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第四章 月へ至る航路

三十八

口吻

近づくほどに、それは、生き物だった。

全周囲ホログラムに映る主幹は、観測図で見た「重力の勾配」という言葉から、想像できるどんな姿とも、違っていた。

直径、約六百メートル。海面から天へ、大きく斜めに傾いで立ち上がる、透明な柱。

あれは物質では、ない。空間そのものに刻まれた、エネルギーの流れだった。人類のどの観測機器にも、あの柱は映らない。レーダーは素通りし、望遠鏡は虚空を映す。今、全周表示に淡い輪郭として描かれているのは、コクヨウの観測系――重力の皺を直接読む、この船だけが持つ目が、視えないものを視える形に、翻訳した姿だった。

肉眼に見えるのは、その中を昇っていくものだけだった。

吸い上げられた海水が、細い螺旋を描いて空を目指し、高度とともに凍って、白い粒の帯になり、雲を貫いて、視界の果てへ消えていく。空へ昇る、逆さの滝だった。

そして、柱は――動いていた。

ゆっくりと。本当に、ゆっくりと。傾ぎの角度を、変え続けていた。天の一点を追う、生き物の首のように。

「観測報告。主幹の傾斜角、継続的に変化中。追跡対象は――月です。月の公転に合わせて、柱全体が、角度を補正し続けています。接地点だけが、動かない」

「北極点、やもんな」

朱音が、ホログラムを見上げた。

「海の上で、ここだけ、回らへん場所……」

「補足します」

イナンナの声が続いた。

「末端の観測より、一点。柱の裾は、海面を――探っています。接地の前に、対象の表面を、舐めるように走査する挙動が、全末端で確認されています。これは」

彼女は、そこで、珍しく、比喩を使った。

「――蚊が刺す場所を探すときの、口吻の動きと一致します」

CICの誰かが、小さく身震いした。

「……あれの中を、五日、登るんか」

「はい」

ニサバが、様式を確認した。

「工程一。観測站より、鍵の起動。……八代様」

「準備は、できています」

洋上観測站――氷海に係留された、逢魔の無人プラットフォーム――との回線が、開かれた。八代の指が、この数か月で集めた断片から組み上げた起動符号を、一節ずつ、正確に、打鍵していく。

最後の一節が、通った。

主幹の裾の、海面の狂いが――わずかに、変わった。

「……扉が、開きました」

八代が、静かに告げた。

「月の帳簿には、こう記帳されたはずです。――『献納物、進入準備完了』と」

進入の前に、一つだけ、済ませるべきことがあった。

誰が言い出したのでも、なかった。カーネリアとイナンナが、揃って甲板に出たとき、船の全員が、自然と、その意味を理解した。

主幹の袂の、氷海。

その遥か下に、父が、眠っていた。

二人の少女は、甲板の先端に並んで立った。赤い髪と、水色の髪が、北極の風に揺れた。

「……ねえ、イナンナ。聞こえてるのかな、あれ」

「不明です。休眠の深度は、観測の限界を超えています。……ですが」

イナンナは、眼下の海を見た。

「受信箱は、まだ、生きているはずです。……返信の回路が焼けても、受信だけは、最後まで、生きていましたから」

カーネリアは、しばらく、黙っていた。

それから、大きく、息を吸った。任務報告の形式でも、命令への応答でもない、初めての種類の発信を、彼女は、海の底へ向けて、放った。

「――お父様!! あたしたち、行ってくるから!!」

声は、氷海に吸い込まれていった。

「月のやつ、あたしたちが作られた理由の、大元のやつ!! あんたが一万三千年、独りで止めてたやつ!! ――あたしたちが、行って、話つけてくるから!!」

彼女は、拳を握った。

「だから……だからさ。ゆっくり寝てなよ。今度は、見張りなんかしないで。子どもに任せて、寝てられるのが、親なんでしょ……朱音が、言ってた」

隣で、イナンナが、静かに続けた。

「観測報告を、送ります。宛先、お父様。……わたしたちは、破壊ではない接触の記録を、取りに行きます。あなたが、間に合わなかった記録を。……行って、まいります」

二人分の発信が、終わった。

応答は――ない。

あるはずが、なかった。

二人が、踵を返しかけた――その、とき。

海が、鳴った。

地鳴りではなかった。攻撃でもなかった。氷海の、遥かな深みから、一度だけ――巨大なものが、寝返りを打つような、深い、深い、律動が、昇ってきた。

「観測!! 海流に、異常――いえ、これは……!!」

エイルの声が、途中で、変わった。

「深層流が……収束しています。本船の、真下へ。海流が、船底を――」

コクヨウの巨体が、ふわり、と持ち上がった。

深みから昇ってきた、膨大な水の流れが、四百メートルの船体を、掌のように、下から包んでいた。押し流すのではない。支えて――押し上げていた。主幹の扉へ。空へと続く坂の、その乗り口へ向かって。

最後の力の使い道だった。

オルドゥスは、コクヨウとの共鳴の中で、自分が失っていた原文を読み直していた。完全に修復されたわけではない。それでも眠りへ落ちる直前、壊れていた手順の片側が、一度だけ息を吹き返した。

過剰を減じ、欠乏を補え。

戻った「補え」の側が、月へ向かう子らの足りない初速を補っていた。

甲板の二人は、動けなかった。

カーネリアの目から、堪える間もなく、雫が落ちて、甲板で小さく蒸発した。

「……っ、聞いて、たんじゃん……!! 返事、できるんじゃん……!! ――行ってくる!! 行ってくるからね!!」

イナンナは、自分の首輪に、そっと、手を当てていた。

「……観測、しました」

声は平坦であろうとして、震えていた。

「分類します。……これは――応答、でした」

海流に押されて、コクヨウの舳先が、主幹の扉を潜った。

重力推進が、坂の勾配を、掴む。

黒い方舟は、海を離れ――空へ向かって、登り始めた。

最初の一時間は、誰もが、窓に釘付けだった。

眼下に、北極の白が、円くなっていった。氷原の亀裂が、地図の線になり、地平線が、弧を描き始める。空の青が、頭上から順に、深い藍へ、そして黒へと、剥がれていく。

人類の誰も見たことのない航路を、船は、静かに登っていた。

「……綺麗やなあ」

朱音が、呟いた。誰も、返事をしなかった。返事の代わりに、全員が、同じ景色を目に焼き付けていた。

だが、感嘆の時間は、長くは続かなかった。

登坂の二時間目。ミナトの糸に、それが、触れた。

「……来ます」

彼は、低く、警告した。

「管の内壁から……何かが、船を、調べてる」

壁、といっても、物質ではない。勾配の縁――それ以上外へ出れば押し戻される、力の境界面だった。その境界を伝って、正体の分からない走査の波が、船体の表面を、ゆっくりと、撫でていく。

質量を測り、熱を測り、構造を読み――味わっている。

月の管制の、検分だった。

献納物の申告と、実体は、一致しているか。運ばれてくる獲物は、罠ではないか。管そのものが、五日間、休みなく、それを確かめ続けるのだった。

「――総員に、通達します」

ニサバの声が、船内に静かに流れた。

「これより本船は、工程二……死んだふり航行に、移行します。全システム、生命維持を除き、最低出力へ。熱を出さない。音を出さない。演算を、走らせない。……月の目に映る本船は、観念して、力なく運ばれていく獲物でなければ、なりません」

船が――死んでいった。

区画の照明が、非常灯だけを残して、落ちる。空調が、囁くような最低運転に絞られる。艦内の温度が、じわじわと、下がり始める。赤いラインの鼓動が、眠るように、浅く、遅くなっていく。

CICの光量も、落とされた。薄闇の中に、計器の淡い光と、人の輪郭だけが、残った。

「航行補正は」

「手動です」

佐紺の声が、闇の中で答えた。

「管のうねりに合わせて、姿勢を、随時。自動制御は、演算の熱で、検分に引っかかる恐れがある。……ニサバさんと、輪番で回します。二時間交代で」

「五日間、ずっとですか」

「ずっとです。……ですが」

闇の中で、留め金の音が、ことりと、小さく鳴った。

「手動は、得意分野なので」

ミナトは、糸を、細く、細く、絞った。船との接続を切ることはできない。だが、太い糸は、それ自体が熱として検分に映るかもしれなかった。針の穴ほどの細さまで、彼は自分と船を繋ぐ回線を絞り込んだ。

絞った糸の向こうで、船の心細さが微かに伝わってきた。

――大丈夫だ。

糸の細さの分だけ、静かに返した。

――眠ったふりをしてるだけだ。俺たちは、ここにいる。

「月まで――」

薄闇のCICで、ツクヨミの声が、静かに締めくくった。

「五日。……このまま、五日じゃ」

最初の夜が来た。

夜、といっても、管の中に昼夜はなかった。眼下の地球がゆっくりと自転し、青い面と夜の面を、交互に見せるだけだった。人の身体だけが律儀に夜を覚えていた。

消灯された廊下を、点呼の囁きが回っていく。

「……機関科、異常なし」

「……観測、異常なし」

「……医務、異常なし」

声を潜めることに、実際の意味は薄かった。音が管の外に漏れるわけではない。それでも誰に言われるでもなく、船の全員が囁きで話した。死んだふりをしている船の中では、囁くのが、礼儀のような気がするのだった。

薄闇の食堂でウェスタが、火を使わない糧食を配って回っていた。

「……本日の献立は、圧縮糧食と常温の栄養液です。……ネットによりますと、こういうものは『味気ない』と表現するそうですが」

彼女は囁き声のまま、少しだけ胸を張った。

「……包み紙に一枚ずつ、絵を描いておきました。味は補えませんが、気は補えますので」

配られた糧食の包みには、一つずつ違う絵があった。下手な猫。下手な花。下手な、しかし誰の顔か全員に分かる、船の面々の似顔絵。薄闇のあちこちで、囁くような笑いが、漏れた。

その夜遅く、ミナトは当直の交代で、CICへ向かった。

途中の展望窓の前に、小さな影が立っていた。

ツクヨミだった。

薄闇の中、彼女は窓の外を見上げていた。管の螺旋の、その先。五日後の目的地――白い月が、もう、肉眼で分かるほど、大きくなり始めていた。

「……眠れませんか。って、眠らないんでしたね」

「うむ。……じゃが、今夜は眠らぬ理由が、いつもと違う気がしての」

彼女は、窓の外を見たまま囁いた。

「三年、あれに祈った。裏切られて、嫌じゃと言うた。……そして今、あれに向かって、登っておる。迎えに行くと、わしは言うた。言うたが、の、ミナト」

銀色の目が、白い円を映していた。

「近づくほどに、分からなくなる。……わしは、あれに会うたら、最初に、何と言えばよいのじゃ。恨み言か。問いか。それとも……」

声が、小さくなった。

「……ただいま、か」

ミナトは、答えを持っていなかった。

持っていないことを、ごまかさなかった。

「……分かりません。俺にも」

「そうか」

「ただ……空欄と、同じだと思ってます」

「空欄?」

「設計図の、最後の一枠。ここで千回考えても、出ない。現地で、分かる。……あなたの最初の一言も、たぶん、同じです。あれの顔を見た瞬間に、あなたの中から、出てくるものが――それが、正解なんだと思います」

ツクヨミは、しばらく、黙っていた。

それから、ふ、と、息だけで笑った。

「……行き当たりばったり、と言うのじゃぞ、それは。人間の言葉では」

「船の言葉では、なんて言うんですか」

「…………信じる、かの」

薄闇の窓辺で、二つの影は、それきり、黙って、大きくなっていく白い円を、見ていた。

管は、うねりながら、船を運んでいく。

死んだふりの船の中で、生きている者たちの夜が、静かに更けていった。

五日間の、最初の夜だった。