終章 ただいまの、その先へ
四十五
帰り道
帰りの船は、狭かった。
コクヨウの四百メートルに慣れた身体には、通路ですれ違うたび、肩が触れる距離だった。個室はなく、雑魚寝の大部屋がいくつも並び、あとは調理場が一つと、操舵室があるだけ。
その少ない床の一角を、保管区画から移された正十二面体が、乗員一人分の顔をして、堂々と占領していた。不満を言う者は、一人もいなかった。あの箱の中身が誰の記憶か、全員が知っていた。
空間が狭いと――皆の声が、よく届いた。
どこかで誰かが笑えば、船の反対側まで、聞こえた。五日間の帰り道は、四百メートルの船では決して生まれなかった種類の、近さの中にあった。
二日目の夜。
眠れない朱音が、毛布を抱えて通路へ出ると、窓辺に、銀色の髪があった。
ツクヨミは、遠ざかる月ではなく――近づいてくる地球を見ていた。青い円が、日ごとに、大きくなっていく。その青を、まばたきも惜しむように。
「……眠られへんの?」
「わしは、元々、眠らぬ」
「せやった」
朱音は、隣に、座り込んだ。しばらく、二人で、青い円を見た。
「なあ、ツクヨミちゃん。……あんたさ、地球に降りるの、初めてちゃうけど――用事なしにおるのは、初めてなんちゃう?」
ツクヨミが、こちらを見た。
「地に立つときは、いっつも、何かしに行くときやったやろ。うちらを拾いに来たり、港を守りに来たり。……今度は、ちゃうで。何もせんでええの。降りたら、何したい?」
ツクヨミは、長いあいだ、黙っていた。
本当に、長いあいだ。
「……分からぬ」
やがて、返ってきた声には、微かな、当惑があった。
「何をしたいか、と問われたのは……一万三千年で、初めてじゃ」
朱音は、その返事に、一瞬、泣きそうになって――笑った。
「ほな、決まりや。リスト作ろ。うちが百個くらい、候補書いたる。そっから選び」
毛布の中から、端末が出てきた。夜通しの、リスト作りが始まった。
一、ゲーセン(「クレーンゲームって、何じゃ」「取れそうで取れへん機械や」「……取れぬのに、やるのか?」「そこがええねん」)。
二、たこ焼き(「熱いで。口の中、火傷するで」「わしは熱には強い」「たこ焼きの熱さは別枠や」)。
三、花火。
四、縁側でぼーっとする。
五、本屋で立ち読み。
六、雨の日に、傘で出歩く(「濡れぬために傘を差すのに、わざわざ出るのか」「そこがええねん」)。
……二十七、海水浴。
「待て、朱音。……お主、わしは、つい先日まで海そのものじゃったのじゃが」
「泳ぐんと、浮かんどるんは、違うねん!! 浮き輪や浮き輪! スイカ割りもや!」
「すいか、わり……果実を、割る……? なぜじゃ」
「そこがええねん!!」
リストは、明け方までに八十三個になった。
三日目。
調理場の隅の卓で、佐紺とニサバが、最後の検証会を開いていた。
議題――「本作戦の、総括」。
様式の各項目に、赤が入っていく。三時間かけて、二人は、月への航海の全工程を、几帳面に、洗い直した。そして、最終行。
特記事項:全員で帰投すること。これを、本作戦の成功条件に含む。
その達成欄の前で、ニサバの、ペンが――止まった。
全員では、なかった。
一人、月の丘に、残してきた。
卓の上で、ペンが動かないまま、長い時間が、過ぎた。佐紺も急かさなかった。彼の指が、工具箱の蓋の上に、静かに置かれていた。
やがて、ニサバは、ペンを握り直した。
達成欄に、彼女は書いた。
――達成。乗員名簿三百六十四名、全員帰投。
そして、その下に、一行。
――うち一名、月に、勤務地変更。
書き終えて、彼女は、ペンを置いた。
佐紺が、その一行を、読んだ。読んで、静かに言った。
「……様式が、初めて、優しいですね」
「…………規定外です」
ニサバは、眼鏡を直した。
「今回だけ」
その声が、少しだけ、濡れていた。
四日目。
調理場に、二人が、並んで立っていた。ミナトとエティンが、五日分の糧食の、最後のやりくりをしていた。
「……着いたら」
手を動かしながら、エティンが言った。
「市場に、行きたいのです。自分の目で、材料を選んで……作りたいものがあります。船の備蓄ではなく、その日の朝に採れたものを、その日の気分で選んで。……ずっと、憧れておりました」
「……俺も行きます。荷物持ちで」
「いいえ」
エティンは、手を止めて、彼を見た。三角巾の下で、微笑んだ。
「――隣を歩く係で、お願いします」
◇
五日目。大気圏。
小さな船体を、炎が包んだ。その炎と船体の間に、二重の壁があった。
外側に、イナンナの冷気。内側に、カーネリアの熱制御。灼熱と、急冷の、精密な拮抗。姉妹の技術の全てが、船を、揺りかごのように、包んでいた。
「……ねえ、イナンナ。気づいてる?」
「はい、姉様」
「あたしたちの、最後の戦闘任務……誰も、傷つけない仕事だね」
「……観測記録。当該任務を――良い任務、に分類します」
炎が、晴れた。
青い空。白い雲。そして、眼下に――太平洋。
着水の飛沫が、上がった。ハッチが開いた瞬間、船内に、どっと流れ込んできたもの。潮の匂い。湿った、生き物の匂いのする風。頭上から降る、濾過されていない、本物の陽射し。
ツクヨミは、タラップの上で立ち止まった。
目を閉じて、風を、受けた。長く、長く。
それから、目を開けて、水平線を、ゆっくりと、見渡した。
「…………広いのじゃな、外は」
小さな声だった。
「……急がずに見ると」
誰も、笑わなかった。全員が、彼女の隣で、同じ風を受けていた。
逢魔の船団が、迎えに来ていた。
迎えの桟橋の端に、一台の車が停まっていた。財団の車ではない、あの旧式の車だった。
運転席から降りた老人は、帽子を取り、下船してくる列を、順に目で数えていった。
列が、途切れた。
老人の視線がもう一度、昇降口へ戻った。誰も出てこない扉をしばらく見ていた。問いは口にされなかった。一万三千年、裏切りの日のために沈黙を磨いてきた血脈は、報せを待つのではなく、沈黙から読み取る側の人間だった。
朱音が前へ出た。何から話せばいいか分からないまま、それでも、伝えるべきことを一つだけ選んだ。
「……名簿に、載らはったんです。乗船日に遡って。一番前の――零番で」
老人は、瞬きを一つした。
「……名簿に載らぬことが、我らの流儀でございました」
しわの奥の目が、細くなった。泣いているのか、笑っているのか、どちらとも取れる細め方だった。
「……とうとう、載ってしまわれましたか。あの方らしい、規則の破り方だ」
それから老人は、帽子を胸に当て、月のある方角へ――昼の空の、見えない丘へ、深く、頭を下げた。
「……本日はこれより奥様の元へ、ご報告に上がります。お迎えには間に合いませんでしたが――道は、最後までご自分で開けておられました、と」
老人は帽子をかぶり直し、運転席の扉に手をかけた。乗り込む前に、一度だけ振り返った。
「……車はいつでも。皆様の道は、我らが承ります」
一礼して、旧式の車は静かに桟橋を離れていった。
◇
そこからの数日は、慌ただしく過ぎた。財団の残務。鵜飼派の粛清の後始末。
異変そのものは隠しようがなかったし、隠してもいなかった。狂った潮汐も、明るすぎた満月も、七千四百人の目覚めも、世界中が見ていた。知らせなかったのは、ただ一つ――「何が」それを起こし、「何が」それを終わらせたのか。
海の底の船のことだけを伏せたままの、静かな戦後処理だった。
鵜飼との面会は、ミナトが自分から望んだ。
逢魔の地下の一室。裁きを待つ男は、鉄格子の向こうで老いて見えた。数か月前、財団の理事会で完璧な絵を描いた男の面影は薄かった。
ミナトは椅子に座った。しばらく、二人とも黙っていた。
「……君の三年を、壊したのは、私だ」
先に口を開いたのは、鵜飼だった。
「恨み言を、言いに来たのか。それとも、赦しでもくれるのかね」
「どっちでもないです」
ミナトの声は、凪いでいた。
「ただ……一度だけ、顔を見ておこうと思って。俺の三年間の、設計者の顔を」
鵜飼は、乾いた声で笑った。それから、笑いを途中でやめた。
「……月は、来なかった」
ぽつりと、言った。
「五十年待った。一族は一万三千年待った。方舟は還ってきたが、世界は救われなかった。だから私は確実に来る神に、乗り換えた。……その神も……来なかった。君たちが、止めたのだろう」
鉄格子の向こうの目が、ミナトを見た。縋るような目だった。
「……教えてくれ。私は、何を信じればよかったのだ」
ミナトは、答えを持っていた。
この数か月で、彼が拾い集めてきたものの全部が、その答えだった。焦げたパンケーキも、様式の余白の一行も、頬を挟む両手も、月の丘の墓標も。
だが――渡さなかった。
代わりに、預かってきたものだけを、渡した。
「……西園寺さんから、あなたへの伝言を預かっています」
「『あなたの選択に事情があったことは理解します。立場も、制約もあったのでしょう』」
鵜飼は黙って聞いていた。
「『あの夜、工具箱を持たせていただいたことには、今も感謝しています。あれがなければ、私は何度か自分を保てなかった』」
ミナトは、そこで一度言葉を切った。
「『ですから、余計に残念です』」
鵜飼の指先が、机の上で止まった。
「『以上です』と」
ミナトは、静かに立ち上がった。
「……答えを、他人に聞いてるうちは」
扉へ向かいながら、振り向かずに言った。
「――何を信じても、同じことになったと思いますよ」
それきりだった。
彼の人生の卓に、もう、この男の席はなかった。
◇
――重い決着の翌日には、軽い決着が待っていた。
京都、西園寺家。
築三百年の門構えの前で、佐紺は、深呼吸を一つした。隣には、濃紺のスーツを一分の隙もなく着込んだ、ニサバが立っていた。
「……いいですか、ニサバさん。うちの実家は、言葉が全部、二重です。額面通り受け取らないでください」
「承知しています。事前に、貴家の交際範例を、様式に起こして参りました」
「様式に!?」
通された客間で、佐紺の母が、三つ指をついた。
「……ようこそ、おいでくださいました。むさ苦しい所ですけれど」
「本日は、ご子息との共同起案の件で、正式にご挨拶に伺いました」
ニサバは、寸分の狂いのない角度で、礼を返した。
「むさ苦しいどころか、格式の保存状態が、極めて良好なお住まいと拝察します。廊下の艶から、日々の手入れの規定が行き届いていることが観測されました」
母の眉が、ぴくりと動いた。
「……あらまあ。お行儀のよろしいこと」
「恐縮です。お茶の温度も、この時季の最適値と一致します」
「…………」
「…………」
二重の言葉の応酬が、完璧に噛み合っていた。皮肉が皮肉として機能せず、賛辞が賛辞として受領され、腹の探り合いが、双方、事実確認として処理されていく。
三十分後、母は、廊下で息子を捕まえて、囁いた。
「……佐紺。あんた」
「……はい」
「――ええ人、見つけたなあ」
二重ではない、額面通りの一言だった。息子が実家で聞いた、生まれて初めての。
◇
同じ日の午後。
逢魔の療養施設、その二階。
朱音は、病室の扉の前で、もう五分近く立ち尽くしていた。
白に近いベージュのブレザーに、胸元の赤いリボン。コクヨウへ乗せられた日と同じ、洗い上げられた制服だ。袖を通したとき、以前より少しだけ窮屈に感じた。身体が大きくなったわけではない。制服の中へ戻った自分の方が、あの日より多くのものを抱えているのだ。
扉の脇には、白いコートを羽織ったダスラが立っている。今日は戦友としてではなく、医療を預かる者としての付き添いだった。
「――お約束、でしたもの」
ダスラは、理由をそれだけ言った。貴女を育てた方に、いつか会わせていただく、と。
「……ほんまに、この中におるんやな」
朱音の右手は、さっきから胸元のリボンを握っている。声は、口を開く前から震えていた。
ダスラは何も指摘せず、ただ背中へ片手を添えた。
「入らなくても構いませんわ。今日は扉の前まで来られた。それだけでも、昨日より前へ進んでおります」
優しい逃げ道だった。
だからこそ、朱音は腹が立った。
「入るし。誰が怖がっとる言うた」
「わたくしは、一言も」
朱音は鼻をすすり、扉を二度ノックした。
「……お父さん。入るで」
窓から午後の陽が差し込む、明るい病室だった。
ベッドの脇の車椅子に、一人の男が座っていた。光の像で何度も見た姿より少し痩せ、髪に白いものが増えている。
けれど、朱音が入った瞬間、その目が動いた。入口へ向き、朱音を見つけ、大きく見開かれる。
「……朱音」
たった二文字だった。なのにその声の中には、驚きも、安堵も、会いたかったという思いも、全部あった。三年間、どれだけ呼びかけても返ってこなかったものが、全部。
「……お父さん」
駆け寄って、抱きついて、泣きながらただいまと言うつもりだった。船の中で何度も考えたのに、足が床へ縫いつけられている。
「……制服」
「うん」
「学校は」
「まだ休んどる。いろいろ、説明とか手続きとかあるから」
「そうか」
「でも、戻るで。ちゃんと卒業する」
「……そうか」
同じ言葉なのに、一度目と二度目で声が違った。
二度目には、はっきりと喜びがあった。
父の目が、朱音の頭から足元までをゆっくり確かめ、胸元の赤いリボンで止まった。
「少し、曲がってるぞ」
「え? うそ。さっき鏡で見たのに」
何度も握っていたせいで、結び目が右へ寄っていた。
朱音は父の前へ歩み寄り、膝をつき、胸元を差し出した。
「直して。……ええから、ほら」
三年間ほとんど使われなかった指が、震えながら赤いリボンへ触れる。結び目を解き、ゆっくり整え、結び直す。手際は以前よりずっと遅かった。それでも、結び方は変わっていなかった。
小学校の入学式の日、しゃがみ込んで直してくれた、何度も見た手つきだった。
「……よし。これでいい」
朱音の顔が、くしゃりと歪んだ。
「三年も待たせといて……最初にやることが、リボン直すことかいな。もっとなんかあるやろ! おかえりとか! 大きなったなとか!」
「背は、あまり変わってないな」
「そういうとこやぞ!」
怒鳴った声が、途中から泣き声になった。朱音は父の膝へ顔を伏せる。
父の手が、頭へ置かれた。おそるおそる、ゆっくり、何度も髪を撫でる。子供の頃、泣いて帰ってきた朱音へしてくれたのと、同じ手つきで。
「すまなかった。……お前が来てくれたことも、話しかけてくれたことも、覚えている。覚えているのに、あの三年間、私は一度も、お前を見ていなかった」
「ちゃうって」
朱音は顔を上げた。涙と鼻水で、ひどい顔だった。
「お父さんのせいちゃう。奪われとったんや。お父さんは、ちゃんとおった。返事せえへんかったけど、うちが会いに行ったら、ちゃんとそこにおった。……うち、知っとったで。絶対、どっかにおるって」
確証などなかった。それでも信じて、怖くて泣いて、それでももう一度、席へ座った。
「見つけたんや」
朱音は言った。
「お父さんのなくしたもん、ちゃんと見つけて、取り返したんや」
父はしばらく黙って、三年分の変化を一度に確かめるように朱音の顔を見ていた。
「……映像を、見た。お前から届いたものだ」
朱音は固まった。帰還前、泣き腫らした目で精一杯笑った、あの短い録画。
『お父さん。おかえり。……うちな、めっちゃ強なったで』
「み、見たん? 忘れて。今すぐ記憶返して! そこだけ返して!」
「良い顔だった」
「最悪や!」
父が、声を立てて笑った。
三年ぶりの笑い声だった。少し掠れて、以前より弱い。それでも間違えようのない、父の笑い方だった。
「……笑ろた……お父さんが……」
「朱音」
父の手が、再び頭へ置かれる。
「強くなったな」
今度こそ、朱音は声を抑えられなかった。細くなった父の背中へ腕を回す。壊さないように。でも、もう二度と離れないように。
「ただいま……!」
「おかえり、朱音」
最初の日、光でできた父へ伸ばした手は、何も掴めなかった。今は制服の布越しに体温があり、胸へ耳を当てれば確かな鼓動が聞こえる。三年間止まっていたわけではない、ずっと続いていた鼓動。ようやく、そこへ心が帰ってきたのだ。
やがて父が、朱音の背を軽く叩いた。
「ところで。……海外研修だったそうだな。どこの国へ行ったんだ」
「ええと。……海の方?」
「海は国じゃない」
朱音は父の肩越しに扉を見た。細く開いた隙間の向こうで、ダスラが視線を逸らした。助ける気はないらしい。
「長い話になるで」
「時間はある。三年分、聞かせてくれ」
朱音は椅子を引き寄せ、父の正面へ座った。
「ほな、最初から話すわ。学校の帰りに誘拐されてな」
「待て」
「ほんで、黒い四百メートルの船に乗せられて」
「最初から情報量が多すぎる」
父は額へ手を当て、朱音は久しぶりに心の底から笑った。
話すことは山ほどあった。けれど、全部を一日で話し終える必要はない。明日もある。その次の日もある。父が戻ってきた世界には、これから話せる時間があるのだから。
窓から差し込む午後の陽が、朱音の胸元を照らしていた。
帰る日のために残しておいた、赤いリボン。
その結び目は、父の手で、真っ直ぐに整えられていた。
面会を終えて廊下へ出ると、ダスラの隣に、赤い髪が立っていた。
壁にもたれ、腕を組んで、そっぽを向いている。扉は、細く開いたままだった。……全部、聞こえていたはずだった。
「……なんや。カーネリアちゃん、来てたんか」
「べ、別に。通りかかっただけだし」
そっぽを向いたままの目元が、赤かった。
「……泣いてた?」
「泣いてないし!! 冷却液が……目から、漏れてるだけだし!!」
「冷却液て」
泣き腫らした顔のまま、朱音は噴き出した。ダスラが、艶やかに笑ってハンカチを差し出す。
「わたくしの分も、ございましてよ」
「いらないし!!」
言いながら、受け取った。
そのとき、細く開いた扉の向こうから――父の、笑う声がした。
「……朱音。――ええ仲間が、できたんやなあ」
朱音は、廊下の二人を見た。ハンカチを握りしめた赤い髪と、涼しい顔で二枚目を構えている白いコートを。
それから、胸を張って、部屋の中へ答えた。
「うん。――世界一や」
夕暮れの、逢魔の施設の庭。
縁側に、銀色の髪が、座っていた。
リストの、四番。『縁側でぼーっとする』
――ツクヨミは、それを、律儀に、実行していた。膝を揃えて、夕焼けの空を、ただ、見ていた。何もしない、という初めての任務を、生真面目に、遂行していた。
そこへ、朱音が来た。
隣に座り、しばらく二人で、黙って茜色の空を見た。
「……どうじゃ、朱音。父御は」
「うん。……元気や。囲碁、また打とうと言ってくれた。三年分、教えることようけあるわ、って」
「そうか。……良いの」
「うん。……ほんまに、良い」
風が、庭の木を揺らした。
朱音は、隣の小さな横顔を見た。
夕陽に透ける銀色の髪。首輪の消えた、細い首。鎖もなく、任務もなく、月の声もなく――ただの女の子として、縁側で夕焼けを見ている、一万三千歳の少女を。
この航海のあいだ、我慢した。撫でたら、何かの一線を越える気がして。戦いの真ん中で、撫でていいような相手ではなかったから。
――今は?
朱音の手が、震えながら、持ち上がった。
そっと。
本当に、そっと――銀色の頭に、置かれた。
ツクヨミが、目を丸くして、見上げた。
朱音は、前を向いたまま、撫でた。
ゆっくり。ゆっくり。父が自分にしてくれた、あの手つきで。
「…………やっと、撫でられた……」
声が、濡れていた。
「やっと……ただの女の子として、撫でられたんや……」
ツクヨミは、少し、困った顔をした。
逃げなかった。
それどころか――目を、閉じた。
ほんの少しだけ、頭を、朱音の手のひらに預けた。
「…………悪くない、の。これは」
夕焼けの縁側で、少女が、少女を撫でていた。
――夜。
海辺の道を、二人が歩いていた。
市場の帰りだった。ミナトの両手には、袋。
魚と、野菜と、果物と、エティンが「自分の目で」選び抜いた、今日の分の材料。
隣を歩くエティンの手には、小さな花束が一つ(「食卓には、花も要るのだと、ウェスタが」)。
波の音がしていた。
ミナトは、袋を提げたまま、足を止めた。
「……あの」
エティンも、止まった。海風が、三つ編みを揺らした。
「予約してた……名前の話、なんですけど」
「……はい」
月明かりの下で、彼女は、まっすぐに彼を見た。待っていた顔だった。五日間――いや、もっとずっと前から。
ミナトは、息を吸った。
三年間、名前のつくものから逃げてきた男の、人生でいちばんの大仕事だった。
「……俺は、三年間、誰の帰りも待たなかったし、誰にも、待たれませんでした。それが普通で、それでいいと、思ってました。……あなたが、あの夜、『おかえりなさいませ』って言った日から――全部、変わった」
波が、寄せて、返した。
「命綱でも、なく。味見係でも、なく。……もっと、ずっと、長い名前で――あなたと、いたい」
袋を、地面に、置いた。空いた両手で、彼は、精一杯、言った。
「――一緒に、生きてほしい。俺の、家族として」
エティンは、目を見開いた。
金色の瞳が、月明かりの中で、揺れて――潤んで、それから、泣き笑いになった。
彼女は、花束を胸に抱いたまま、深く、深く――一礼した。
一万三千年の眠りを越えてなお、給仕の礼だけを身体に残していた者の、初めての承諾の礼だった。
「……はい」
顔を上げた彼女は、涙のまま笑っていた。
「喜んで、承ります……」
そして、一万三千年と、この航海ぶんの想いを、最後の一語に込めた。
「――ミナトさん」
「様」が――取れた。
波の音。潮の匂い。夜空には、月。優しい明るさの、いつもの月。
その傍らに――肉眼では見えない、漆黒の船が、寄り添っていることを、二人は知っていた。
空の家族に見守られながら、二人は、袋と花束を提げ直して、帰り道を並んで歩き出した。
互いの隣を歩く者として。