第四章 月へ至る航路
三十六
通牒
その報せは、臨時の緊急便で来た。
定期の周期を待たず、器の到着から解読まで、八代の符号は最短の形式で組まれていた。八日前にこちらから送った打診への、返信を兼ねた便だった。
『――お伝えすべきことが、二つあります。まず、悪い報せから』
光の男の顔から、いつもの柔和さが、半分消えていた。
『無感情症の、新規発生が再開しました』
ラウンジの空気が固まった。
『五日前、ノルウェーで一件。三日前、カナダで二件、チリで一件。昨日、日本国内で――一件。いずれも、ミルメクスの目撃情報は皆無。接触の痕跡もなし。何にも襲われずに、ある朝突然、感情だけが失われている』
全周囲ホログラムに、発生地点が赤く灯った。
その灯りの散らばりを見た瞬間、観測席の二人が同時に動いた。エイルの手が解析を走らせ、イナンナの声が結論を先に言った。
「一致します」
プロボシスの末端の接地予測図。じりじりと地表を這う、あの格子。発生地点の五つは、その予測線の上に正確に並んでいた。
「……ミルメクスは、要らんくなったんや」
朱音の声が、掠れた。
「腕を使わんでも……管が地面に届いたら直で吸えるようになったんや」
「オルドゥスという防波堤も、もう眠っています」
ニサバが、静かに続けた。
「先回りして隠してくれる者は、もういない。……月は今、初めて直接、人の心に口をつけている」
『財団の試算では』光の八代が続けた。
『発生の頻度は加速しています。末端の接地が進むほど指数的に。そして観測班の……そちらの解析とも恐らく一致すると思いますが』
イナンナが、引き取った。
「架設の進行率から、逆算しました。プロボシスの全末端が接地し、吸引が全球で同時に始まる――完全開通まで、およそ二十日です」
二十日。
登坂には五日。月面での作戦に四日。予期せぬ遅延へ備える時間も、一日は残さなければならない。
船体改修に使えるのは、十日だった。
そして、報せの最後に、八代は、個別の一件を付け加えていた。
『……昨日の国内の発生地点は、南関東です。療養七号施設のある県、と申し上げれば、伝わるかと。……発生者は、施設とは無関係の方です。ですが、末端の予測線は、今後十日で、施設の直上を、通過します』
朱音は、ホログラムの赤い灯を見つめていた。
父ではなかった。まだだった。
三年間、彼女の戦いは「取り戻す」ことだった。取り戻した今、それは別の形に変わっていた。
「……時間、ないんやな」
低い声だった。
「守らなあかんもんができたら、こんなんなんやな。……よっしゃ」
顔を上げた少女の目に、迷いはなかった。
『――もう一つは、ご依頼のありました、物資の件です』
光の男の声が、事務の調子に戻った。
『手配は、可能です。準備に、入ります。次の便で、詳細を。……それでは。どうか、ご無事で』
光が、解けた。
どこにでもある、補給の返答だった。月が聞いても、帳簿の一行にしかならない。
だが解読班は、その夜のうちに、符号の底から裏の意味を削り出した。三人がかりで開いた表の文面の下に、本当の返答は、三つの言葉で沈んでいた。
可能。
準備に入る。
そして、最後の一つ。
――妻に、会ってきます。
「……墓参、でしょうか」
佐紺が、呟いた。
「かも、しれません。決意の、儀式的な」
「……それとも」
誰も、その先を言えなかった。月が彼に差し出した取引の材料を、全員が知っていた。指輪に触れる、あの所作の意味を。
八代の線が、最終局面に入ったことだけが確かだった。
窓の外。
その夜の月は、満ちきる前であるにもかかわらず、観測記録を更新するほど明るかった。
◇
その夜――前例のないことが、起きた。
最初に気づいたのは、糸だった。ミナトの中で、船の全身が一斉に粟立った。次の瞬間、警報より早く、甲板の見張りの悲鳴が船内に走った。
「光がっ……甲板に、光が――降りてきます!!」
全員が、駆けつけた甲板の中央に。
光の粒が、集まりつつあった。
見覚えのある集まり方だった。
八代の器が結ばれるときと、同じ光り方。同じ粒の密度。
「八代さん……?」
朱音が、一歩、踏み出しかけて――止まった。
光は、船の中から立ち上がったのではなかった。空から、降ってきていた。
海の上――船の甲板で、光は細身の青年の輪郭を編み上げた。
能面のような無表情。瞬きの極端に少ない目。
光の青年が、そこに立っていた。
「……ちゃう」
朱音の手が、無意識に管制へ伸びた。
「誰や、あんた」
「結界が破られたのではありません」
イナンナの声が静かに訂正した。彼女の観測機器は、既に答えを捉えていた。
「上をご覧ください。……プロボシスの末端が一本。本船の直上に達しています。ここに――月の道が通ったのです」
地表の格子だけではなかった。管の末端は、海の上のこの船をも捉えていた。光の青年の出現そのものがその証明だった。もうどこにいても、月の指先の届かない場所はない。
セラフたちが武器を取った。朱音の手が管制へ、カーネリアの掌に熱が灯る。
光の青年は、その全てを意に介さなかった。
「通告します」
前置きも抑揚もなかった。
「妹神の離反は確認されました。兄神の無力化も確認されました。カーネリア及びイナンナの離反も確認されました。……計画はあなたたちを必要としない段階に移行しました」
事実だけが甲板に並べられていった。
「最終の取引を提示します。――コクヨウの動力を、自発的に献納しなさい」
「……献納すれば、どうなる」
ツクヨミが、前へ出た。
「その場合、月は均しの範囲を最小化します。人類の記憶と文明の構造は保存されます。調整されるのは感情の振幅のみです。……苦痛はありません。争いも、悲嘆も、二度とありません」
「拒めば?」
「調整は、保存を考慮しません」
それだけだった。
穏やかな絶滅か。乱暴な絶滅か。差し出された選択肢はその二つだけだった。
甲板の全員がツクヨミを見た。
彼女は一歩前へ出た。光の青年とまっすぐに向き合う位置まで。銀色の目は揺れなかった。あの夜、光の底で覚えた言葉を、彼女は今度は月の使者の顔面へ直接置いた。
「――嫌じゃ」
光の青年は、頷きもしなかった。
「回答を記録しました。……通告は以上です」
光の輪郭が解け始めた。粒子がほどけて、夜気に散っていく。
――その途中で。
解けかけた光が、止まった。
「……質問」
予定にない声だった。埠頭の夜、八代が聞いたのと、同じ種類の。
「妹神。あなたは月に、三年祈りました。毎夜欠かさず。……その祈りが欺瞞の回線であったことを、あなたは既に知っています。それでも、確認します」
能面が、まっすぐに彼女を見た。
「あの時間は、あなたにとって何でしたか」
甲板が静まり返った。
ツクヨミは、すぐには答えなかった。
夜風が、銀色の髪を揺らした。
「……三年、ではない」
やがて、彼女は、言った。
「わしの記憶は三年しかない。目覚めてからの三年が――わしには生の全部じゃった。その全部で祈っておった」
声は静かだった。
「騙されておった。仕掛けじゃった。全部、知っておる。……じゃがの。わしの側の祈りは本物じゃった。毎晩、心から祈っておった。母様が息災であるように、と。……欺瞞はあちらの側にしか、ない」
銀色の目が、能面を射た。
「――本物じゃった。わしの側だけは、な」
光の青年は動かなかった。
一秒。二秒。三秒。
演算の沈黙が――これまでのどの沈黙よりも、長く、続いた。欺かれた者の祈りが、本物である。そんな帳簿は、月の演算のどこにも、なかった。
「…………記録します」
ようやく、それだけを言って、光は解けた。
粒子が散り、夜気に消えていく――その一番最後に。
能面の輪郭の中で、目だけが一瞬残った。
瞬きの少ない、あの目だけが。消える寸前までツクヨミを見ていた。
夜気に、潮の音が戻った。
しばらく、誰も口を開かなかった。最初に沈黙を破ったのは、観測席の白い少女だった。
「……分類名を、提案します」
イナンナは、光の消えた甲板の一点を、まだ見ていた。
「あれは、交渉をしません。脅迫も、しません。決定を運び、回答を記録する。機能は――宣告。よって、分類名、宣告者」
「……宣告者、か」
朱音が、低く繰り返した。
その名は、翌朝には、船の記録と会話の全部で、使われるようになっていた。
◇
翌朝から、コクヨウ史上最大の改修が始まった。
大気圏の離脱。真空の航行。そして月の内部への突入。どれ一つとして、この船が経験したことのない航程だった。登坂の五日、月面作戦の四日、予備の一日を期限から除き、残された十日間の全てが、改修に注がれた。
――機関区画。
「外殻の耐熱、今の三倍は要るよ! 大気圏の突入で焼かれる前提だ!」
ロタの号令の下、橙色の襟が駆け回っていた。その中心に、赤い髪がいた。カーネリアは、外殻装甲の耐熱設計の要になっていた。彼女の掌が装甲材の限界温度を、一枚ずつ直接検めていく。熱の艦だった存在にしかできない検査だった。
「……ていうかさ」
検査の手を止めずに、彼女は、ぼやいた。
「あたしの熱で、あたしの船を守るとか。……皮肉、きいてるじゃん」
「あたしの船、だってさ」
ロタが、にやりと笑った。
「――ッ、言葉のあやだし!!」
装甲材が一枚、彼女の狼狽で危うく融点を超えかけた。
――事務区画。
ニサバと佐紺は、最終の様式と向き合っていた。
作戦様式・最終号。表紙の起案者の欄には二つの名前。
西園寺佐紺。ニサバ。
工程は七十一項に及んでいた。登坂。侵入。管制。共鳴。撤収。あらゆる分岐と、あらゆる中断基準。
最後の読み合わせを終えて、佐紺はペンを取った。そして様式の最終頁の余白に――規定のどこにもない一行を書き足した。
特記事項:全員で帰投すること。これを本作戦の成功条件に含む。
「……西園寺様。成功条件の定義は第三項で確定済みです。追記は様式の……」
「知っています」
佐紺はペンを置いた。
「規定外です。……ですが、これが無いと、私はこの様式に署名できません」
ニサバは、その一行を長いあいだ見ていた。
それから無言で承認印を取り、その一行の真横に――押した。
――射撃訓練場。
朱音とダスラは、対宣告者、対月内部の想定射撃を繰り返していた。光の粒子体への有効打。狭隘区画での射線管理。汗だくの休憩中、ダスラがタオルを差し出しながら、ふと言った。
「……朱音様。この戦いが終わったら」
「ん?」
「貴女の父君に、お目にかかりたいですわ」
朱音が目を丸くした。
「三年分の看病の申し送りを……というのは口実ですわね。正直に申しますと」
ダスラは、少しだけ笑った。
「貴女を育てた方にお会いしたいの。……こんなに強くて、こんなに泣き虫な子を育てた方を、ね」
「……っ、泣き虫は余計や!」
言い返した声がもう、湿っていた。
◇
――解析室。
ミナト、エイル、イナンナの三人は、共鳴プロトコルの最終実装と格闘していた。アダマスの理論骨格。オルドゥス戦の実績。粗訳層の拡張。全てが組み上がり――そして最後の一枠だけが白いままだった。
「……この空欄、どうしはるんですか」
覗きに来た朱音が画面を指した。
「埋まらへんのでしょ、結局」
「はい。埋まりません」
ミナトはあっさりと認めた。
「だから――空欄のまま積んでいきます」
「……は?」
「アダマスさんが『祈る』って書いた欄です。技術じゃないもの。一人で背負う人には見えなかったもの。……ここで千回考えても、答えは出ない気がするんです。それより」
ミナトは空欄を指でなぞった。
「現地で、分かる気がする。……根拠はないんですけど。この数か月、この船で起きたことを思い返すと――大事なものは全部、計画の外から来たので」
◇
十日間の改修を終えた、出航の前夜だった。
深夜の厨房に、灯りが点いていた。
ミナトが扉を開けると、調理台の上に――焦げていない一皿があった。
パンケーキだった。形は少し不格好だった。厚みも揃っていなかった。だが狐色は均一で、バターは香ばしく熔け、添えられた果物は丁寧に切られていた。
その皿の前に、エティンが立っていた。三角巾をきちんと締め直して。
「……予約のお品です」
声が少しだけ緊張していた。
「明日からは、こういう時間は取れませんので。……本日をもって納品とさせていただきたく」
ミナトは席に着いた。
いただきます、と手を合わせてから、一口食べた。
二口目を食べた。三口目は少しゆっくり食べた。
「……美味い、です」
嘘のない声だった。
「完全食が『足りる』なら……これは『満ちる』ですね。佐紺さんの言ってた『別』が分かりました」
エティンは、ほっと息をついた。それから向かいの席に――給仕としてではなく、初めて同じ卓を囲む者として腰を下ろした。
しばらく静かな時間が流れた。
「……ミナト様」
「はい」
「わたくしの覚えている生は、目覚めてからの三年だけでございます。その前の一万三千年は、夢も見ない眠りの中で――時間そのものが、ございませんでした」
彼女は湯気の向こうで、静かに話し始めた。
「目覚めてからは、ずっと待つ側でした。お部屋を整えて、待って。給仕の手順を確かめて、また待って。いつ来るとも知れないどなたかのために、支度だけを重ねる。時間というものは、わたくしには、待つもの、でした……」
三角巾の下の目がミナトを見た。
「ミナト様がいらしてから――初めて、明日が来てほしいと、思うようになりました」
「…………」
「明日はあなたに何をお出ししようか。あなたは何に驚いて、何を美味しいと言うだろうか。……そういうことを考える夜が、わたくしは好きなのです。時間が耐えるものではなく、楽しみに数えるものになりました。……それがわたくしの、精一杯の」
名前のない何かの、精一杯の告白だった。
ミナトは、フォークを置いた。
彼の側の三年間を、彼は話した。
「……俺は三年間、明日が全部、同じ色でした。今日と同じ明日が来て、また同じ明後日が来る。誰の帰りも待たないし、誰にも待たれない。それが普通で、それでいいと思ってました。……思い込んでました」
彼は皿を見た。それから彼女を見た。
「今は――帰ってきたい場所が、ある。生まれて初めてです」
厨房の灯りが、二人の間で静かに揺れた。
「だから……帰ったら」
ミナトは、言った。名前のない何かに名前を付ける練習を、彼はこの数か月、この船でしてきた。まだ下手だった。下手なまま、精一杯言った。
「命綱とか、味見係とか、じゃない名前で――あなたと話がしたい」
エティンは、目を見開いた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。頬に朱の差した、いつもの給仕の礼とは違う微笑みだった。
「……はい」
彼女は深く、頷いた。
「その予約も――承りました」
手は、重ねなかった。――まだ。
厨房の柔らかな灯りだけが、二人の間を同じ金色に照らしていた。それで十分な夜として、その夜は更けていった。
――夜が明けた。
改修を終えたコクヨウが、静かに舳先を北へ向けた。
甲板に全員がいた。ミナト、朱音、佐紺の三人。ツクヨミ。セラフの全員。カーネリアと、イナンナ。誰も号令をかけないのに、自然と全員が空を見上げていた。
白い円がそこにあった。記録にない明るさで。
ツクヨミが皆の前に立った。長い演説はなかった。彼女は月を見上げたまま、短く言った。
「行こう。……母様を――迎えに行く」
撃ちに、ではなかった。
止めに、でもなかった。
迎えに。
錨が上がり、船が動き出した――そのとき。
水平線の彼方、陸の方角から、一条の光が、海面を走ってきた。
器ではなかった。
定期の便でもなかった。
八代は、洋上観測站の鍵穴から、プロボシスの主幹へ直接、信号を流し込んだ。
ただし、信号には月から与えられた協力者権限が被せられていた。月側に残るのは、観測站から主幹へ緊急信号が差し込まれたという記録だけだ。それだけでは、八代が離反したとまでは断定できない。
だが、洋上観測站の存在は露見する。鵜飼から月への報告経路が生きていれば、八代の偽装も間もなく終わる。
だから八代は、その経路が切断される時刻に合わせて、たった一語だけを送った。
光は船の受信網へ飛び込み、ラウンジに乱れた符号のまま展開された。
解読は、一秒で済んだ。符号は、たった一語だったからだ。
――急げ。
発信者、八代。
陸で――何かが動いた。