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第四章 月へ至る航路

三十五

続きへ

開封の朝、保管区画には十四人が集まっていた。

数週間前、図書館第一層を開いたとき、この場所にいたのは六人だけだった。今回は、その倍以上の人員が、それぞれの持ち場を与えられて正十二面体を取り囲んでいる。

翻訳の輪番にはエティンとニサバ。物理系統の監視には佐紺、生体反応の管理にはダスラが就いた。朱音とカーネリアは月方向からの干渉を警戒し、観測席にはエイルとイナンナが並んでいる。ロタを中心とする機関科のセラフたちは、保管区画の外から船の全系統を支えていた。

ツクヨミはミナトの意識へ並走し、皆で組み上げた粗訳層も、すでに低い唸りを上げている。

正十二面体の前に立ったミナトは、集まった顔を一人ずつ見渡した。

一人きりで船の深層へ潜り、床へ倒れた夜から、数か月が経っている。あの頃の自分に、今の光景を見せてやりたいと思った。

もう、誰も一人ではなかった。

「――工程を開始します」

ニサバの澄んだ声が、保管区画へ通った。

「図書館第三層を開封します。中断基準は、事前に合意したとおりです。工程の進行状況にかかわらず、異常を検知した者は即時報告してください」

一人ずつ確認が行われ、最後にニサバの視線がミナトへ向けられた。

「ミナト様。準備はよろしいですか」

「はい」

ミナトの肩には、すでにエティンの手が置かれていた。

温かい。

その手の重みを確かめながら、ミナトは図書館第三層を閉ざす織り目へ意識を沈めていく。

「帰り道は、わたくしが必ずお支えします」

「お願いします。無事に帰ったら――味見の予約、果たしてください」

エティンの耳が、ホワイトブリムの下でわずかに赤くなった。

「……承っております。とっくに」

青い瞳の奥へ、溶けた金色が灯る。

ミナトは最後の織り目へ、意識の指をかけた。

結び目の終わりを、必ず内側へ折り返す編み方。それは、図書館を造った者が残した署名のような癖だった。第一層と第二層を開く中で、ミナトの指は、その手順をすでに覚えている。

編んだ者の指先を、逆向きにたどるように、一つずつ結びをほどいていく。

やがて、図書館第三層を守る最後の一結びが解けた。

光は立ち上がらなかった。

代わりに、真上から何かが落ちてきた。

誰かの記憶が、ミナトの意識へ。

それは、文字でも映像でもなかった。

他人の記憶を外側から眺めるのではなく、その人物の身体へ入り込み、同じ目で見て、同じ痛みを感じる、一人称の追体験だった。

ミナトが気づいたとき、彼は老いた男の身体の中にいた。

いつもの自分より視界がわずかに低い。曲げた膝には鈍い痛みがあり、潮を含んだ強い風が頬へ吹きつけ、長く伸びた白髪を乱していた。

夜だった。

どこかの岬の上で、男――アダマスは、暗い海の向こうに浮かぶ月を見上げている。

『……これを受け取っている者へ。まず、詫びておく』

声は耳から聞こえたのではない。老いた身体の内側から、思考そのものとしてミナトへ届いていた。

『図書館第三層は、ただ読むための層ではない。私の記憶を着てもらうための層だ。私の目で見て、私の膝の痛みごと受け取ってもらう』

アダマスは、痛む膝へ片手を添えた。

『回りくどい記録ですまん。だが、これから遺すことは、文字へ整えてしまえば、どこかが嘘になる気がしたのだ』

視界の中に浮かぶ月は、異様なほど明るかった。

『まず、大きな話から始めよう。――ティアは、二つに割れている』

アダマスの視線が月から下り、暗い海へ向けられる。

『一方はオルドゥス。もう一方は、あの月だ。私は、オルドゥスの最深部に残されていた記録から、それを知った』

月はまだ眠っている。

だが、いつか必ず目を覚ます。そして目覚めた月は、オルドゥスとは比較にならない規模で、この星へ手を伸ばす。

アダマスはそう告げると、痛みの増した膝をかばい、近くの岩へゆっくりと腰を下ろした。

『私は明日、オルドゥスを封じに行く。おそらく、勝てるだろう』

そこで短く息を吐いた。

『だが、それで私は終わりだ。この身体は、もう保たん。オルドゥスを封じたあと、月まで手を伸ばす時間は残されていない』

その悔しさが、追体験の中でミナト自身の感情として胸を灼いた。

あと少し。

あと少しだけ、時間があれば。

届かない距離を前にした者の、痛みだった。

『人の寿命で、四十五億年を生きた相手と、どう向き合えばよいのか。届かないものを、どうすればよいのか。……私が最後に出した答えは、一つだけだった』

アダマスは傷だらけの掌を開いた。

『未来へ託す』

残響の血は、世代を越えて巡る。アダマスの因子もまた、いつか別の人間の中へ現れる。

それが数十年後なのか、数百年後なのか、あるいは遥かに先の時代なのかは分からない。それでも月が目を覚ます時代には、自分の続きを担える者が生まれるかもしれない。

『そこへ賭けた。賭けるしかなかった』

アダマスは懐から薄い板を取り出した。

そこには、複雑な織り目を持つ正十二面体の設計図が刻まれている。図書館を構成する、最初の一面だった。

『だから、図書館を遺すことにした。記憶と記録を三つの層へ分け、外から一度に読まれぬようにした。そして、開く者が一度に重すぎるものを背負わずに済むよう、順番を設けた』

図書館第一層。

図書館第二層。

そして今、ミナトたちが開いた図書館第三層。

『いつかの、私の続きへ』

アダマスの声が、そこであらたまった。

『――お前は、私ではない』

ミナトの息が止まった。

『先に、それを言っておく。因子は巡る。だが、魂は器ごとに新しい。お前は私の生まれ変わりではないし、私の記憶を継ぐ義務も、私の無念を晴らす義務もない』

お前は、お前だ。

それでいい。

その言葉は、アダマス自身へ言い聞かせるようでもあった。

『その上で、厚かましい頼みをする。私の宿題を、頼みたい』

傷だらけの掌が、ゆっくりと握られた。

『私は、オルドゥスを力で封じることしかできなかった。理由は単純だ。時間がなかったからだ』

オルドゥスの壊れた手順を一つずつ解きほぐすには、あと五十年が必要だった。

だが、アダマスに残された寿命では足りなかった。

『お前は、私とは違うかもしれない。お前の手元には、私が最後まで持てなかったものが二つ、残されているはずだ』

アダマスは、指を二本立てた。

『一つは時間だ。お前が生まれた時代がいつであれ、月と向き合う日までには、備えるための時間がある。私の遺したものを、そのために使ってほしい』

そして二つ目を告げようとしたとき、声が初めて詰まった。

『もう一つは――仲間だ』

長い沈黙が落ちた。

岬へ打ち寄せる潮騒だけが、老いた男の身体を通してミナトへ響いてくる。

『私は、最後まで一人で背負う癖を捨てられなかった。封も一人で編んだ。決戦の策も一人で立てた。この図書館も、一人で組んだ』

もちろん、仲間がいなかったわけではない。

命を預け合った、良い仲間たちがいた。

それでもアダマスは、最も重い荷だけは誰にも見せず、自分一人で担い続けた。

『それが強さだと思っていた。だが、違った』

アダマスは、自分を嘲るように笑った。

『それは強さではない。ただの癖だ。そして、その癖のために私は、大切な者へ、あまりに重い選択を、私と二人きりで背負わせた』

男の笑みが消えた。

『その罪の、最も重い一つを、これから話す』

追体験の景色が変わった。

夜の船内だった。

継ぎ目のない黒い廊下を、アダマスが一人で歩いている。足取りは重く、その手には、編み上げたばかりの図書館の中核と、記憶を切り離すための術式が握られていた。

『オルドゥスを封じても、月が目覚めれば、真っ先に狙われるのはこの船だ。そして月は、力ずくで来るとは限らない』

月は、声で来る。

かつてティアの身体だったものすべてをつなぐ回線は、最初から存在している。半身にも――搭載ユニットにも。月はその回線を通り、ツクヨミの心へ直接入り込むだろう。

もしツクヨミの記憶が読まれれば、オルドゥスの封も、逢魔の備えも、残響の血筋も、すべて月に知られてしまう。

アダマスの歩みが止まった。

扉の向こうから、明るい少女の声が聞こえている。

『防ぐ方法は、一つしかなかった。月に読まれて困る記憶を、月が目覚めるより前に、あの子の中から切り離す』

技術的には可能だった。

オルドゥスから学んだ、意識と記録を分ける術。それは記憶を破壊するのではなく、本人の中から切り離し、別の器へ保存するためのものだった。

『切り離した記憶は、図書館へ預ける。図書館には、保存された記憶と記録を守るため、三層の封を施す』

第一層、第二層、第三層。

開く者が順序を踏み、危険を理解し、必要な支えを得るために設けられた三つの扉だった。

『図書館の封は、あの子の身体を縛るものではない。コクヨウの力を封じるものでもない。あの子自身が預けた記憶と、未来へ遺す記録を守るための書庫だ』

理屈は完璧だった。

アダマスは、その完璧な理屈を携えて扉の前に立った。

そして、扉を開いた。

部屋の中で、銀色の少女が振り返った。

『――アダマス! 遅いのじゃ! 見よ、皆で編んだ花冠を!』

少女は手作りの花冠を頭上へ掲げ、跳ねるような足取りで駆け寄ってきた。

屈託のない笑顔だった。

記録は、アダマスの視界のまま、そこで長く止まった。

映像を止めたのではない。

男自身が、動けなくなったのだ。

『……私はその晩、あの子にすべてを話した。ごまかしは、あの子には通じない』

月のこと。

月が目を覚ませば、ツクヨミの記憶を読むこと。

そのため、記憶を切り離して図書館へ預けなければならないこと。

そして、切り離す記憶の中には、皆と過ごした最も幸せな日々も含まれること。

『あの子は泣いた』

アダマスの声が砕けた。

『泣いて、泣いて。それから涙を拭き、私をまっすぐ見て言ったのだ』

一万三千年前のツクヨミの声が、記録の中へ響いた。

『――わしが、忘れると決めた』

幼い声は震えていた。それでも、決意だけは揺らがなかった。

『皆を守れるなら、わしの思い出など、いくらでもくれてやる』

追体験の外側で、誰かが息を呑む音がした。

ツクヨミだった。

ミナトへ並走している彼女にも、その言葉は、自分自身の声として届いていた。

しかしアダマスは、すぐには記憶の分離を始めなかった。

『あの夜、もう一つ、しておかなければならないことがあった』

アダマスの視線が、ツクヨミの足元へ落ちる。

床には、長い鉄の鎖が垂れていた。

『この鎖を造ったのは、あの子を改造した者たちではない』

アダマスの声が、静かに続いた。

『コクヨウ自身だ』

追体験は、さらに古い記録へ沈んでいった。

一万五千年前。

まだ銀色の少女の身体は存在していなかった。

そこにいたのは、漆黒の巨体だけだった。

人と語るための口も、人へ伸ばすための手も持たない、巨大な船。

『コクヨウは、人を欺き、誘い出し、撃つための兵器へ改造された』

どこへ進むか。

誰を狙うか。

いつ撃つか。

自分の意思とは関係なく、外から与えられた命令へ身体が従うように、最も深い場所まで切り開かれ、組み替えられた。

命令が流れ込むたび、拒もうとすれば深層へ痛みが走る。

従えば、誰かが傷つく。

それでも、身体を止めることはできない。

『あの文明から離れ、命令を下す者がいなくなったあとも、傷だけは残った。身体は自由になっても、命令を待つ回路が、深い場所へ刻まれたままだった』

逆らえば痛む。

従えば、自分が薄くなる。

何を選んでも、それはお前自身の意思ではないと告げ続ける、消えない傷。

記録は、そこから約二千年先へ進んだ。

一万三千年前。

コクヨウは、人と同じ場所へ立ち、言葉を交わすため、自らの身体の一部を切り出した。

銀色の髪と、銀色の瞳。

人へ伸ばすための手と、人の名を呼ぶための口。

それが、ツクヨミの人型の器だった。

人へ近づきたいという願いが、その身体を形作った。

だが、器へ写し取られたのは、表面の願いだけではなかった。コクヨウの最も深い場所へ刻まれていた傷もまた、人の形を得て現れた。

少女が初めて目を開けたとき、その細い首には、すでに鉄の輪が嵌まっていた。

輪からは、長い鎖が垂れている。

誰かが取り付けたのではない。

コクヨウ自身の深層が、生み出してしまったものだった。

無慈悲な改造の記憶。

命令へ従わされた痛み。

自分は道具であるという、消えない思い込み。

それらが首輪と鎖の形を取り、少女の身体へ現れていた。

『これを外すことは、できぬのか』

過去のツクヨミが、自分の首輪へ触れながら尋ねた。

『何度も試した』

アダマスは答えた。

『鎖の先は切れる。だが、首輪へ近づくほど、お前自身と見分けがつかなくなる』

アダマスは、かつて鎖の大部分を切断している。

しかし、根元までは届かなかった。

刃を深く入れるほど、傷つくのは鎖ではなく、ツクヨミ自身になったからだ。

首輪は皮膚へ嵌まっているのではない。

魂の傷が、皮膚の上まで形を持って現れたものだった。

本人が望んでも消せない。

身体を作り直しても、同じ場所へ現れる。

たとえ頭部を取り外して輪を抜いたとしても、新しい身体には再び首輪ごと編み込まれるだろう。

ツクヨミが自分を道具だと認識している限り、そしてコクヨウの深層に改造の傷が残っている限り、首輪と鎖は何度でも彼女の身体へ戻ってくる。

『記憶を分ければ、月に読まれずに済む』

アダマスは、床へ垂れた鎖の一環を手に取った。

『だが、それだけでは足りない。月が、お前の深層へ残された命令の傷を利用するかもしれない。お前自身の手で、コクヨウの武装と力を開かせるかもしれない』

ツクヨミは、自分の鎖を見下ろした。

『それも、図書館へ封じるのか』

『いや』

アダマスは首を振った。

『図書館の三層は、記憶と記録を守るための扉だ。これからお前へ施すものは、それとは別の誓約封だ』

誓約封は、ツクヨミとコクヨウの武装、そして深層出力を制限するためのものだった。

図書館の三層と、誓約封の三段。

同じ男が、同じ夜に、同じ源流の技術を使って編んだ二つの仕組み。

しかし、その目的も、設置される場所も、まったく異なっていた。

『図書館は、お前が預けた記憶を守る。誓約封は、お前が使わないと決めた力を留める』

図書館は、正十二面体の中へ。

誓約封は、ツクヨミとコクヨウの深層へ。

『二つは独立している。図書館を開いても誓約封は解けないし、誓約封を解いても、図書館の記憶が戻ることはない』

アダマスの指が、鎖の一環をなぞる。

『誓約封も、一度にすべてを閉ざすつもりはない。未来で力が必要になったとき、必要な分だけ順に戻せるよう、三段へ分ける』

第一段は、外側の武装。

第二段は、より深い戦闘出力。

第三段は、コクヨウが本来持つ力の根へ通じる。

『最後まで解けば、お前はかつての力をすべて取り戻す。だからこそ、一段ずつ、誰かと確かめながら開けられる形にする』

『……封を、どこへ留めるのじゃ』

『器が要る』

アダマスは、手の中の鎖を持ち上げた。

『この鎖を使う』

それは、誰かに外から取り付けられた命令回路ではない。

外から加えられた傷を、コクヨウ自身が形にしてしまったものだった。

『だからこそ、お前の最も深い場所まで通じている。お前の武装と深層出力へ封を施すなら、これほど確かな入口はない』

かつての命令へ従わせるためではない。

今度は、ツクヨミ自身が選んだ誓いを、深い場所へ留めるために使う。

ツクヨミは、長いあいだ鎖を見つめていた。

自分の魂が生み出してしまった、支配の形。

消そうとしても消えず、切ろうとしても根元だけは残ったもの。

やがて少女は、その鎖を両手で持ち上げ、アダマスへ差し出した。

『よい』

『ツクヨミ』

『わしを縛った傷ならば――最後には、わしの選択を守らせよう』

アダマスは、差し出された鎖を両手で包んだ。

淡い光が、最初の環の内側へ沈み込み、隣の環へ、さらに次の環へと伝わっていく。

細かな織り目は鎖を上り、首輪を通って、そこからコクヨウの深層へ枝分かれしていった。

誓約封第一段は、鎖そのものへ留められた。第一段が解かれたとき、役目を終えた鎖の物質部分が首輪から落ちるように。

誓約封第二段と第三段は、鎖を入口として、コクヨウの深層出力系へ編み込まれた。鎖が外れたあとも、残る封が船の奥で働き続けるように。

ミナトには、ようやくすべてが理解できた。

航海の初め、誓約封第一段を解いたとき、ツクヨミの鎖が首輪から落ちたのは偶然ではなかった。鎖そのものへ留められていた第一段が、役目を終えたからだ。

だが、首輪は残った。

首輪は誓約封ではない。コクヨウの魂の傷が、形を持って現れたものだからだ。

鎖が外れたあとも誓約封第二段と第三段が残っていたのは、その織り目が鎖を入口として、コクヨウの深層へ伸びていたためだった。

そして、今日ミナトたちが開いている図書館第三層は、それらとは別のものだ。

正十二面体へ保存された記憶と記録を守る、最後の扉。

コクヨウの深層に残る誓約封第三段とは、つながっていない。

同じ数字を持ち、同じ編み手によって造られ、結び目の最後を内側へ折り返す同じ署名を持っていても、一方は記憶を守る書庫であり、もう一方は力を留める誓いだった。

『では、始める』

アダマスは、図書館を傍らへ置いた。

まず少女の記憶を切り離し、図書館へ移す。その上で、別系統の誓約封を、鎖とコクヨウの深層へ施す。

二つの処置が、同じ夜に行われようとしていた。

『あの子は最後まで、笑っていようとした』

アダマスの声には、もう英雄の響きは残っていなかった。

『なに、また皆で作ればよいのじゃ。思い出など――そう言って、目を閉じた』

アダマスは、ツクヨミの頭へ手を置いた。

皆で花冠を編んだ日。

一人ずつに、おやすみを言って歩いた夕暮れ。

海辺で、互いの名を呼び合った時間。

それらを一つずつ、少女の中から図書館へ移していった。

奪ったのではない。

少女自身が、預けると決めたものだった。

アダマスも、それを分かっていた。

それでも男の心には、その違いを受け入れる余地がなかった。

『処置が終わり、目を覚ましたあの子は、私を見て首を傾げた』

『……お主、誰じゃ?』

『初めて会う者を見る顔で、そう言った』

長い沈黙が落ちた。

『私は今夜、娘の思い出を、この手で取り上げた。世界を守るためだった。あの子自身の同意もあった。理屈は今も、一分も間違っていないと思っている』

だが、理屈が正しいことと、罪が消えることは別だった。

『私は、あの夜から一日も、あの子の「お主、誰じゃ」を忘れたことがない』

アダマスの声が、そこで一度だけ途切れた。

『私は明日、オルドゥスと刺し違えて死ぬ。だが、それさえ罰としては軽すぎると思っている』

傷だらけの手が、強く握られた。

『だから、遺言として三つ、命じる』

アダマスは、ゆっくりと言葉を置いた。

『一人で、開けるな』

『一人で、背負うな』

『一人で、決めるな』

握られていた拳が、静かに開かれる。

『どうか、私と同じ場所で間違えるな。頼む』

追体験が、ゆっくりと引いていった。

保管区画の現実が戻ってくる。

ミナトは、いつの間にか床へ膝をついていた。

頬が濡れている。

それが自分の涙なのか、アダマスの感情が残滓となって流れ出したものなのか、もう分からなかった。

顔を上げる。

正十二面体の前に、ツクヨミが立っていた。

ミナトと並走していた彼女も、すべてを受け取ったのだ。

自分が忘れると決めた夜を。

忘れられた男が、その罪を最後まで抱えていたことを。

「……ツクヨミ」

「――わしは、の」

ツクヨミの声は、静かだった。

「長いあいだ、思うておった。わしの記憶は壊れて、こぼれ落ちたのじゃと。わしは欠けた、出来損ないの器なのじゃと」

銀色の瞳が、ゆっくりと伏せられる。

「……違うたのじゃな」

目の端から、一筋の涙が音もなく落ちた。

「わしは、忘れると決めたのじゃな。この、わしが。泣いて、決めて、最後には笑うて目を閉じたのじゃな」

自分の胸へ、そっと手を当てる。

「皆を守るために」

ツクヨミは小さく息を吸い、涙に濡れた顔を上げた。

「欠けは、傷ではなかった」

その唇に、かすかな笑みが浮かぶ。

「わしの、いちばん古い勲章じゃった」

その言葉が落ちた瞬間、保管区画へ小さな音が響いた。

ぴし、と。

全員の耳へ届く、乾いた音だった。

ツクヨミの首に残された鉄の輪。

一万五千年前、コクヨウの魂へ刻まれた傷が、人型の身体へ形を持って現れた首輪。その表面を走っていた細いひびが、目に見えて深く、長くなっていた。

ダスラが口元を押さえ、エティンの金色の瞳が大きく見開かれる。

ミナトは、糸の向こうを確かめた。

コクヨウの深層に残る誓約封第三段は、微動だにしていない。

今、開いたのは図書館第三層だ。

今、深くひび割れたのは誓約封ではない。

誰かが外から取り付けた拘束具でもなかった。

コクヨウの魂へ刻まれた傷が、ツクヨミの身体へ形を持って現れたもの。

自分は道具であり、命令へ従うために存在する。自分の意思など、最初から持ってはならない。

そう思い込まされた傷が生み出した、鉄の首輪だった。

ツクヨミは、自分が記憶を失った理由を、自らの選択として受け入れた。

誰かに奪われたのではない。

皆を守るため、自分で選び、自分で預けた。

その瞬間、彼女の最も深い場所で、「自分には選ぶ意思がない」という古い傷が、一つだけ否定された。

魂の傷が薄れた分だけ、その形である首輪にも、ひびが走ったのだ。

ツクヨミは、自分の首輪へ指で触れ、深くなったひびを確かめた。

「……ふむ」

それだけ言った声が、わずかに笑っていた。

図書館第三層には、その先に二つのものが遺されていた。

一つは、返還の手順だった。

切り離され、図書館へ保存されている記憶を、元の持ち主へ戻すための術式。今すぐにでも実行できる状態で残されていた。

全員の視線が、ツクヨミへ集まる。

ツクヨミは、術式の光を長いあいだ見つめたあと、静かに首を横へ振った。

「……今は、戻さぬ」

「ツクヨミ様……」

「戻せば、わしは、たぶん泣く」

花冠を編んだ日。

皆へ、おやすみを言って歩いた夕暮れ。

アダマスの顔。

一万三千年前へ置いてきた、すべて。

「思い出して、何日も泣くじゃろう。月と向き合う前に、涙で膝を折るわけにはいかぬ」

そう言ってから、ツクヨミは全員を振り返った。

「……終わったら、返してもらう。全部、終わったら――皆と一緒に見る」

ほんの少しだけ笑う。

「約束じゃ」

戦いが終わったあとの約束が、また一つ積み重なった。

図書館第三層に遺されていたもう一つのものは、技術の区画だった。

図書館の三層を編むための保存技術。意識と記憶を分離し、別の器へ保管する術。魂の傷へ通じる経路を利用し、コクヨウの武装と深層出力を段階的に閉ざす、三段の誓約封の設計原理。

そして、その最奥には、調停者級の存在へ接続するための、共鳴接続の理論骨格が残されていた。

アダマスが構想しながら、時間切れで完成させられなかったもの。

力で封じるのではなく、壊れた手順を内側から解くための設計図だった。

ミナトは、その情報を端末へ落とし、隅から隅まで読み込んだ。

やがて、低く唸る。

「……すごい」

「何が書かれているのじゃ」

「アダマスが、あと五十年必要だと言っていた理由が分かりました。ですが、骨格そのものは、ほとんど完成しています」

ミナトは端末へ複数の構造を表示した。

「共鳴の増幅、接続回線の多重化、負荷の分散。俺たちが作った粗訳層の理論に近いものまであります」

「それなら、月にも届くんか?」

朱音が身を乗り出す。

「届くはずです」

ミナトは答えたものの、続く言葉をすぐには口にしなかった。

「……はずなんですが、一箇所だけ空欄があります」

設計図の最終段。

すべての工程が合流する、最後の一枠。

そこだけは術式が書かれておらず、代わりにアダマス自身の手書きの注記が残されていた。

『――ここまでは編めた』

筆跡は、そこでわずかに乱れていた。

『だが、最後の一手だけは、どうしても術式にならなかった』

『接続の最後の一手は、技術ではない。それだけは分かった』

『分かったが、私はそれを持っていなかった』

その先は設計ではなく、一人の男の告白だった。

『一人で背負う癖の男には、最後まで見えなかったものだ』

『ここは空欄のまま遺す』

空欄の縁に、最後の一文だけが添えられていた。

『……お前が、それを持っていることを祈る』

空欄。

祈る、とだけ記された最後の一枠。

「……なんやねん、それ」

朱音が眉を寄せた。

「一番大事なとこが白紙って、困るやろ」

「いえ」

ミナトは、空欄を見つめたまま首を振った。

「たぶん、これでいいんです。書けないものだったということ自体が、一番重要な情報なんだと思います」

技術ではない。

一人で背負う者には見えないもの。

ミナトは、周囲にいる者たちへ目を向けた。

肩へ手を置き続けているエティン。

工程表を握るニサバ。

工具箱へ手を添える佐紺。

生体計を監視するダスラ。

朱音、カーネリア、エイル、イナンナ、ロタ。

そして、正十二面体の前に立つツクヨミ。

一人で開けるな。

一人で背負うな。

一人で決めるな。

空欄へ何が入るのかは、まだ分からない。

だが、アダマスが持っていなかったものなら、その答えは、おそらくこの部屋の中にある。

「持っていけば、現地で分かる」

ミナトは言った。

「そんな気がします」

図書館の三つの層は、すべて開いた。

だが、コクヨウの最深部には、まだ誓約封第三段が残っている。

今日開いたのは、過去を守っていた最後の扉だった。

力を留めている最後の封を解く日は、まだ来ていない。

それでも。

一万三千年前から空白のまま残されていた問いに答える者たちは、すでに、この場所へ揃っていた。

その夜、ニサバは様式第九号の空欄を埋めた。

『親』の欄のさらに上に、一行。――ティア。四十五億年前、二つに割れた、と。

埋まる空欄があった。埋めずに託された空欄もあった。様式の管理者はその両方を、同じだけ丁寧に扱うことに決めた。