文字
行間
背景

第四章 月へ至る航路

四十四

月を抱く

それは、夜明けに似ていた。

プロボシスの吸引が――根から、止まった。

全球に降りていた何百の末端が、地表を探る動きを止め、ゆっくりと、引き上げられていく。

ただし――引き上げの前に、逆流があった。

口をつけたばかりの末端から、細い光が、来た道を静かに下っていく。ノルウェーの漁村へ。カナダの二つの街へ。チリの高地へ。南関東の、とある寝室へ。

奪うために架けられた道が、最初で最後に、返すために使われた。

その朝、世界のあちこちで、十幾人かが、理由も知らずに、泣きながら目を覚ました。

格子は、消えた。移動する予測線も、消えた。およそ二十九時間を残して、四十時間の時計は、動かなくなった。

誰の勝利宣言もなく、世界で一番静かな形で、終末は、中止された。

――南関東、療養七号施設。夜の庭で、車椅子の男が、空を見上げていた。

付き添いの看護師が「早川さん、冷えますよ」と声をかける。

男は、月を指して、笑った。

「……いや、なんやろな。今夜の月、えらい優しい顔しとらへんか」

看護師も、見上げた。

「……ほんとですね。なんでだろう」

二人とも、理由は、知らなかった。

――北欧のフィヨルドの岸で、毛布にくるまって「嫌だ」と祈り続けていた老婆が、ふっと、涙を拭いた。

「……終わったのかい?」

誰にともなく訊いた。誰も、答えられなかった。

ただ、何日も続いた胸のざわつきが、消えていた。

――東京の雑踏で、足を止めて空を見上げていた人々が、一人、また一人と、歩き出した。月が、記録的な明るさのまま――刺すところのない明るさに、変わっていることに、気づいた者は、いたかもしれない。

理由を知る者は、地上に一人もいなかった。

誰も、何が起きたかを、知らない。

知らないまま、救われる。

月の内部でも、静けさは、広がっていた。

防疫系は、沈黙した。裂け目の縁では、何千の在庫たちが――起動したばかりの同型体たちが、一体、また一体と、その場に膝をつき、静かな休眠へと還っていった。攻撃の停止ではなかった。もっと深い、任務そのものの、消滅だった。

泡に触れたセラフの腕にも、感覚が戻り始めていた。

そして、核の間から広がった温かい奔流は、四十五億年分の瘢痕の壁を、内側から撫でていた。

埋めた端から裂かれ続けた傷が――裂かれずに、埋まり始めていた。

一朝一夕では、ない。四十五億年の傷は、これから長い長い時間をかけて、癒えていくのだろう。だが、埋まった瘢痕に、新しい亀裂は、もう、走らなかった。

裂く手が、止まったのだった。

管制中枢へ、全員が駆けつけた。

球形の広間は、静かだった。壁面の演算の光は、穏やかな律動で回り続けていた。

帰りの道を、開けたまま。

最後の停止操作で求められた八代の生体接続は、補正系を動かし続けるための燃料ではなかった。

掌握者の生命を担保として、管制権の移譲を不可逆に確定するための認証だった。

生きた鍵は、いつでも回し直せる。持ち主が生きている限り、移譲は取り消せてしまう。だから系は、取り消しようのない鍵を要求した。掌握者の生体紋――鼓動と、体温と、神経の律動。生きて動く紋様の全量を読み尽くし、道の錠へ鋳込むことを。

写しが完成した瞬間、原本を走らせていた身体は、役目を終えて、静かに止まる。

八代の命は、奪われたのではない。帰り道の鍵に、姿を変えたのだった。

八代がプロボシスの停止操作を承認した瞬間、月へ登ってきたコクヨウと、その内部にいた全乗員の生体紋が、「地球へ帰すべき対象」として登録されたのだ。

コクヨウがつくるであろう帰還船は、その登録情報を船体ごと継承することとなる。

掌握者が途中で命を失っても、登録された者たちが地球へ降りきるまで、帰還用の勾配は取り消されない。

彼の命が、五日間の道を動かし続けているのではない。

命を差し出したあの瞬間に、道を閉じる権限そのものを、月の防疫系から奪い取ったのだ。

だから八代が逝ったあとも、帰り道はそこにあった。

その中央の、掌握の座に。

八代恭一郎は、椅子に深く身を預け、目を閉じて、眠るように逝っていた。

顔に、苦悶の色はなかった。緩んだネクタイが、最後にもう一度、きちんと締め直されていた。誰に見せるためでもなく――彼の、素の癖のままに。

そして、その傍らに。

妻の像が、立っていた。

消えていなかった。月の全システムが再編される中で、あの像だけが、命令の外のまま、そこに居続けていた。灯りを消さない人の姿のままで。

月は――消さなかったのだった。

ツクヨミが、静かに歩み寄った。

座の前に、膝をついた。眠る男の顔を、長いあいだ見ていた。

「……八代」

声は静かだった。

「お主が船に上がった日、わしは『おかえり』と言うた。……あれでは、足りなんだの。一万三千年、待たせたのじゃもの。もっと早くに――お主の一族が岸辺で手を振った、あの日から数えて、言うべきじゃった」

彼女は、深く、頭を垂れた。

「……おかえり。よう、帰った。……そして」

声が、初めて、震えた。

「……行って、らっしゃい」

葬送は、月面で行われた。

裂け目を見下ろす、静かな丘の上。黒い空の際、地平線すれすれに、青い地球の浮かぶ場所に、彼は眠ることになった。そこからは、地球は決して沈まず、決して高くは昇らない。地平の上で、ただ、静かに揺れている。

地球の土に還すべきだ、という声もあった。だが、ミナトが静かに言ったのだった。

「……この人は、帰りの道を開け続けた人です。道の一番よく見える場所が、いいと思います」

埋葬の前に、ニサバが一枚の様式を掲げた。

規定のどこにもない、彼女が徹夜で起案した、新しい一枚だった。

「――乗員名簿、改訂の件」

事務の声で、彼女は読み上げた。

「八代恭一郎。逢魔所属、対外交渉役。……本名簿への登録を、乗船日に遡って、認めるものとします。登録番号、第一号の前――第零号」

眼鏡が、直された。

「……根拠規定は、ありません。ですが、異議のある方は」

誰も、手を挙げなかった。

朱音が、埋葬の丘の前で動けずにいた。

「……娘みたいや、言うてくれたんに」

声が、濡れていた。

「うち……親孝行、一個も、できてへん。ネクタイの締め方も教わってへんし、なんも……なんも、してへん……」

ダスラが、その肩を抱いた。

反対側に、ぎこちなく、赤い髪が立った。カーネリアは、慰めの語彙をまだ持っていなかった。持っていないなりに、彼女は、朱音の袖を、ぎゅっと、掴んだ。掴んだまま、離さなかった。それが、彼女の精一杯だった。

佐紺が、工具箱から何かを取り出して、墓標の前に供えた。

小さな、ネクタイピンだった。

「……船の廃材で、作りました。夜なべ仕事です。渡す機会を、窺っていたんですが」

彼は留め金を、かちりと、鳴らした。

「……時間厳守、できませんでした。すみません」

弔いの丘に、光が、降りてきた。

中間関門から、ずっと観測を続けていた、あの存在だった。

宣告者は、埋葬の輪から少し離れた場所に立ち、しばらく墓標を見ていた。

それから、空へ――月の芯の方角へ、向き直り報告した。

「観測、完了しました。……対価なく続くものの、実在を、確認。八代恭一郎の全記録と併せて、報告します」

報告を終えて、彼は、問うた。

四十五億年、命令だけを受けてきた者の、初めての、自分からの問いを。

「……私の任務は、終了しましたか」

月の声が、降りた。

核の間で聞いたものと、同じ声。だが、その温度が、変わっていた。零度でも、偽りのぬくもりでもない――まだぎこちない、しかし本物の温度だった。

《いいえ》

月は、初めて誰かへ与える言葉を探していた。

《……新しい任務が、あります》

《地上へ、行きなさい。そして、観測を続けなさい。……あれらが、これから、どう生きるのかを。切れる繋がりと、切れない繋がりを。灯りのついた窓の、内側を》

一拍、置いて。

《そして……時々、わたくしに、話して聞かせて》

任務の形をした、初めての――文通の約束だった。

「……受領しました」

宣告者は、一礼した。

去り際、彼は、ミナトの前で、一度だけ、足を止めた。能面が、まっすぐに彼を見た。

「……質問」

「はい」

「――また、会えますか」

ミナトは、少しだけ、目を見開いて――それから、笑った。

「……それは質問じゃなくて――挨拶、って言うんですよ」

宣告者は、数秒、演算した。

「……記録します。挨拶。……分類、完了」

光の像は、初めて、陳述ではない一語を、置いて、消えた。

「――また」

出発の準備が、進む中で――最後の議題が残っていた。

コクヨウが月に残ること。それは、もう決まっていた。あの核の間で、誰の議決も経ずに――船自身の意思として、宣言されていた。宇宙が終わるまで、と。

誰も、異を唱えなかった。

残っていたのは、別の問いだった。

誰もが、薄々気づいていて、誰も口にできずにいた問いが。

本体が、月に残る。なら――ツクヨミの、この人型の器は?

船から削り出された、この小さな身体は。銀色の髪の、この少女は。本体と三十八万キロ離れて――存在し続けられるのか。

ツクヨミが、皆の前に立った。

「……皆も、考えておることじゃろう。じゃから、わしの口から言う」

声が、震えていた。

「わしは、この器のまま、地球に降りたい。……降りたいのじゃ。じゃが――」

言葉が、そこで、止まった。

降りて、この身体が、保つのか。船の意思から切り出された器が、船と離れて、ツクヨミという者のままで、いられるのか。……誰も、答えを持っていなかった。

その問いに、答えられる者が。

この船には――二人、いた。

カーネリアが、進み出た。

イナンナが、隣に、並んだ。

本体を失った姉と、本体を離れた妹が。

「……あんたさ」

カーネリアが、ツクヨミの、細い首元を――首輪の、消えた首を指した。

「もう、外れてるじゃん」

「……カーネリア」

「あたし、艦の身体、海の底で潰されたんだよ? 丸ごと。跡形もなく。……で、どう見える? あたし、消えた? 薄くなった?――なってないでしょ」

彼女は、自分の胸を、親指で突いた。

「魂ってのはさ、しぶといの。器がどれだけデカかろうが、その全部が魂なわけじゃない。……あたしたちに、できたんだよ。船から降りても――あんたは、あんたのままだ」

イナンナが、静かに続けた。

「観測結果を、報告します。……対象、カーネリアおよび、わたし。本体喪失、または本体からの分離後の経過観測を継続中。結論――」

水色の目が、まっすぐにツクヨミを見た。

「わたしたちは、本体を離れた日から――不幸に、なっていません」

「むしろ、逆です」

ツクヨミはその夜、最後の対話に潜った。

それまで、コクヨウとツクヨミの中に、二人の意思があったわけではない。

船の深層はツクヨミの無意識であり、ツクヨミはコクヨウが人と語るための表層だった。勝手に欠片を呑み込んだことも、カルナを受け入れたことも、別人の判断ではない。言葉になるより深い場所で動いた、彼女自身の判断だった。

だが第三の封が解かれ、月との回線が完全に開いたことで、一つの意識を二つの自律中枢へ分ける余地が生まれていた。複製ではない。一本の糸でつながった一人の自己が、二つの持ち場を担うために境界を作るのだ。

カーネリアの人格移送で得た技術と、イナンナの遠隔端末構造を組み合わせ、コクヨウは人型の器へ独立した動力核を編んだ。ツクヨミとして活動する意識の中心は人型へ移り、船体側には言葉以前の深層意識が残る。二つは糸によって、同じ自己であり続ける。

傍らで糸を繋ぐミナトにだけ、その対話の体感が流れてきた。言葉には、翻訳しなかった。翻訳してはいけない気がした。ただ流れてきたものは――別離の悲しみではなかった。

それは、分担の相談だった。

わしは、空で、母様を看る。

お主は、地で、皆と生きよ。

空の傷と、地の暮らし。二つの持ち場を、二つに分かれて、受け持つだけのこと。

そして――回線は、切らぬ。

月と地球の、三十八万キロ。それだけ離れても、糸は、届く。一万三千年、海の底から人の世を想い続けた糸が、その程度の距離で、切れるものか。

浮上した彼女は、皆の前で宣言した。

「……決めた。コクヨウは、月に。わしは、地球に」

銀色の目に、迷いはもう、なかった。

「――二つで、ひとつのままじゃ。わしは、空から見守られながら……地上で、生きる」

セラフたちが、静かに泣いていた。

泣きながら、全員が、頷いていた。主の行くところが、巫女の行くところだった。一万三千年前から、ずっと、そうだった。

――出発の、朝が来た。

月面の、裂け目の縁に、コクヨウ本体が、静かに鎮座していた。

豪華客船の姿の、ままだった。戦闘形態でも、潜水形態でもなく――シャンデリアと、大階段と、ゲームコーナーと、大浴場と、思い出の全部を積んだ、あの姿のままで。

月に置かれた、黒い方舟として。

帰還用の船は、その傍らにあった。

コクヨウが、自らの身体から、最後に削り出した、小さな船。全員を乗せて、地球へ降りるためだけの、器。八代の遺した補正系が、降りの流れを、静かに架けていた。

タラップの前で、ツクヨミは振り返った。

本体を、見上げた。

自分自身を。一万三千年、共に在った、自分の巨きな半身を。

長い、長い沈黙のあと――彼女は、小さく手を振った。

「……行ってくる」

船体の赤いラインが、応えた。

一度だけ。深く、深く――明滅した。

小さな船が、月を離れた。

窓の外で、月面が遠ざかっていく。灰色の海。傷の峡谷。そしてその縁に寄り添う、漆黒の、優美な船影。

傷ついた月のすぐ傍らに、黒い方舟が静かに在り続けていた。これから何百年も、何千年も、そうしているのだろう姿で。

窓に額をつけて、その光景を見ていた朱音が――ふと、呟いた。

「……なあ」

誰も、すぐには返事をしなかった。

全員が、同じ窓を見ていた。

黒い船体が、月の光を受けている。いや、月を受け止めている、という方が近かった。

巨大な方舟が、夜空から落ちてきた白い光を、その腕の中に抱いているように見えた。

「うち、地球に戻ったら、これ、書くわ」

朱音の声は、いつもの軽さより少しだけ静かだった。

「ここで起きたこと、全部。ツクヨミちゃんのことも、コクヨウのことも、カルナのことも、みんなのことも。ちゃんと書いとかんと、あかん気がする」

「記録、ですか」

佐紺が言った。

「うん。記録でもあるし……物語でもある。誰かが読んで、ほんまにこんなことあったんやって、思えるようなやつ」

朱音は、窓の外を見たまま、少しだけ笑った。

「まあ、文章とか全然自信ないけどな」

「題名は、もう考えているんですか」

佐紺の問いに、朱音は一瞬だけ黙った。

それから、窓の向こうの光景を指さした。

黒い船と、月。

その二つが、まるで最初からそうあるべきだったように重なっている。

「そうやな」

朱音は、ぽつりと言った。

「『黒き方舟は月を抱く』……なんてのは、どうやろか」

誰も、返事をしなかった。

返事の代わりに、全員がその画を目に焼き付けた。

いつか朱音がそれを書く日のために。

そしてたとえ誰も信じなかったとしても、自分たちだけはこの光景を忘れないために。