文字
行間
背景

第二章 帰る場所を海の底に

十九

弔鐘

カルナの最深部には、まだ正十二面体――図書館が残されていた。

十二の面から伸びていた接続は、回路としてはすべて分離を終えている。電気的には切り離されているが、通信束そのものは台座へ残っている。残っている作業は、通信束の撤去と、構造物そのものを台座へ固定する、最後の結節の切り離しだけだった。

これを外せば、図書館はカルナから完全に切り離される。

だが、その作業を終える前に、レヴィアタンが叫び始めた。

佐紺は有線の作業灯を傍らに提げ、正十二面体の前に座り込んでいた。

携帯磁気計の針は、落ち着きなく左右へ揺れている。図書館から漏れる古い磁気信号と、外から浴びせられている、広帯域の泣き叫ぶような信号。その二つが重なり合い、区画全体を目には見えない嵐の中へ沈めていた。

図書館の信号を止め、残った接続を外す。

目印さえ消せれば、カルナの偽装は再び機能する。

佐紺は一度だけ目を閉じた。

悔いるのは後だ。

今は、手を動かす。

工具箱を開く。中身を確認する必要はなかった。ここへ来るまでに、すでに三度確かめている。

同行者は、いない。

開かれたままの回路が撒き散らす磁場に、外から浴びせられる広帯域の叫び。二つの波が渦を巻く今のこの部屋は、共鳴接続のための頭の造作を持つセラフには、感覚の狂いやすい場所になっていた。緊急の突入なら短時間で済む機関科が待機し、磁気に惑わされない人間の手が、中の精密作業を受け持つ。それが、ニサバの組んだ分担だった。

「……第一報告」

壁に備えられた有線電話の受話器を取った。

『ニサバです』

呼出音が鳴り終わるより早く、返事があった。

ずっと受話器の前で待っていたのだろう。

「作業を開始します。磁気通信回路の終端処理を行った後、残る通信束と固定機構を分離します。所要時間は二十分前後を見込んでいます」

『了解しました』

短い沈黙があった。

『西園寺様』

「はい」

『十分後に第二報告を。その後も十分ごとです。一分でも遅れれば、機関科を向かわせます』

「承知しました。時間厳守で」

受話器を戻した。

あの叫びは、音としてここまで届いているわけではない。

それでも、区画のあちこちで計器の針が狂い、電源を落としたはずの表示灯が勝手に明滅している。目に見えない巨大な叫び声が、回路という回路を揺さぶっていた。

佐紺は絶縁手袋をはめ、最初の端子へ工具を当てた。

――配線は、嘘をつかない。

それが、佐紺の信仰だった。

人は嘘をつく。

組織も、ときには裏切る。

だが導体は、つなげば流す。外せば止まる。絶縁体は、決められた限界まで電気を遮る。

長年、その正直さを信じて現場に立ってきた。

十分後。

第二報告は、予定どおりに行われた。

「終端回路の接続、完了。外部への磁気漏洩は減衰しています。これより最後の通信束と、台座の固定機構を分離します」

『了解しました。次の報告は十分後に』

「承知しました」

受話器を戻し、正十二面体へ向き直る。

作業開始から、十九分。

携帯磁気計の針は、中央へ戻りつつあった。終端回路は正常に働いている。

残っているのは、上面の通信束一本。

そして、図書館を台座へ固定している最後の結節だけだ。

佐紺は工具を差し込み、通信端子を固定している環をゆっくりと回した。

一段。

二段。

最後のロックが外れる。

その瞬間、磁気計の針が大きく跳ね上がった。

「……っ」

触れていない隣の配線が、青白く光る。

外から浴びせられ続けている広帯域の波が、遮蔽を一時的に失った通信系統へ、強い誘導電圧を発生させたのだ。

端子の間にアークが走った。

青白い光の橋が空気を焼きながら、すぐ脇に設置されていた円筒形の装置へ飛び込む。

磁場安定化用の蓄電器だった。

図書館へ供給される磁気エネルギーの揺らぎを吸収し、一定に保つための装置。本来なら、急激な電力を受け入れることなどない。

だが今、開かれた通信系統を通じて、レヴィアタンの叫びが生み出した電力が一気に流れ込んでいた。

円筒形の外装が、内側から膨らむ。

安全弁が開き、白い蒸気が噴き出した。

それでも圧力は下がらない。

「まずい――」

長年の現場経験が、考えるより先に佐紺の身体を横へ跳ばした。

閃光。

破裂音。

過充電に耐えきれなくなった蓄電器の内部で、絶縁材と冷却液が一瞬にして気化した。

金属製の外装が、内側から破裂した。

閃光と轟音。

白熱した部品と破片が爆風に乗り、区画中へ飛び散る。

佐紺の左脇腹へ、手のひらほどもある鋭い破片が飛んだ。

避ける時間はなかった。

破片が最初にぶつかったのは、身体ではない。

船内服の左腰へ固定されていた、鋼製の圧着工具だった。

甲高い金属音が鳴る。

分厚い工具の本体が大きくひしゃげ、破片の勢いを受け止めた。

ニサバと二人で、使用頻度と重量を検討し、左脇腹へ配置した工具。

その鋼の塊が、本来なら腹部へ突き刺さるはずだった破片の軌道を、わずかに外側へ逸らした。

それでも、衝撃は消えなかった。

圧着工具を押し潰した破片が船内服の表面を裂き、左脇腹を深く抉る。

同時に、爆風が佐紺の身体を床から吹き飛ばした。

服を走る白い線が、激しく明滅する。

衣服そのものの防護機能が作動したことを示す、白い警告だった。

衝撃分散層が瞬時に硬化し、一点へ集中した力を脇腹全体へ逃がす。

船内服の内側で、微かな破裂音が連続した。

傷口の周囲へ埋め込まれていた微細な薬剤層が、血液を検知したのだ。

裂けた布地の内側から、白い泡が一斉に噴き出した。

泡は佐紺の脇腹と服の隙間へ広がり、流れ出す血を包み込みながら膨らんで裂けた表面を覆い、外側から押さえ込むように形を変えていた。

泡は弾力のある多孔質の塊へ硬化して開いた傷口を塞ぎ、失われる血を、救助が来るまでの時間だけ食い止めていた。

破片は腹部の奥へ届かなかった。

だが、逃がされた衝撃が肋骨を折る。

佐紺は背中から機材の角へ激突し、そのまま床へ落ちた。

「……っ!」

息が詰まる。

細かな白熱片が左腕を掠め、布地と皮膚を焼いていた。

左腕と脇腹に、焼けた鉄を押しつけられたような熱が走る。

息を吸うたび、胸の奥へ鋭い痛みが突き刺さった。

白い止血材の奥から、血が少しずつ滲み出していた。

完全には止められていない。

服が稼いでくれたのは、安全ではない。

あと何分かという、命の猶予だけだった。

脇腹から流れ出した温かいものが、漆黒の船内服を濡らしていく。

それでも、出血は致命的な速さではなかった。

左腰で潰れた圧着工具と、白く明滅を続ける船内服。

その二つがなければ、破片は腹部を貫いていた。

配線が嘘をついたのではない。

佐紺が読み違えたわけでもない。

この夜だけは、回路の外にある世界そのものが、想定を超えて暴れていた。

視界が明滅する。

それでも佐紺の目は、床に倒れたまま、一点だけを見ていた。

最後の固定機構。

あと、一つ。

佐紺は、右腕だけで床を這った。

工具は、まだ右手の中にある。

手放さなかったのではない。

手が、勝手に握り続けていた。

長年、そうしてきた手だった。

「――ぐ、っ」

左腕は動かない。

視界の端が、少しずつ暗くなっている。

それでも右手を伸ばし、台座の解除レバーへ指をかけた。

一段目。

動かない。

歯を食いしばり、残った力を右腕へ集める。

二段目。

内部で、重い固定具が外れる音がした。

正十二面体の表面を走っていた文様が、一度だけ淡く輝く。

台座との間に、わずかな隙間が生まれた。

完全に、解放された。

携帯磁気計を見る。

揺れていた針が、ゆっくりと中央へ戻っていく。

そして、止まった。

ゼロ。

外へ漏れていた目印は、消えていた。

佐紺は床へ頬をつけたまま、小さく笑った。

「……様式、第三号……報告……」

声は、受話器まで届かなかった。

二十分後の第三報告は、来なかった。

ニサバが待ったのは、一分だけだった。

二十一分ちょうど。

受話器を置き、機関科へ向かって叫ぶ。

「カルナ最深部へ! 西園寺様からの定時報告が途絶えました!」

最初に走り出したのは、ロタだった。

「場所は!」

「図書館の設置区画です!」

「分かった!」

橙色のつなぎを着た小さな背中が、通路の奥へ消える。

ロタが走り始めると、カルナの床に一本の光が灯った。

最深部へ向かう誘導線だった。

曲がり角へ近づくたび、隔壁が先回りするように開いていく。普段は使われていない搬送路までが起動し、ロタを載せた床そのものが加速した。

「……なんだい、急に」

答えはない。

ただ、急げと告げるように、光の道だけが先へ続いている。

最深部の扉が開いた。

焦げた臭い。

床に散らばった工具。

破裂した蓄電器の残骸。

そして図書館の前で、血だまりに沈む濃紺の作業着。

「――佐紺!」

ロタは駆け寄り、首元へ指を当てた。

脈はある。

弱い。

だが、確かに続いている。

「馬鹿……! 無理するなって言っただろ……!」

怒鳴りながらも、小さな手は正確に動いた。

気道を確認し、左腕と脇腹へ止血材を押し当てる。壁に備えられていた応急搬送用の耐熱シートを引き出し、佐紺の身体を慎重に載せた。

そのとき、床の奥から低い振動が伝わってきた。

ロタが振り返る。

正十二面体の下で、台座が動いていた。

佐紺が固定を外した図書館を載せたまま、黒い台座そのものが形を変えていく。

両脇から支柱が伸び、正十二面体を包み込む。

床の一部がせり上がり、巨大な搬送架台へ組み替わった。

「……こんな機構、あったのかい」

ロタは呆然と見上げた。

機関長である自分も知らない。

ツクヨミからも、ニサバからも聞いたことがない。

図書館を載せた搬送架台の前方へ、一本の光が走る。最深部から中央ドックへ続く、まっすぐな道だった。

架台が、ゆっくりと動き始めた。

速くはない。

正十二面体を傷つけないよう、揺らさず、慎重に運んでいく。

ロタは一瞬、その後を追おうとした。

だが、すぐに佐紺へ向き直る。

「……そっちは、勝手に行きな。こっちは、人命が先だ」

耐熱シートを両腕で抱え上げる。

小柄な身体が、大の男の重みを受け止めた。

佐紺の唇が、かすかに動く。

「……針、は」

「は?」

「磁気計の……針は……」

ロタは床に転がっていた計器を一瞥した。

「止まってるよ。ゼロだ」

佐紺の耳元へ、はっきりと告げる。

「あんたの仕事は、終わってる。図書館も、たった今、台座から外れた」

佐紺の口元が、わずかに緩んだ。

そのまま意識が落ちる。

「……ったく」

ロタは奥歯を噛み、走り出した。

「褒めるのは後だ! 死んだら承知しないからね!」

足元の搬送路が、再び動き始めた。

佐紺を抱えたロタを、図書館の後ろから中央ドックへ向けて運んでいく。

CICには、二つの報せが、ほとんど同時に届いた。

図書館からの磁気信号が消失したこと。

そして、佐紺が重傷を負ったこと。

「治療ポッドを準備! 最優先ですわ!」

ダスラがCICを飛び出そうとする。

その直前、全周囲ホログラムの一角へ、カルナ内部の映像が表示された。

誰も、映像を要求していない。

最深部から中央ドックへ続く通路を、正十二面体を載せた搬送架台が進んでいる。

ツクヨミが、目を見開いた。

「……何じゃ、これは」

銀色の瞳が、映像を追う。

「わしは、図書館を運べと命じておらぬ」

「ロタも、知らない機構だと言っています」

エイルが報告した。

「カルナの設備記録にも、該当する搬送機構はありません」

図書館は、閉じた隔壁を次々と開きながら、中央ドックへ近づいていく。

その動きに迷いはなかった。

目的地を、最初から知っているようだった。

「カルナが……図書館を運んでおるのか」

ツクヨミの声が、わずかに震えた。

驚きだけではない。

自分の知らない仕組みが、この場所にまだ残されていたことへの戸惑い。

それでも目を逸らさず、映像を見守っている。

正十二面体が、中央ドックへ到着した。

そのとき、コクヨウの船首下部で、漆黒の装甲が開いた。

海中の栄養や鉱物を取り込むための、大きな口だった。

レヴィアタンの欠片を呑み込んだ、あの開口部。

ツクヨミが息を呑んだ。

「コクヨウまで……」

命じてはいない。

だがコクヨウは、差し出された図書館を受け取ろうとしていた。

搬送架台から、複数のドックアームが伸びる。

正十二面体をゆっくりと持ち上げ、コクヨウの口へ運んでいく。

ツクヨミは、ただ呆然とその光景を見つめていた。

「そのような受け渡しの仕組みが……最初から、あったというのか」

正十二面体が、コクヨウの口へ入っていく。

漆黒の装甲が、静かに閉じた。

ミナトの胸の奥で、千切れかけた糸の残滓が、かすかに震えた。

図書館が、コクヨウの内部で貯蔵系へと運ばれている。

やがて船体中央の深い保管区画へ収まり、動きを止めた。

「……貯蔵系へ入った、と思います」

ミナトが言った。

「潰された感触はありません。そのままの形で、保管されたはずです」

ツクヨミは、すぐには答えなかった。

コクヨウの身体の内側へ意識を向け、その事実を確かめている。

「……うむ」

やがて、小さく頷いた。

「間違いない。コクヨウは、図書館を受け入れた」

自分自身の身体のはずなのに、命じてもいない行動を取った。

それを恐れるというよりも、ツクヨミは驚いていた。

コクヨウとカルナが、自分の知らないところで、互いに同じ意図を理解していたことに。

「カルナは、これをわしへ持たせようとしたのか」

呟きに、答えるように。

中央ドックの照明が、一度だけ柔らかく明滅した。

ツクヨミの目が、さらに見開かれた。

「……お主」

声が、少しだけ掠れた。

「わしの言葉を、聞いておったのか」

返事はない。

だが、図書館を運んだ搬送架台は、役目を終えたようにゆっくりと床へ沈み、元の台座の形へ戻っていった。

その頃、カルナの各区画では、セラフたちの緊急帰艦が続いていた。

施設全体の照明が琥珀色から赤へ変わり、床に無数の光の線が走る。

すべての線が、中央ドックのコクヨウへ向かっていた。

『全員、作業を中止。工具はその場へ。最短経路でコクヨウへ帰艦を』

エイルの声が、施設全体へ響く。

離れた区画へ続く床が搬送路へ変わり、セラフたちを載せて中央ドックへ走る。

隔壁は、彼女たちが近づく直前に開き、最後の一人が通過すると背後ですぐに閉じた。

作業足場からはリフトが自動的に降り、取り残された者たちを次々と回収する。

「医療科、全員帰艦!」

「厨房科、人数確認完了!」

「観測班、帰艦しました!」

報告が重なっていく。

カルナは、施設のどこに誰がいるのか、すべてを把握しているようだった。

最後に残っているのは、最深部から戻るロタと佐紺だけだった。

「船外要員、残り二名」

エイルが報告する。

コクヨウへ続くタラップは、開いたまま動かなかった。

船体を固定するドックアームも、まだコクヨウを支え続けている。

カルナは二人の帰りを、待っていた。

最深部から続く通路の奥に、橙色の小さな影が現れた。

ロタだった。

両腕に応急搬送用のシートを抱え、その上には意識を失った佐紺が横たわっている。

「道、空けな!」

ロタが叫ぶ。

中央ドックにいたセラフたちが、一斉に左右へ退いた。

ダスラが、タラップの内側まで駆け寄る。

「こちらへ! 治療ポッドは準備できています!」

「今行く!」

ロタは足を止めなかった。

小さな身体で、大の男を抱えたままタラップを駆け上がる。

途中で足が一度、段差に引っかかった。

身体が大きく前へ傾く。

それでも、佐紺を載せたシートだけは落とさなかった。

「ロタ!」

ミナトと朱音が同時に手を伸ばした。

二人がシートの前側を掴み、船内へ引き込む。

ロタも最後の一段を蹴り、転がり込むように船内へ入った。

「船外要員、ゼロ」

エイルの声が流れる。

「全員の帰艦を確認」

その報告が終わるまで、カルナは動かなかった。

まるで、ロタと佐紺が船内へ入るのを、確かに見届けていたかのように。

次の瞬間。

カルナが、店仕舞いを始めた。

コクヨウを固定していたドックアームが、一本、また一本と、静かに離れていく。

眠っている子供を起こさないように、抱いていた腕をそっと抜く親のように。

「……何が」

朱音がドックを見回す。

「ツクヨミちゃんが、やってんの?」

「違う」

ツクヨミが立ち上がった。

図書館を運んだカルナ。

それを受け取ったコクヨウ。

そして今、全員の帰艦を待ってから、船を送り出そうとしている。

「わしでは、ない」

カルナの床と壁から、巨大な隔壁がせり上がった。

コクヨウの周囲だけを包み込むように、円筒形の出渠槽が形成されていく。

主要区画を乾燥状態に保ったまま、コクヨウだけを海へ送り出すための設備だった。

隔壁が閉じる。

続いて槽内へ海水が流れ込み、コクヨウの巨体がゆっくりと浮き上がる。

すべて、完璧な手順だった。

誰の命令もないまま。

「……カルナ」

ツクヨミが、初めてその名を呼ぶような声で呟いた。

「カルナが、自分で動いてるんだ」

ミナトは言った。

そして、主の船を、海へ送り出そうとしている。

これまで自動処理だと思っていた行動のすべてが、一つの意思へつながっていく。

一万三千年、コクヨウを抱いて眠り続けた施設。

誰も、その処理を心とは呼ばなかった。

だがカルナは、ずっと主を見ていた。

出渠槽の外門が開いた。

流れ込んだ海水が、コクヨウを深海へ押し出していく。

全周囲ホログラムの砂嵐が、わずかに薄れた。

船が、カルナから離れていく。

その背後で。

カルナが、鳴き始めた。

図書館から漏れていたものと、まったく同じ磁気信号。

佐紺が消したはずの目印を、カルナの通信設備が全力で再現している。

一定の間隔で放たれる、古い磁気の響き。

ここだ。

獲物は、ここにいる。

深海の闇へ、何度も呼びかけている。

救難信号ではない。

主を逃がすため、自らの終わりを告げる――弔鐘だった。

「やめ……」

ツクヨミが一歩、前へ出た。

「やめよ、カルナ!」

声が裏返る。

「わしは、そのようなことを頼んでおらぬ!」

応答はなかった。

「命令じゃ! 信号を止めよ! 出渠を中止せい!」

カルナは従わない。

代わりに、施設の照明が消え始めた。

最も奥の区画から、一つずつ。

治療区画。

研究区画。

皆で鯛と唐揚げを囲んだ食堂。

コクヨウを修復した足場。

灯りが、順番に、丁寧に落とされていく。

ミナトは、その消え方を知っていた。

夜明け前。

コクヨウが戦う姿へ変わったとき。

ラウンジを。

シャンデリアを。

優しい場所から順番に仕舞っていった。

あの――店仕舞い。

一万三千年、主のために灯し続けてきた家の明かりを。

最後の給仕として、自分の手で消して回っている。

「やめよ……!」

ツクヨミの声が震えた。

「わしは、まだ……まだ、礼も言うておらぬ!」

閉じていく暗闇へ向かって叫ぶ。

「三年前、ここを発つとき、行ってくるとすら言わなんだ! 勝手に終わるでない!」

最後の灯りが消えた。

「カルナ!」

命令だった声が、懇願へ変わる。

「戻してくれ……! わしを、戻してくれ……!」

コクヨウが、カルナの外へ押し出された。

外門が静かに閉じる。

全周囲ホログラムの中で、光を失ったカルナは、再び黒い岩山へ戻っていく。

一万三千年、その姿で主を守り続けてきたまま。

旋回していたレヴィアタンの絶叫が止まった。

次の瞬間、直進へ変わる。

偽りの目印へ向かって、まっすぐに。

細長い巨影が、深海の闇を裂き、カルナへ殺到する。

カルナの正面門が開いた。

今度は、主を送り出すためではない。

敵を迎え入れるために。

磁気の弔鐘が、ドームの奥から鳴り続けている。

レヴィアタンが、開いた門へ飛び込んだ。

巨大な頭部。

長い胴体。

身体の大半が、乾いた中央ドックへ入り込む。

その瞬間、門が閉じた。

分厚い扉が、巨影の後部を挟み込む。

レヴィアタンの声が、さらに高くなる。

カルナの内部で、耐圧隔壁が一斉に開放された。

一万メートルの水圧へ、一万三千年耐え続けてきた殻を。

カルナは、自ら破った。

海が、雪崩れ込んだ。

地球で最も深い場所にある、最も重い水が。

乾いた巨大空間へ、四方から一斉に殺到する。

爆縮。

光も、音も、ホログラム越しには、ほとんど捉えられなかった。

ただ質量感知だけが、結末を伝えていた。

カルナの岩山。

内部の施設。

捕らえられた細長いレヴィアタン。

それらすべてが一点へ向かって押し潰され、混ざり合っていく。

遅れて届いた衝撃波が、コクヨウを大きく揺らした。

そして――絶叫が止んだ。

深海に、本物の静寂が戻った。

誰も、口を開かなかった。

コクヨウは、ゆっくりと浮上を始めている。

カルナが最後に作ってくれた上向きの流れへ、その巨体を乗せて。

全周囲ホログラムの下方。

崩れ落ちていく岩山の残骸。

その闇の中から、光が昇ってきた。

金色とも銀色ともつかない、温かな光の粒。

一つ。

二つ。

十。

百。

押し潰されたレヴィアタンから解き放たれた光が、一万メートルの黒い水を、逆さに降る雪のように昇っていく。

上昇する光と、沈んでいく残骸が、暗闇の中ですれ違った。

誰かの心が、家へ帰っていく。

一万三千年、主を守った家が、海の底へ帰っていく。

朱音が、声もなく泣いていた。

ツクヨミは泣かなかった。

ホログラムの中で小さくなっていく黒い残骸を、まばたきもせずに見つめている。

糸は千切れたままだ。

ミナトには、ツクヨミの感情が何も届かない。

だが、何も届かないことそのものが、あるべき場所を丸ごと失った、巨大な空白のように感じられた。

やがて、光の粒がコクヨウの傍らを昇りきる。

最後の一粒を見送ってから。

ツクヨミは、沈黙する海淵へ向かい、深く、深く頭を下げた。

言葉はなかった。

歌を、聴いてやることはできなかった。

引導を渡すと決めた同類へ、自分の手でそれを渡すこともできなかった。

誰も、その小さな背中へ声をかけられなかった。

浮上を続けるコクヨウの医療区画。

唯一の治療ポッドの中で、佐紺は淡い光に包まれて眠っていた。

左腕と脇腹の熱傷。

折れた肋骨。

ダスラの診断では、二日。

命に別状はない。

ポッドの前に、椅子が一つ置かれている。

ニサバが座っていた。

膝の上には、筆記板。

二十分後の報告欄が、空白のまま残っている。

彼女は長い間、その空欄を見つめていた。

やがて、ペンを取る。

空白へ、一行ずつ書き込んでいった。

――定時報告の遅延を確認。

――原因は、当職を含む作業担当者双方の、通信回路の用途に対する問いの不足。

――検証は、対象者の回復後、両名で実施する。

両名で。

最後の三文字を確認してから、ニサバはペンを置いた。

眼鏡を外し、目元を一度だけ強く押さえる。

それから、もう一度眼鏡をかけた。

背筋を伸ばし、椅子へ座り直す。

ポッドの淡い光の中で、ニサバは朝まで、その場所を離れなかった。

黒い船が、夜明けの海面へ静かに顔を出す。

帰る場所を、海の底へ置いてきた船。

それでも、乗せている全員を生きたまま連れ帰った船。

朝焼けの中を、行く先も定まらないまま、ゆっくりと進み始めた。