなかった。ここまで抑えられていた翻訳負荷が、この一区画だけは剥き出しのまま流れ込む。
「ニサバさんへ交代します。予定より早いですが――」
『いいえ』
エティンが、ミナトの言葉を途中で遮った。
彼女がそうするのは、初めてだった。
『ミナト様は、粗訳層で七割を整理できると仰いました。粗訳が拾いきれずに残した三割を、人が読むための仕組みだとも』
「そうです。でも、ここの密度は予測を超えています」
『では、この三割は、わたくしの領分です』
声は穏やかなままだったが、退く気配はなかった。
『あなたが粗訳層を作ってくださったおかげで、わたくしは、ここまでほとんど消耗しておりません。その余力を、どこで使うかまで、おひとりで決めないでくださいませ』
「ですが――」
『負荷を減らしてくださることと、負荷をすべて取り上げることは違います』
金色の瞳が、まっすぐにミナトを見た。
『誰にも何も背負わせないよう、最後にはご自分だけですべてを決める。それでは、方法が変わっただけで、昔のミナト様と同じです』
ミナトは言葉を失った。
三日前、ホワイトボードの前で語った理屈が、そのまま自分へ返されている。
「……分かりました」
しばらくして、ミナトは頷いた。
「ただし、中断基準は変えません。ダスラさんが限界線への到達を確認したら、あなたが続けられると言っても引き上げます。ニサバさんも、すぐ交代できる状態で待機してください」
『はい。それが、わたくしたちで決めた方法です』
エティンは微笑んだ。
『では、参りましょう。二人で』
金色の光が強くなる。
二人は、二重の封へ並んで手をかけた。
ミナトが外側の構造を読み、結び目を一つずつ解いていく。その下から現れた剥き出しの原文を、エティンが受け止め、人間の言葉へ噛み砕いてミナトへ渡す。
一つ解いては状態を確認し、次の一つへ進む。
ミナトの指が覚えているアダマスの構文と、エティンの身体へ刻まれた翻訳能力が、互いの不足を埋めながら封の奥へ降りていった。
最後の結び目が、静かにほどける。
迷いながら編まれた封の底で、一万三千年前の男が残した言葉が、読み手を待っていた。
◇
手記は、低い男の声で始まった。
映像ではない。文字に残された音律を図書館が拾い、書いた本人の声に近い形へ組み直している。第一層の献辞と同じ仕組みだが、記録されている量は比較にならなかった。
『――これを読む者へ。まず、詫びる』
暗い保管区画へ、声とともに光の文字が流れ始める。
『この層は、読みやすく書いていない。私自身、何を残すべきか最後まで決められなかったからだ。決められぬまま書き、迷った箇所を、そのまま封じた。読みにくければ、笑ってくれて構わない』
短い間を置き、声は続いた。
『順を追おう。まず、私とコクヨウのことから書く』
『私は、王都から任命された軍艦コクヨウの艦長だった』
その一言で、区画の空気が変わった。
『この船は王都が造ったわけではない。地の底から掘り出したものだ。誰が、何のためにつくり、残したものかも分からない、古い器だった』
『王都は、その身体をこじ開け、人が乗る区画を作り、武器を据えた。元から持っていた力も、戦争に使える形へつなぎ直した。働くためにあった身体へ、殺すための手を継ぎ足したのだ』
声は、事実を読み上げる調子を崩さなかった。
『そして、その手を動かす役目に、私は選ばれた』
『いくつの国を焼き、何人を死なせたかは、王都の記録に残っている。ここで数を並べ、数えたことを償いの代わりにするつもりはない。ただ、多かったとだけ書く』
誰も口を挟まなかった。
『コクヨウを長く運用するには、長く生きる艦長が要る。そう判断した王都は、私の身体へ老いを遅らせる術を編み込んだ。数百年を、コクヨウとともに働くために』
わずかな間が空く。
『つまり、私もまた、役目のために造り変えられた道具だった』
ツクヨミは、光の文字を見つめたまま動かなかった。
『そういう男が、ある日、コクヨウにも心があると知った。あとの顛末は、第一層に残したとおりだ』
声には、ごく薄い笑いが混じっていた。
『次に、技術の出所について書く』
『私が使った封印の術も、この図書館の仕組みも、私が一から生み出したものではない』
『若い頃の私は、王都の中枢に仕えていた。そこでオルドゥスの管理技術に触れ、学び、最後には盗んだ』
朱音が小さく息を呑んだ。
『驚くことではない。人間一人が、何もないところから調停者の仕組みに届く術を編み出せるはずもないだろう』
『封印、記録、器の制御。私が使った技術の源をたどれば、すべてオルドゥスへ行き着く。そしてオルドゥスの技術は、月の技術でもある。さらに遡れば、割れる前のティアが持っていた一つの体系だ』
『流れ着いた先と、使った者が違うだけで、川の源は同じだった』
カーネリアの熱紋と図書館の封が、同じ文法を持っていた理由。
ミナトの中で、離れていた二本の線が、ようやく同じ源へつながった。
『次に、オルドゥスについて書く』
声の調子がわずかに変わった。
憎しみを語る言葉が続くのだと、誰もが身構えた。
だが、アダマスが残したのは、罵りではなかった。
『後世の者は、あれを魔王と呼ぶかもしれない。人の心を奪い、感情のない身体だけを残す怪物と』
『私は、あれの中枢へ入り、その命令と記録を読んだ。だから、少なくとも私だけは、正確な言葉を残す義務がある』
声が、一度途切れる。
『――あれは、壊れた親だ』
区画が静まり返った。
『人の子らを育てる役目を負いながら、育て方を失った親だ』
『あれが人の感情を奪うのは、人間を憎んでいるからではない。月が人の感情を集め、自らのために使おうとしている――あれの記録は、そう判じていた。だから奪われる前に、自分の内側へ退避させようとしたのだ』
『だが、守る方法が壊れていた。心を抜き取れば、月には渡らない。だからといって、心を失った人間が守られたことにはならない』
光の文字が、ゆっくりと先へ流れる。
『あれの原文に刻まれていた命令は、「刈り取れ」ではなかった。「均せ」だった』
『危険な突出をなくし、全体を同じ高さへ戻せ。おそらく、もとはそういう意味だったのだろう。だが壊れたあれは、人の心にある違いまで、削るべき高低差として扱った』
『庭を愛していないのではない。守り方と、育て方を間違えている。愛し方の手順が壊れているのだ』
ツクヨミの銀色の目が、わずかに細められた。
『ここからは、誰にも読ませたくなかった、私自身の恥を書く』
光の文字の流れが一度止まり、記録の色がわずかに沈んだ。
『私は明日、オルドゥスへ最後の戦いを挑む。勝つことはできるだろう。刺し違える形になるが、あれを封じることはできる』
『しかし、それを正しい解決だとは思っていない』
『ただの時間切れだ』
声が低くなる。
『あれと語り、壊れた命令を一つずつ解きほぐし、正しい形へ直す。その方法を探すには、あと五十年は必要だった』
『私の身体は、あと五年も保たない』
『だから封じる。理解する時間が残されていないから、力で止める。それだけのことを、後世の者は英雄の偉業と呼ぶのかもしれない』
一拍の沈黙。
『笑わせる。私は、間に合わなかっただけだ』
誰も動かなかった。
一万三千年のあいだ、英雄として語られてきた男が、決戦を前にして残した敗北の告白だった。
『だから、この記録を読む未来の誰かへ』
『私の封は、すべて、いつか解くことを前提に編んである。コクヨウの武装を閉じた誓約封も、この図書館も、そしてオルドゥスを閉じる封も同じだ』
光の文字が、ひときわ強く輝く。
『封印は、問題を消す術ではない。時間を止める術だ』
『私が持てなかった時間を、その中へ貯めておく。いつか、私より時間を持ち、私とは違う答えを選べる者が来るまで』
『その日のための貯えだ』
アダマスの声に、乾いた笑いが戻った。
『分かりやすく言えば、檻ではなく、貯金箱だ。古代人の比喩として妙なら、翻訳した者の責任にしてくれ』
朱音が、泣きそうな顔のまま小さく息を漏らした。
『頼む。私の封へ向き合う日が来たなら、壊すのではなく、解いてくれ』
『中にいるものと向き合い、貯めておいた時間を渡してやってほしい』
『――壊すな。解け』
◇
手記は、そこで終わらなかった。
『実務的な記録も残す。まず、言葉を一つ遺そう』
手記の調子が、告白から記録者のものへ戻った。
『私と似た性質を持つ人間を、生涯に幾人か見た。普通なら押し流される情報を受け止め、調停者の声へ触れることのできる、稀な者たちだ』
『彼らを示す名は、当時まだなかった。だから、私が付けた』
『残響――エコーズ、と』
その名だけが、光の中へひときわ強く刻まれた。
『あれの声の、こだまだからだ。遥かな後の世にもこの名が残っているなら、私の名付けの勝ちということにしておこう』
「……エコーズ」
ミナトは、初めて与えられた自分たちの性質の名を、小さく口にした。
そして、『こだま』。
その一語が、乗船の夜からずっと胸にあった古い問いに、かちりと嵌まった。
「……ツクヨミ。あなたは、俺たちを、どうやって見つけたんですか」
銀色の目が、少しだけ、見開かれた。
「……目覚めてからの三年、わしは海の底で、世界の音を聴いておった。波の音。船腹を叩く水の音。人の街の、遠いざわめき。……その中に、三つだけ、妙な点があっての。わしが考え事をすると、同じ形の紋様が、遅れて、微かに――こだまのように、返ってくる場所が」
「それが、俺たちだった」
「うむ。それが何なのかは、分からなんだ。ただ、放ってはならぬ気がした。じゃからわしは逢魔に、方角と、こだまの強さだけを渡した。……三つの点を、三人の人間へ辿り着かせたのは、八代たちの、三年がかりの足じゃ」
「……弱いこだまなら、他にも?」
「あるじゃろうの。じゃが、わしに聞き取れるほど強う響いたのは――聞こえる範囲では、お主ら、三人だけじゃった」
一万三千年前の男が遺した名前と、三年前の海の底の出来事が、同じ形をしていた。
『次に、ミルメクスについて』
手記の表面に、新しい索引が開いた。
『私の時代にも、残響の性質を持つ者は、しばしば狙われた。ある日を境に心を失い、抜け殻のようになった者を、幾人も見た。だが――命まで取られた者は、一人もいなかった。奪う側は、器を壊さぬよう、奇妙なほど慎重だった』
『それが慈悲でないことは、確かだ。ならば、理由がある。おそらく、殺しても意味がないからだ』
『性質そのものは、殺しても消えない。魂は巡る。人が死に、血筋が絶えたとしても、同じ性質を持つ者は、いずれ別の場所へ生まれる』
『だから、これは遠い未来への備えとして書く。もしお前の時代に、確保ではなく殺害を選ぶものが現れたなら、こう読め』
『殺害は、永遠の排除ではない。次の者が現れるまでの、数十年、長ければ百年の時間を買う行為にすぎない。殺してまで時間を買う者は――何かの期限に、追われている』
『その期限が何なのかを探せ。そこに、敵の急所がある』
あの最初の夜、ミナトを捕らえるはずだったミルメクスは、途中で殺害へと動きを変えた。
アダマスの時代には、なかったこと。手記の言う「遠い未来」が、あの夜だったのだとすれば――殺してまで時間を買う何かが、今まさに、期限に追われている。
ミナトは目を閉じ、その問いを頭の中の一覧へ書き加えた。
『最後に、コクヨウの誓約封第二段について書く』
ツクヨミの肩が、わずかに動いた。
『誓約封第一段を解いた者よ。お前がこの層を読んでいるなら、コクヨウは再び戦いへ巻き込まれ、今の力だけでは届かない相手の前へ立とうとしているのだろう』
『オルドゥス。あるいは、そのさらに先にいるものの前へ』
『誓約封第二段の鍵を、この手記の底へ置く。解けば、コクヨウは、調停者の一部と正面から向き合えるだけの力を取り戻す』
『ただし、鍵を使う前に、一つだけ約束してほしい』
それまで静かだった声へ、初めて懇願に近い色が混じった。
『その力を振るうのは、最後にしてくれ』
『今度は、撃つ前に、あれの声を聴いてやってほしい』
『私が間に合わなかった分まで、頼む』
光の文字が集まり、空中へ一つの鍵を編み上げた。
その場にいる全員の目が、ツクヨミへ向かう。
ツクヨミは長いあいだ、鍵の文様を見つめていた。
一万三千年前、誓約封によって武装を奪われたとき、過去の自分は喜んだのだという。もう誰も傷つけなくていい。その記憶は今の彼女に戻っていないが、第一層には、そう告げるアダマスと、それを受け入れた自分の姿が残されていた。
その封を、今度は自ら一段解く。
「……解いてくれ、ミナト」
やがて、ツクヨミは言った。
「じゃが、ここにおる全員と、あの男へ約束する。戻った力を、初めから答えにはせぬ」
銀色の目が、鍵の向こうにいるアダマスを見るように細められた。
「まず聴く。話せる道を探す。それでも、どうしても届かぬと分かったあとにだけ、撃つ」
ミナトは頷いた。
念のため、誓約封第二段の解錠手順を粗訳層へ通し、ニサバと佐紺が異常な外部接続や強制命令が含まれていないことを確認する。検疫室に眠る月の更新命令についても、ミナトが起動条件を照合し直した。条件は「オルドゥスの封印完了」のまま動いておらず、この解錠が触れる領域にはない。
それでも佐紺は検疫室側の物理遮断を一段増やし、ダスラが全員の状態を確かめ、エイルも外部干渉がないと報告した。
すべての確認が終わってから、ミナトは鍵の文様へ手を伸ばした。
解錠は静かだった。
轟音も、目を灼くような光も起きない。ただ、船の深いところで、小さな留め具が一つ外れたような音がした。
直後、コクヨウの船体を走る赤い光が、これまでとは違う深さで一度だけ明滅した。
表面へ新しい武器が現れたわけではない。船体が大きく揺れたわけでもなかった。
それでも、周囲にいたセラフたちは息を呑んだ。
海底の奥深くで眠っていた熾火を、灰の下から一段だけ掘り起こしたような、静かで恐ろしい力が戻ったことを、彼女たちの身体は理解していた。
『――以上だ。長い手記に付き合わせた』
アダマスの声が、締めくくりへ入る。
『これが、この層で私の続きへ渡せるもののすべてだ』
短い間があった。
『だが、図書館には、さらに一つだけ深い層を残す』
『そこへ置いたものは、今ここで読むためのものではない。宛先も、開くべき時も、この手記とは違う』
『必要な時が来れば、封の方から答えるだろう。それまでは、無理に開くな』
光の文字が、ゆっくりと最後の一文を編んだ。
手記のすべてを締めくくる、宛名だった。
『――まだ生まれていない、私の続きへ。』
『アダマス』
そこで、声と光が途切れた。
第二層の底だった。
その先には、最後の織り目に閉ざされた図書館第三層が、何一つ答えないまま沈黙していた。
◇
作業を終え、全員が保管区画から撤収したあとも、ミナトはしばらく正十二面体の前に残っていた。
接続はすでに切られている。図書館第三層へ手を伸ばすつもりもない。ただ、閉じた封を眺めながら、手記の最後に残された宛先を考えていた。
――まだ生まれていない、私の続きへ。
一万三千年前に書かれた言葉。
その「続き」に、自分も含まれているのだろうか。
誓約封へ触れたとき、強い陽射しと潮の匂いの中で見た、傷だらけの手。アダマスの記憶だけが、なぜか自分へ流れ込んでくること。誰にも開かなかった船の深層が、自分にだけ道を示したこと。
いくつもの事実が、同じ可能性を指している。
だが、含まれているとして。
自分は、それを受け取りたいのだろうか。
ミナトは、両手を見下ろした。
幻視の中で見たアダマスの手は、大きく、傷だらけだった。剣を握り、封を編み、コクヨウへ触れて謝った手。
自分の手は違う。
剣を握ったことも、軍を率いたこともない。長く触れてきたのは、キーボードと端末だけだった。
あの男の続きと呼ばれるには、あまりにも細く、頼りなく見える。
けれど、その手で粗訳層を作った。
アダマスが一人で抱えたものを、皆で分けて受け止める仕組みに変えた。
同じことをするのが、続きなのか。
違う答えを選ぶことこそ、続きなのか。
答えは出なかった。
出ないまま、その夜も祈りの時刻が訪れた。
◇
月明かりの甲板で、ツクヨミはいつもの場所へ膝を折った。
少し離れた位置には、ミナトが立っている。
両手が胸の前で合わさると、月から、いつもと変わらないぬくもりが降りてきた。柔らかな熱がツクヨミの全身を包み、糸を通じてミナトの皮膚にも、その温度の一部だけが伝わってくる。
その夜、月からツクヨミへ届いたものには、初めて明確な問いが含まれていた。
それは糸を通じてミナトへ流れた言葉ではない。月からツクヨミの心へ直接差し込まれた、彼女だけに向けられた声だった。
北にいる兄へ、もうすぐ会えますね。
手順は、覚えていますか。
ツクヨミの指先が、ほんの一瞬だけ強く重なった。
それ以外には、何の乱れも見せなかった。
月へ向けた横顔は安らぎ、背筋も、呼吸も、以前の祈りと変わらない。
ツクヨミは心の中で、静かに答えた。
――覚えております、母様。
月を疑う気配を、一片も混ぜずに。
ミナトへ伝わったのは、返した言葉ではなかった。ただ、温かさへ包まれているはずの小さな身体から、体温がもう一段だけ失われたような感覚だった。