第二章 帰る場所を海の底に
二十一
署名
図書館を開くと決めてから、二日が過ぎた。
その朝、佐紺はダスラの最終診察を終え、左腕を固定していた装具が外された。
医療区画を出る前に、最初に手を伸ばしたのは工具箱だった。
蓋を開き、中身を一つずつ取り出しては、元の位置へ戻していく。
ドライバー。テスター。圧着工具。絶縁処理用の器具。
爆発の際に焼け焦げた手袋は、同じ型の新品へ交換されていた。工具にも焦げや汚れはなく、すぐに現場へ戻れる状態へ整えられている。
誰が揃えたのかは、聞かなくても分かった。
佐紺は留め金を、かちりと閉じた。
顔を上げると、医療区画の扉の前にニサバが立っていた。
「回復を確認しました」
「はい。お待たせしました」
「これを」
ニサバが差し出したのは、見舞いの品ではなかった。
一枚の、印刷された書式だった。
――規定外事象検証様式・第一号。
先日の検証をもとに、ニサバが正式に作成した様式だった。
発生した事象。
時系列。
判断の連鎖。
当時得られていた情報。
欠けていた問い。
再発を防ぐために追加された確認項目。
最下段には、承認欄と並んで、これまでの様式にはなかった欄が一つ設けられていた。
――当事者確認。
「様式の最後に、当事者の署名を要する設計としました」
ニサバは、いつもの事務的な声で説明した。
「責任を認めさせるための欄ではありません。この検証は、あなたを裁くために行われたものではない。そのことを、当事者自身が確認したと記録するための欄です」
書式を持つ指へ、わずかに力が入る。
「あなたが、最初の署名者です。西園寺様」
佐紺は書式を受け取り、最初の一行から最後まで、時間をかけて読んだ。
読み終えると、わずかに口元を緩める。
「……よい様式です」
「正式運用前ですので、評価は差し控えてください」
「では、非公式に」
佐紺は、もう一度書式へ目を落とした。
「私は、この様式が好きです。これまであなたが作ったものの中で、一番よい」
ニサバの指が、眼鏡の位置を直した。
佐紺はペンを借り、当事者確認の欄へ署名する。
西園寺佐紺。
電気工事の図面を思わせる、角度まで揃った几帳面な字だった。
「これで、正式版ですね」
「はい」
ニサバは署名を確認し、書式を受け取った。
「規定外事象検証様式・第一号。これをもって、運用を開始します」
それだけ言って踵を返しかける。
「ニサバさん」
佐紺に呼ばれ、足を止めた。
「工具を、ありがとうございました」
ニサバは振り返らなかった。
「作業に必要な状態へ復旧しただけです」
「そうですか」
「はい。規定どおりです」
佐紺は、それ以上追及しなかった。
◇
図書館を開封するための設計は、その日の午後から始まった。
ラウンジへ運び込まれたホワイトボードに、ミナトは真っ先に一行を書いた。
――どう開ければ、誰も欠けずに済むか。
「先に、失敗したときの話をします」
ミナトは、集まった者たちを見回した。
「以前、俺はコクヨウの深層へ一人で入り、倒れました。誰にも目的を伝えず、命綱もつけず、中断する基準も決めないまま」
あのときのことを思い出しながら、指を一本ずつ折っていく。
「今回は、あの逆をやります。全部、逆にします」
一本目。
「一人では開けない」
二本目。
「中断する条件を、始める前に決める」
三本目。
「作業時間と休憩時間を、先に固定する」
そして四本目。
「翻訳を、一人だけに背負わせない」
ミナトはエティンを見た。
「エティンさん。図書館の原文は、コクヨウの深層より濃い可能性があります。あなた一人が受け続けたら、途中で限界が来る」
「輪番にする、ということですね」
ニサバが応じた。
「第一担当をエティン、第二担当をわたくしとし、時間によって交代する。負荷の大小にかかわらず、予定時刻で切り替えます」
「お願いします」
「ご配慮、痛み入ります」
エティンは静かに微笑んだ。
「ですが、ミナト様。一つだけ申し上げておきます」
「はい」
「限界の手前がどこにあるかは、わたくしども自身の感覚も判断材料になさってください」
穏やかな声だったが、言葉は明瞭だった。
「わたくしどもの限界を、守るという理由で、あなたが勝手に低く決めてしまいませんように」
以前のミナトなら、自分だけで安全な線を決め、善意のつもりで相手をそこへ押し込めていたかもしれない。
ミナトは、素直に頷いた。
「……肝に銘じます。本人の申告も聞く。でも、申告だけには頼らない。その両方で判断します」
「よろしい」
ダスラが腕を組んだ。
「神経負荷と循環状態の監視は、わたくしが担当いたします。数値が中断基準を越えれば、ご本人が続けられるとおっしゃっても止めますわ。医療責任者の権限として」
「物理接続と緊急遮断は、私が担当します」
佐紺が言った。
「ミナトさんの端末と図書館の間へ、複数の遮断点を設けます。どこか一つでも異常が出れば、即座に物理回線を落とせるようにします」
「工程管理は、わたくしが」
ニサバがホワイトボードへ項目を書き加えていく。
「ただし、わたくしが翻訳へ入っている時間は、事前に作成した工程表に従い、朱音様が時刻と異常表示を読み上げてください」
「分かった。表示が一個でも変な動きしたら、すぐ言う」
「月方向を含む外部警戒は、エイルがCICから行います」
ニサバが続ける。
「外部から一定値以上の電磁、重力、音響干渉を観測した場合、内部の状況にかかわらず作業を中止します」
役割が、一つずつ埋まっていく。
ミナトは内部へ潜り、封を解く。
佐紺は、物理的な接続を維持し、必要なら切断する。
エティンとニサバは、共鳴接続によって図書館の情報を、人間の認識へ翻訳する。
ダスラが全員の身体を監視し、朱音が波形と工程を照合する。
エイルは船外からの異常を見張る。
卓の最も奥で、ツクヨミがその様子を見ていた。
「……わしの記録を開けるというのに、わしのすることがないの」
「あります」
ミナトは答えた。
「一番大事な役目が」
「ほう」
「見ることです」
ツクヨミの銀色の瞳を、正面から見る。
「中から何が出てきても、目を逸らさずに見届ける。それは、あなたにしかできません」
ツクヨミは、しばらくミナトを見つめていた。
やがて、ふっと目を細める。
「……よかろう」
小さく頷いた。
「それは、わしの領分じゃ」
そこから二日をかけて、工程は詰められた。
接続試験。
遮断試験。
生体負荷計測。
退避経路の確認。
ミナトが意識を失った場合、エティンかニサバが動けなくなった場合、図書館が外部へ信号を発した場合。
考えられる異常を一つずつ挙げ、そのたびに作業を止める手順を決めた。
最後に全員で模擬試験を行い、誰も手順を間違えないことを確認した。
◇
開封当日の朝。
コクヨウの保管区画で、正十二面体は作業灯の下に静かに佇んでいた。
黒曜石を思わせる十二の面。
表面へ刻まれた、渦とも文字ともつかない古い文様。
磁気信号を遮るために巻かれていた多層遮蔽布は、作業範囲だけが慎重に取り外されている。
佐紺が復旧した接続端子から、複数の遮断器を経由し、細い有線がミナトの端末へつながっていた。
「工程を開始します」
ニサバの声が、区画内へ響いた。
「第一翻訳担当、エティン。交代予定まで四十分。外部警戒、異常なし。各中断基準は、事前合意のとおりです」
『観測よりCIC。月方向を含む全外部観測、異常なし』
船内通信から、エイルの報告が届く。
「朱音様」
「時間と波形、記録開始。いつでもいけるで」
「ダスラ」
「全員の基礎値、正常ですわ」
「西園寺様」
「物理回線、接続完了。緊急遮断、いつでも可能です」
ニサバは最後に、ミナトへ目を向けた。
「ミナト様。接続してください」
ミナトは端末へ指を置いた。
エティンの手が、右肩へ触れる。
青い瞳が、内側から熔けるような金色へ変わった。
共鳴接続。
ミナトは、図書館の中へ潜った。
外層に広がっていたのは、コクヨウの深層に似た暗闇だった。
だが、あの場所にあった生きた回路の熱は、ここにはない。
静かだった。
図書館というより、誰にも開かれないまま眠っていた書庫。
古い紙の匂いさえ漂ってきそうな、冷たく穏やかな暗がりだった。
その奥に、扉があった。
第一層を閉ざす、複雑な封。
ミナトは、その表面へ意識の指を触れさせた。
そして、手を止めた。
「……これ」
『いかがなさいましたか』
エティンの声が、翻訳を通して届く。
「編み目を、見たことがあります」
目の前の封は、幾重にも重ねられた糸のような構造をしていた。
誓約封と同じ技術。
それだけなら、驚くことではない。同じ文明の、同じ技術体系で作られたものなら、似ていて当然だ。
だが、これは技術が同じなのではなかった。
編み手の癖が同じだった。
ミナトは以前、誓約封の綻びを探し、その構造を長い時間たどった。
そのとき、指が覚えていた。
この編み手は、結び目の最後を必ず内側へ折り返す。
力を逃がす方向にも、決まった順序がある。
幾万と重なる結び目のすべてへ、同じ指の癖が残されている。
筆跡。
あるいは、署名。
その署名が、図書館の第一層にもあった。
「誓約封を編んだ人と、この第一層を封じた人は、同じです」
ミナトは呟いた。
「同じ手が、ツクヨミの武器を閉ざして、ここにも封を残してる」
区画が、静まり返った。
同じ人物が、二つを封じた。
一方は、コクヨウが人を傷つけないための誓約封。
もう一方は、いまだ中身さえ分からない図書館。
守るためなのか。
奪うためなのか。
それとも、まったく別の理由なのか。
「……開けよ」
ツクヨミが言った。
正十二面体の正面、最も近い場所に立っている。
「その手の主には、聞きたいことが山ほどある」
銀色の瞳が、第一層の奥を見つめていた。
「開けよ、ミナト」
ミナトは頷き、最初の結び目へ指をかけた。
編み手の癖に従い、内側へ折り返す。
一つ目の結びが、ほどけた。
そこから先は、同じ作業の繰り返しだった。
一つ解けば、その奥に次の結び目が現れる。
力をかけすぎず、構造を傷つけず、編み手が残した順序を逆にたどっていく。
予定していた四十分が近づいた頃、ダスラの声が届いた。
「交代時刻ですわ。エティン、手を離してください」
「まだ、続けられます」
「承知しております。ですが、予定時刻です」
わずかな沈黙の後、エティンの手がミナトの肩から離れた。
金色だった瞳が、元の青へ戻る。
顔色は変わっていない。
それでも、指先にはわずかな冷えが出ていた。
「第一翻訳担当、離脱。休息へ」
ニサバが告げた。
「第二翻訳担当へ移行します。朱音様、工程の読み上げを」
「了解。経過時間、四十分。波形に急変なし。外部異常なし」
ニサバがミナトの左肩へ手を置いた。
紫色の瞳が、金色へ変わる。船内服の白線も、深い青色へと変化していく。
「共鳴接続、成立。再開してください」
決めた手順どおりに交代した。
誰かが倒れるまで耐えるのではない。
倒れる前に、役目を渡す。
ミナトは一度呼吸を整え、作業を再開した。
最後の結び目を、内側から解く。
封が――静かにほどけた。
◇
変化は、区画の中央から始まった。
開いた第一層から、光の粒がゆっくりと立ち昇る。
八代から送られてきた映像で見た、還った感情の光とよく似ていた。
粒が集まり、線となり、面となる。
コクヨウに保存されていた古い記録が、光によって形を与えられていく。
保管区画の空中に、一万三千年前の光景が立ち上がった。
最初の断片は、夜だった。
どこかの海辺。
空には、今よりはるかに多くの星が輝いている。
その下で、黒い巨体が浅瀬へ横たわっていた。
コクヨウだった。
今よりも、ずっと傷ついている。
装甲の各所が焼け、深く抉られ、船体を走る赤いラインも半分近くが光を失っていた。
大きな戦いを終えた直後なのだと、すぐに分かった。
その甲板に、一人の男が座っていた。
浅黒い肌をした、大柄な男。
革の胸当てには無数の傷が刻まれている。外見だけなら、四十をいくつか越えた程度に見えた。
男は胡坐をかき、傷ついた装甲へ手のひらを置いていた。
『――すまなかった』
低く、疲れ切った声だった。
『今日も、お前に撃たせた』
男の指が、焼けた装甲をゆっくりと撫でる。
『撃ちたくなどなかったろうに。……すまなかった』
それだけを言って、男は目を閉じた。
相手が聞いていると確信している顔ではなかった。
ただ、言わずにはいられないから言っている。
道具として扱われている船へ、誰も見ていない場所で頭を下げる人間だった。
そのとき。
映像の視点が、わずかに動いた。
揺れたのではない。
視たのだ。
この記録は、コクヨウの側に残されたものだった。
傷ついた巨体が、自分の甲板へ座る一つの熱を、初めて他の何かと区別して捉えた瞬間。
焦点が男へ合っていく。
合ったまま、離れなくなる。
言葉はない。
まだ、人へ返す声を持っていなかった。
それでも、記録のすべてが男一人へ向いていた。
――見つけた。
声にならない何かが、そう告げていた。
ミナトは、息を呑んだ。
隣でツクヨミが、身じろぎもせずに映像を見つめていた。
「……アダマス」
ツクヨミが、囁くように言った。
「あやつの、名じゃ。名だけが……今、戻ってきよった」
二つ目の断片は、昼だった。
海辺の集落。
木と石で作られた家々の間を、人々が行き交っている。
その中に、白い装束を身につけた娘たちがいた。
薬草を摘む娘。
漁網を繕う娘。
遊び回る子供を叱っている娘。
顔立ちが、今のセラフたちに似ていた。
同じではない。
だが、それぞれに、どこか現在の娘たちへ続く面影がある。
「……記録に残る、最初の巫女たちですわ」
ダスラが囁いた。
その集落の道を、小さな影が駆けていく。
銀色の髪。
黒い巫女装束。
裸足。
首には、あの鉄の輪が嵌まっていた。
だが、そこから伸びる鎖は、今のように短く千切れてはいない。
長い鎖が、跳ねる足取りの後ろを地面へと延び、映像の外へ続いていた。
その先に何があるのかは、見えなかった。
ツクヨミだった。
今と、ほとんど変わらない姿。
けれど、走り方がまるで違った。
今のツクヨミは、音もなく床を滑るように歩く。
映像の少女は、子供のように地面を蹴り、身体を弾ませながら走っていた。
記録は、夕暮れへ移る。
家々から、夕餉の匂いが流れていた。
銀色の少女が、一軒ずつ戸口を回っている。
『おやすみ』
次の家へ駆ける。
『おやすみなのじゃ』
さらに隣の戸口へ顔を出す。
『……こら、まだ寝るには早いぞ、爺。飯を食うてからにせい』
家の中から、老人の笑い声が返ってくる。
『うむ。では、飯を食うたら、おやすみじゃ』
当たり前のように。
毎晩の決まりごとのように。
家々から、「おやすみ」という返事が届く。
少女は満足そうに頷き、また次の家へ駆けていった。
一軒も飛ばさずに。
保管区画で、小さく息を呑む音がした。
朱音だった。
両手で口元を押さえている。
この船へ来て間もない頃。
ラウンジで初めて「おやすみ」と声をかけられたツクヨミが、聞き慣れない言葉のように、口の中で何度も確かめていた姿を覚えている。
あれは、本当の意味で初めて聞いた言葉ではなかった。
思い出せなかっただけなのだ。
かつては、毎夜、自分から皆へ配って歩いていた言葉だった。
朱音は何も言わなかった。
言えなかった。
ただ口元を押さえたまま、光の中を駆ける少女を見つめていた。
三つ目の断片は、途中から始まった。
薄暗い、船内の一室。
最初の映像にいた男――アダマスが、片膝をついている。
その正面に、ツクヨミが立っていた。
首には、鉄の輪。
そこから、太い鎖が伸びている。
鎖の先は映像の外へ続き、その向こうにいる何者かへ、少女をつないでいた。
アダマスの手には、工具にも剣にも見える、細長い器具が握られていた。
『動くな』
男が言う。
だが、すぐに首を振った。
『……いや、違うな』
少女を見上げる。
『こう言うべきだ。――もう、動かされるな』
器具が振り下ろされた。
鎖が断たれる。
重い金属が床へ落ち、甲高い音を立てた。
だが、床へ落ちたのは、鎖のすべてではなかった。
首輪に近い部分だけは、アダマスの刃を受けても断ち切れず、なお長くツクヨミの足元まで垂れている。
アダマスはもう一度、鎖へ刃を当てた。鈍い光が弾けたが、首輪に近づくほど鉄は硬くなり、表面へ傷一つ残らない。
『……ここから先は、切れないか』
男はしばらく残された鎖を見つめた。
やがて刃を下ろし、ツクヨミへ手を差し出す。
『すべて外してやれなくて、すまない』
ツクヨミは残った鎖を一度見下ろしたあと、その手を取った。
アダマスは器具を置き、両手を伸ばした。
その手が、首輪そのものへ触れる。
『あとは、これだが――』
男の唇が動いた。
何かを言いかける。
そこで、記録は途切れた。
光景が砂のように崩れ、暗闇へ戻っていく。
首輪へ触れた指と、言いかけた唇の形だけを残して。
「……そこで終わるんかい」
朱音が、堪えきれずに声を漏らした。
「一番知りたいところやのに……」
「第一層に保存されている映像は、ここまでです」
ミナトは端末を確かめた。
「この先は、さらに深い層へ続いています」
光の残滓が、区画の床へゆっくりと沈んでいく。
ツクヨミは、最初から最後まで姿勢を崩さなかった。
背筋を伸ばし、まばたきの回数さえ惜しむように、すべてを見つめていた。
コクヨウ自身が保存していた、自分の過去。
それなのに、今のツクヨミには思い出として還ってこない、自分の幸福。
光が完全に消えてから、長い沈黙の末に口を開いた。
「…………楽しそうじゃの。こやつは」
こやつ。
自分自身を、そう呼んだ。
映像の中で「おやすみ」を配って回る少女を見ている間、ツクヨミの右手は、ずっと自分の首輪へ置かれていた。
その姿は、全員に見えていた。
だが、細い指へ込められた力と、そこから伝わるかすかな震えだけは、糸を通してミナトにしか分からなかった。
◇
撤収の手順へ移ろうとした、そのときだった。
「……お待ちください」
エティンが声を上げた。
休息を終え、後方から作業を見守っていた彼女の瞳が、閉じかけた第一層の端へ向けられている。
「まだ、何か残っています」
「映像ですか?」
「いいえ。もっと短いものです。書き付けが、一つ」
ミナトは端末の表示へ戻った。
確かに、第一層の末尾に小さな情報の塊が残されている。
記録の群れから少し離れ、ぽつんと置かれていた。
資料というより、ページの間に挟まれた栞のようだった。
「開きます」
光が、空中へ短い文字列を編んだ。
続いて、男の声が流れる。
過去の光景を再生したものではない。
残された文章を、図書館がアダマスの声で読み上げているのだ。
『――これは、お前のものだ』
静かな声だった。
『思い出したくなった日のために』
それだけだった。
署名はない。
だが、誰の言葉かは分かった。
それが誰へ残されたものかを、間違える者はいなかった。
区画の空気が変わった。
最初に口を開いたのは、佐紺だった。
「……『思い出したくなった日のために』」
光の文字を見つめる。
「この方は、いつかツクヨミさんが、ここに保存された記憶へ自由に触れられなくなる可能性を想定していた、ということでしょうか」
「少なくとも、記憶が永遠に現在の形で残り続けるとは考えていなかった」
ニサバが慎重に続けた。
「偶発的な劣化へ備えただけなら、通常は修復や複製のための記録を残します。ですが、この文章は、本人が自ら取り戻す日を前提としている」
視線が、ツクヨミへ集まった。
ツクヨミは、空中の文字を見つめている。
――これは、お前のものだ。
一万三千年前の男が、遠い未来の彼女へ残した言葉。
「……わしは」
ツクヨミの声は静かだった。
「わしの記憶は、長い年月の中で擦り切れたのじゃと思うておった。壊れ、こぼれ、失われたのじゃと」
銀色の目が、一度だけ瞬く。
「欠けるとは、そういうことじゃと思うておった」
首輪に触れていた指が、わずかに動いた。
「じゃが、これは……こぼれ落ちたものへ書く言葉ではないの」
もう一度、光の文字を読む。
「預けておいたものへ、いつか手を伸ばす者に向けた言葉じゃ」
誰も、その先を促さなかった。
「……わしは、ただ忘れたのではないのかもしれぬ」
答えは、図書館のさらに深い層にある。
今日開いたのは、最も外側にある一層だけだった。
第二層を閉ざす編み目は、第一層よりはるかに複雑で、触れただけでも膨大な情報量が伝わってくる。
「第二層は、今日開いた封とは比較になりません」
ミナトは正直に告げた。
「解析だけでも時間が必要です。それに、今日の負荷を見る限り、準備せずに潜っていい深さではありません」
エティンとニサバの二人は、予定どおり交代した。
それでも、どちらの指先にも冷えが残っている。
ミナト自身にも、深い疲労があった。
「急がぬ」
ツクヨミが言った。
「一万三千年、待っておったのじゃ」
光の消えた空間を見つめたまま、ゆっくりと続ける。
「あと少し待つくらい、どうということはない」
声は、いつもの落ち着きを取り戻していた。
糸の向こうに残る空白も、まだ空白のままだった。
だが、その空白には初めて、宛先が記されていた。
◇
その夜、ラウンジで、ささやかな夕食会が開かれた。
図書館の第一層を無事に開いた労をねぎらう、という名目だった。
もっとも、実際にはウェスタが、
「めでたいのか、めでたくないのか分からない日こそ、たくさん食べるべきです!」という独自の作法を発動しただけだった。
円卓には、六人が座っていた。
ミナト。
朱音。
佐紺。
エティン。
ダスラ。
ニサバ。
ツクヨミは、「今宵は、少し船と話す」と言い残し、コクヨウの深層へ意識を沈めていた。
ロタは機関科の点検が長引き、まだ来ていない。
そのため、今夜の食卓には、六人だけが揃っていた。
「――しっかし、あれやなあ」
朱音がウェスタの唐揚げを頬張りながら言った。
「一万三千年前のツクヨミちゃん、めっちゃ喋っとったなあ。おやすみ言うて、全戸訪問しとったで」
「今も、十分にお話しになると思いますが」
佐紺が答える。
「ちゃうねん。喋る量やなくて、その……軽さが違うっていうか」
朱音は、箸を持ったまま身振りを加えた。
「走り方も、ぴょんぴょん跳ねとったやん」
「……ええ。跳ねておいででした」
エティンが目を細める。
彼女たちの誰も覚えていない、かつての主の姿だった。
最初の巫女たちは、あの姿を知っていた。
その血を継ぐ現在のセラフたちも、コクヨウが眠りにつく直前までのツクヨミに仕えていたはずだった。
だが、眠りにつく前の彼女たち自身の記憶も、今は失われている。
「取り戻せますの?」
ダスラが、誰にともなく尋ねた。
「あの走り方は」
「取り戻す、という表現は、正確ではないかもしれません」
ニサバが生真面目に答えた。
「記憶が戻ったとしても、過ぎた時間そのものは戻りません。かつてと同じ存在になるとは限らない」
「そうですわね」
「ただ……」
ニサバが、わずかに言葉を止めた。
「ただ?」
朱音が続きを促す。
「……新しく、跳ねることはできるかと」
食卓が、しんと静まった。
ニサバは、自分が何を口にしたのか遅れて気づいたように、眼鏡を直した。
「……規定外の発言でした。忘れてください」
「いや、ええこと言うたで、ニサバさん!」
朱音が身を乗り出す。
「それや! 昔のツクヨミちゃんに戻すんやなくて、今のツクヨミちゃんを新しく跳ねさせたらええねん!」
「具体的には、どのような方法で?」
「ゲーセンへ連れていく!」
「朱音様。それには、まず外出時の服装と警備に関する規定を――」
「そこで規定に戻るんかい!」
笑い声が、円卓を巡った。
ミナトはコーヒーのカップを手に、ふと食卓全体を見渡した。
六つの席が、すべて埋まっていた。
その、ごく当たり前の眺めに目が止まる。
初めてこのラウンジへ通された夜。
円卓には、六つの席が用意されていた。
座っていたのは、ミナト、朱音、佐紺の三人。
残る三席は、空いていた。
誰のために用意されたのか分からない空席が、あの夜は薄気味悪くて仕方がなかった。
使う者もいないのに、最初から待ち構えていた席。
だが今、空席はない。
朱音の隣には、ダスラが座っている。
佐紺の隣には、ニサバ。
そして、ミナトの隣にはエティンがいた。
まるで、いつかこうなることを知っていたかのように。
ミナトの視線に気づいたのだろう。
朱音が箸を止め、円卓を見回した。
ミナトが見ているものをなぞるように、席を一つずつ確かめていく。
「…………なあ」
小さな声だった。
「この机、六席やったよな。最初から」
それだけだった。
佐紺は、静かに茶を飲んだ。
ニサバは、手元の端末を閉じる。
ダスラは少しだけ笑い、唐揚げを一つ、朱音の皿へ載せた。
エティンは、空になりかけたミナトのカップへ、そっとコーヒーを注ぎ足す。
言葉にしてしまえば、壊れそうな気がした。
六つの席は、すべて温かいまま。
穏やかに、夜が更けていった。