第二章 帰る場所を海の底に
二十
規定外
カルナを失った翌朝、コクヨウは目的地を持たないまま海を走り続けていた。
決められているのは、不規則に航行することだけだった。
カルナの位置は敵に知られ、帰る場所は海の底へ沈んだ。新しい目的地を定めれば、そこへ向かう航跡そのものが手掛かりになる。
今は、どこにも向かわないことだけが、最も安全な針路だった。
夜明けの光が、医療区画の小さな窓から差し込んでいた。
佐紺は、まだ治療ポッドの中にいる。
「経過は順調ですわ」
ダスラが計器を確認しながら言った。
「熱傷の再生は八割を超えました。折れた肋骨も、正常な位置でつながり始めています。予定どおり、明日の朝にはポッドを開けられます」
「……そうですか」
ニサバは、小さく頷いた。
事故の夜から、ポッドの前に置かれた椅子から動いていない。
ダスラは何か言いかけたが、結局、口にはしなかった。
休息、という単語の形に開いた唇が、閉じて、小さな苦笑に変わった。命じても無駄だと諦めた者の顔のまま、医務長は計器の確認へ戻っていった。
ニサバの膝には、端末が載せられていた。
画面へ表示されているのは、図書館の分離作業を始めた際に、自分が下した判定の記録だった。
磁気漏れの計測値。
安全基準との照合。
人体への影響。
機材への影響。
追加遮蔽の必要性。
最終判定は、軽度。応急処置で対応可能。
ニサバは、一件ずつ検算していた。
計測値を確認し、適用した基準をたどり、演算を最初からやり直す。
すでに三巡目だった。
結果は、三度とも同じだった。
計測に誤りはない。
基準の適用にも、手順上の漏れはない。
当時得られていた情報だけを使うなら、判定は正しかった。
どこにも間違いがない。
それなのに佐紺はポッドの中にいて、カルナは海の底へ沈んでいる。
ニサバは、四巡目の検算を始めた。
「――なあ、ニサバさん」
声をかけられ、顔を上げる。
朱音が立っていた。
両手で持った盆には、湯気の立つ茶と、小さな菓子の皿が載っている。
「差し入れ。ウェスタさんが、持っていけって」
「……お気遣いなく。今は、それどころでは」
「知っとるよ。今は、それどころやないんやろ」
朱音は断られても聞かなかった。
どこからか運んできた椅子を、ニサバの隣へ並べる。そのまま、当たり前のように腰を下ろした。
「うちも、それどころやないから。ここで食べるわ」
ニサバは、眼鏡の奥から隣の少女を見た。
「……朱音様。ここは面会用の場所ではありません」
「西園寺さんの寝顔、見張っといたるねん。変な顔したら、起きてから教えたるの」
「…………」
「あ、これ美味しい。ニサバさんも一個どうぞ。……いらん? ほな、うちが二個食べるで」
朱音は、勝手に話し始めた。
最近遊んだゲームの話。
発売を待っている新作の話。
子供の頃、父親とゲームセンターへ行ったら両替機が壊れていて、二人で店員を探し回った話。
話題に脈絡はなかった。
ニサバの返事を求めてもいなかった。
ニサバは再び端末へ目を落とし、四巡目の検算を続けた。
やがて、それを終えて五巡目へ入る。
しばらくして、ふと気づいた。
隣に朱音の声があると、指が止まらない。
一人で検算していたときは、同じ箇所へ来るたび、思考が沈んで動けなくなっていた。今は、隣から届くとりとめのない声が、沈み切る直前のところで手を支えている。
「……非効率です」
ニサバは、画面を見たまま言った。
「あなたの声で、演算への集中が削がれています」
「そか」
朱音は菓子を一つ取り、口へ放り込んだ。
「ほな、続けるわ」
「…………」
ニサバは、追い払わなかった。
朱音も、それ以上は何も言わず、また次の話を始めた。
カルナの治療室で泣き崩れた夜、ダスラは理屈を一つも言わなかった。
ただ、朱音を抱き締めた。
だから今度は、自分がここに座っていようと思った。
◇
翌日の午後、ミナトはラウンジへホワイトボードを運び込んだ。
以前、佐紺が船内の倉庫から見つけてきたものだった。
かつては、「自分たちは何を知らないか」という一覧が書かれ、分かった項目へ一つずつ取り消し線が引かれていった白い板だ。
今は、きれいに消されている。
ミナトが呼んだのは、ツクヨミ、エティン、ダスラ、朱音、ニサバ。
そして、その日の朝に治療ポッドから出たばかりの佐紺だった。
佐紺は左腕を吊り、脇腹を保護する固定具をつけている。ダスラから長時間の着席を禁じられていたため、背もたれの深い椅子が用意されていた。
「検証をします」
全員が席へ着いたところで、ミナトは言った。
「カルナで起きた一連の事態についての、事後検証です」
ニサバの肩が、わずかに強張った。
ミナトは、それを見ても言葉を止めなかった。
「最初に、ルールを一つだけ決めます。俺が以前いた職場で、システム障害の原因を調べるときに使っていた考え方です」
ペンを取り、ホワイトボードの一番上へ大きく書いた。
――人を裁かない。
「障害が起きたときに、誰のせいかを探す検証は、たいてい失敗します。責められると分かっている人間は、自分を守るために本当のことを言わなくなる。情報が隠れ、原因が埋もれ、同じ障害が繰り返されるからです」
その下へ、もう一行を書き加える。
――どこに問いが欠けていたか。
「この場では、誰が悪かったのかは問いません。判断に使った仕組みの、どこに穴があったのかを探します。人を責めるのではなく、次に同じことを起こさないための仕組みを作る。それが目的です」
ラウンジに、短い沈黙が落ちた。
やがて、ツクヨミが口を開く。
「……ミナト。先に言うておく」
静かな声だった。
「図書館を見つけたのは、お主じゃ。じゃが、手元に置いておきたいと言うたのは、わしじゃ。持ち出すと決めたのも、わしじゃ」
「物理的な分離作業を担当したのは、私です」
佐紺が続けた。
「配線の構造を調べ、作業可能だと判断しました。あの磁気回路に、どのような意味があるかを確認しなかったのは、私も同じです」
ニサバは、何も言わなかった。
膝の上で組んだ手を見つめている。
「分かりました」
ミナトは頷いた。
「それも含めて、まず事実だけを並べます」
時間をかけて、カルナで起きた出来事が、ホワイトボードの上へ再構成されていった。
図書館の発見。
持ち出す方針の決定。
正十二面体をカルナから切り離す作業。
最後の磁気通信回路から漏れた、微弱な磁場。
人体と機材への影響評価。
敵襲。
信号の停止と、最後の固定機構の解除。
カルナが起動した、未知の搬送機構。
コクヨウへの図書館の収容。
そして、カルナの消失。
どの項目にも、人の名前は書かなかった。
発見。
決定。
作業。
計測。
判定。
行為と事実だけを、矢印でつないでいく。
「……こうして見ると」
朱音が腕を組み、白い板を見上げた。
「その時々では、どれも筋が通っとるな」
「はい」
ミナトは頷いた。
「図書館を調べることにも、持ち出そうとしたことにも理由がある。磁気漏れが人体や機材へ害を与えないという判定も、数値上は正しかった」
ペンの先で、「判定」と書かれた箱を指す。
「正しい判断を積み重ねた結果、佐紺さんが重傷を負い、カルナを失った。なら、足りなかったのは判断の正しさだけじゃありません。判断する前に、立てるべき問いです」
ニサバへ向き直る。
「ニサバさん。あのとき、何を調べましたか」
ニサバは少しの間、黙っていた。
それから、正確に答えた。
「この磁気漏れが、人体および機材に有害であるか。計測値は、いずれの安全基準も下回っていました。回答は否。これは、現在も変わりません」
「はい。その判定は正しいです」
ミナトは、ホワイトボードの余白へ書いた。
――この信号は、何と語らうためのものか。
その下へ、さらに二つ。
――誰に届くのか。
――こちらの存在を知らせる可能性はあるか。
「俺たちは、有害か無害かを調べた。強いか弱いかも調べた。でも、何のための信号なのか、誰が受け取るのかは調べなかった」
白い板へ目を向ける。
「俺も聞きませんでした。あの箱の存在を最初に感じて、長い時間システムを調べていたのに」
「用途を問う項目は……」
ニサバが、書かれた問いを見つめながら言った。
「該当する規定の、どの様式にもありません」
「なら、それが仕組みの穴です」
ミナトは答えた。
「ニサバさん個人の頭から、たまたま問いが抜けたんじゃない。誰が同じ様式を使っても、同じ判定になった可能性が高い」
古い規定の欄を、ペンの先で囲む。
「未知の機器から何かが漏れていた場合、今の規定では、人体と機材への影響だけを調べる。でも今回のように、その信号を誰かが聞きつける可能性までは確認しない」
「規定の適用範囲外だった、ということですね」
佐紺が言った。
「ええ。なら、適用範囲を広げる必要があります」
ミナトは、ペンを置いた。
「人を直すんじゃない。規定を直すんです」
長い沈黙のあと、ニサバが口を開いた。
「……このような検証を行うための様式も、ありませんでした」
声が、少しだけ掠れていた。
「人を裁かず、欠けていた問いを探す。判定が正しかった場合にも、仕組みそのものを検証する。そのような手順は、どこにも」
「今、作りましょう」
ミナトは言った。
「起案者は、ニサバさんです。この船で一番、規定と様式の作り方を知っている人だから」
ニサバは、ミナトを見た。
続いて、ホワイトボードの一番上に書かれた言葉へ目を向ける。
人を裁かない。
その一行を、長い間見つめていた。
やがて端末を開き、新しい書式を立ち上げる。
題名欄へ、指が走った。
――規定外事象検証様式。
そこで一度止まり、最後に番号を加える。
――第一号。
「……第二号以降が作成されることを、あらかじめ想定した番号です」
ニサバは、眼鏡の位置を直した。
事故以来、初めて戻った、いつもの仕草だった。
「わたくしたちは、これからも間違えるでしょうから」
◇
その夜、ミナトは自室で、新しい検証様式の草案に目を通していた。
レヴィアタンの絶叫が止んでから、コクヨウと自分を結ぶ糸は、時間をかけて少しずつつながり直していた。
まだ以前ほど鮮明ではない。
それでも、船のどこに大きな重みがあるのか、長く動かないものがあるのか。その程度は再び感じ取れるようになっていた。
船尾の方向。
手すりの近くに、一つの重みがある。
長い間、同じ場所から動いていない。
ミナトが船尾へ向かうと、そこにツクヨミがいた。
裸足のまま、夜の海を見つめている。
両手を手すりへ置き、南の水平線――すでに遥か彼方となった海淵の方角へ顔を向けていた。
ミナトは、少し離れた場所で足を止めた。
声はかけなかった。
糸の向こうは、静かだった。
悲しみが流れ込んでくるわけではない。
怒りでもない。
ツクヨミの内側に、本来なら何かがあるはずの場所だけが、ぽっかりと抜け落ちている。その空白の輪郭が、夜の海の冷たさを帯びて、かすかに伝わってきた。
彼女は、聴こうとしているのだ。
もう届くはずのない距離から。
もう返ってくるはずのない、カルナの声を。
どれほど、そうしていたのだろう。
ツクヨミが、ふいに言った。
「……おるのは、分かっておった」
「すみません。邪魔をするつもりは」
「よい」
ツクヨミは、振り返らなかった。
「……のう、ミナト。カルナはな、口のきけぬやつじゃった」
波の音を聞きながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「記録に残る一万三千年のあいだ、あやつが言葉を持った形跡はない。わしが目覚めてからの三年も同じじゃ。ただ命じられたとおりに設備を動かす、古い船渠じゃと思うておった」
手すりを握る指に、少しだけ力が入った。
「無論、大切ではあった。わしの帰る場所じゃったからの。じゃが、それは大切な道具という意味じゃ。わしは、それ以上のものだとは思うておらなんだ」
波の音だけが、しばらく続いた。
「最後の最後に、あやつは図書館をわしへ渡した。全員が船へ戻るまで待ち、それから灯りを消して回った」
ツクヨミが、わずかに顔を伏せる。
「……あれは、道具のすることか?」
ミナトは、答えを持っていなかった。
だから、確かに感じたことだけを口にした。
「分かりません」
一度、カルナの最後の光景を思い返す。
「ただ、俺には……挨拶に見えました」
「挨拶」
「行ってらっしゃい、って」
ツクヨミが、わずかに顔を上げる。
「灯りを消すのは、送り出す側の仕事だから。図書館を渡したのも、全員が乗るまで待ったのも……カルナなりに、あなたを送り出そうとしたんじゃないでしょうか」
ツクヨミは、長い間黙っていた。
やがて、小さな声で呟く。
「……そうか」
南の水平線を見たまま、もう一度繰り返す。
「あれは、挨拶か」
空白が埋まったわけではない。
失ったものが戻ったわけでもない。
ただ、糸を通じて感じていた空白の鋭い縁が、ほんの少しだけ丸くなったように、ミナトには思えた。
ツクヨミが船尾を離れたのは、それから間もなくだった。
夜空には、月が昇っていた。
ツクヨミは、いつもの甲板へ向かう。
月の見える場所で膝を折り、両手を合わせて目を閉じた。
銀色の髪が月光を受け、白く輝いている。
ミナトは離れた場所から、その姿を見守っていた。
ただ、見ているだけのつもりだった。
だが、糸はつながり直している。
ツクヨミの祈りが深まるにつれ、糸の向こうから、あの温かさが流れ込んできた。
降り注ぐような、優しいぬくもり。
張り詰めた心を包み、少しずつ解いていく、母親の腕のようなもの。
ミナトは目を閉じた。
流れ込んでくるものを遮らず、そのまま受け止める。
以前、満月へ祈りを捧げるツクヨミの傍らで、同じものへ触れたことがあった。あのときは、糸の端へかすかに届いただけだった。
今夜は違う。
ツクヨミが祈りの奥深くへ沈んでいる分、ぬくもりも太く、はっきりと伝わってきた。
温かかった。
本当に、温かい。
長い間、誰からもかけてもらえなかった労いの言葉を、すべてまとめて与えられているような温度だった。
だが、その温かさに身を任せているうち、ミナトの中の別の部分が、勝手に動き始めた。
何日もログを見続け、同じ処理の中にある異常を探してきた、エンジニアとしての目だった。
ぬくもりが、繰り返している。
寄せて、返して、また寄せる。
その間隔が、あまりにも揃っていた。
周期だけではない。
立ち上がりの速さも、最も強くなる位置も、静まっていく形も同じだった。
次の波を待つ。
まったく同じ形で、温かさが届く。
さらに、もう一度。
違いがない。
自然のものにも周期はある。
心臓も、呼吸も、波も繰り返す。
だが、そこには必ず揺らぎがある。人の感情なら、なおさらだ。優しさが同じように繰り返されたとしても、その強さや間合いは少しずつ変わる。
これは変わらない。
一度も、変わらない。
波ではない。
信号だ。
何者かが一定の規則に従って生成し、ツクヨミへ送り続けているもの。
ミナトは、目を開けた。
月光の中で、ツクヨミは祈り続けている。
その横顔は、この船で見たどの瞬間よりも安らかだった。
失われた記憶の中で、唯一、疑わずにすがることのできるもの。
長い孤独の果てに、ようやく見つけた拠り所。
ミナトは口を開きかけた。
だが、何も言えなかった。
祈りへ返ってくるぬくもりが、完全に同じ波形を繰り返している。
分かっているのは、それだけだ。
誰が送っているのか。
何のためなのか。
善意なのか、悪意なのか。
何一つ分からない。
確信もない観測事実を告げることで、あの安らかな横顔を壊す資格が、自分にあるのか。
――ない。
少なくとも、今はまだ。
ミナトは音を立てずに甲板を離れた。
背中へ月光が当たっていた。
振り返らなかった。
ただ、つながったばかりの糸の奥へ、小さな棘が一本刺さったことだけが分かった。
抜き方の分からない棘だった。
◇
翌日の会議は、重い空気の中で始まった。
議題は一つ。
コクヨウの貯蔵区画へ収められた図書館を、どうするか。
「投棄するという選択肢を、最初に検討すべきです」
口火を切ったのは、ニサバだった。
自ら起案した規定外事象検証様式を適用する最初の案件として、あえて最も冷たい選択肢を卓上へ載せた。
「西園寺様が行った遮蔽は、緊急時の応急処置です。恒久的な安全が保証されたものではありません。図書館を搭載している限り、本船が再び目印となる可能性は残ります」
卓上へ、海図を表示する。
「最も確実な方法は、人の往来から離れた海溝へ投棄することです」
「ちょ……ちょっと待ちいや」
朱音が腰を浮かせた。
「あれ、カルナが最後に、わざわざコクヨウへ――」
「分かっています」
ニサバは、静かに遮った。
「感情としては、わたくしも同じです。ですが、検証様式の第一項は、可能性を除外せず問いを立てることです」
朱音を、まっすぐに見る。
「ならば、この問いから逃げることはできません。図書館を保持することは、乗員全員の命に見合うのか」
朱音は、言葉に詰まった。
ミナトにも、すぐに返せる答えはなかった。
技術的には、ニサバの提案が最も安全だ。
遮蔽が破れれば、図書館は再び敵を呼ぶ灯台になるかもしれない。
中身の分からないもののために、全員を危険へ晒すべきではない。
「――ならぬ」
静かな声が、会議卓の奥から届いた。
ツクヨミが、背筋を伸ばして座っている。
「ニサバ。お主の問いは正しい。じゃから、わしも正しく答えよう」
銀色の瞳が、卓を囲む者たちを順番に見た。
「カルナが命を捨てたのは、図書館を守るためではない。わしらを逃がすためじゃ。あやつの一万三千年と、この箱の価値を、同じ秤へ載せるつもりはない」
「では、なおのこと――」
「じゃが、カルナは最後に、図書館をわしへ渡した」
ツクヨミは、ニサバの言葉を静かに引き取った。
「あやつは、敵が近づいておる最中に、隠されていた搬送機構を動かした。佐紺が解放した図書館をコクヨウの口元まで運び、コクヨウも、それを受け入れた」
卓の上へ両手を置く。
「その後で、全員が帰艦するのを待ち、店仕舞いを始めた」
ツクヨミの声は揺れていなかった。
「なぜ、そこまでして図書館をわしへ持たせたのかは分からぬ。中に何が入っておるのかも、まだ知らぬ。わしの失った過去に関わるものかどうかも、確かではない」
それでも、と続ける。
「あやつは、最後の最後に、これをわしへ渡すことを選んだ。その意味を確かめぬまま海へ捨てれば、わしは永遠に、カルナが何を託したのか分からぬままになる」
ツクヨミは、目を伏せなかった。
「わしは、それをしたくない」
「危険を抱え続けることになります」
「抱え続けはせぬ」
ツクヨミは、はっきりと言った。
「捨てるのでも、分からぬまま持ち続けるのでもない。安全な方法を作り、その上で開ける」
銀色の目が、ニサバを捉える。
「それが、カルナから受け取ったものに対して、わしらが返せる最初の答えじゃ」
しばらく、誰も言葉を発しなかった。
やがてニサバが端末へ目を落とし、静かに入力を始める。
「……決定事項」
一字ずつ、確認しながら打ち込む。
「図書館は、現時点では投棄しない。恒久遮蔽と、安全な開封手順を設計した後、内容を確認する」
眼鏡の位置を直す。
「様式に従い、作業より先に問いを立てます。通信機能を完全に停止できるか。開封によって何が起きるか。異常が発生した場合に、誰も欠けずに作業を中止できるか」
左腕を吊った佐紺へ視線を向ける。
「西園寺様の負傷が完全に回復してから、全員で設計を始めます。最短で二日後です」
「時間厳守で」
佐紺が答えた。
右手で工具箱の留め金を、かちりと鳴らす。
会議が散会した後も、ミナトは一人、ラウンジへ残っていた。
ホワイトボードには、前日の検証で作った図が残されている。
――人を裁かない。
――どこに問いが欠けていたか。
ミナトは、その二つを見つめた。
昨夜気づいた小さな棘が、まだ糸の奥へ刺さっている。
月へ捧げた祈りに返ってくる、規則正しいぬくもり。
誰にも話していない、ただ一つの観測事実。
――問いを先に立てる。
ミナトはペンを取った。
ホワイトボードの隅へ、誰の目にも留まらないほど小さな字で、一行を書く。
あの「返事」は、誰が、何のために送っているのか。
書いた言葉を、しばらく見つめた。
それから、すぐに消した。
白い板の上には、薄い消し跡だけが残った。