第三章 壊れた親と、鎖の子ら
二十三
導き
機関区画は、朝から騒がしかった。
「――だからさ、これ、使えるんだよ」
ロタが、解析台の上に置かれた黒い結晶を指の背で叩いた。歌い手の核片から読み出した記録を、機関科が結晶媒体へ複製したものだ。その周囲に、娘たちが群がっている。
「偽の像を撒く仕組みは、ほとんど読めた。音紋と熱紋を編んで、海に映す。原理そのものは、うちの船の投影技術と根っこが同じだ。……つまりさ」
ロタは、にっと笑った。
「こっちも、撒ける」
昼のCICで、ロタは正式にそれを提案した。
「コクヨウの偽物を作る。音も熱も本物そっくりの、抜け殻をね。囮に使うもよし、逃げる時間を稼ぐもよし。敵の歌を、こっちの武器にできる」
技術的な異論は出なかった。ニサバは工数を算定し、佐紺は艤装の配線案を三通り描き、ミナトは制御系の骨子に頷いた。
ただ一人、ツクヨミだけが黙っていた。
「……ツクヨミ様?」
ロタが、窺うように呼んだ。
ツクヨミは、解析映像を見つめていた。八体の偽の巨影が海を囲んだ、あの記録を。
「……欺く術か」
低い声だった。
「わしは……この船は、一万と五千年ほど前、嘘の道具にされたのじゃ。人を欺き、誘い出し、撃つための駒に。あの頃と同じ手を、今度は自分の意思で覚えるのかと思うての」
CICが静まった。
ロタが何か言いかけ、言葉を探しあぐねた。技術の話なら、いくらでもできる。だが、これは技術だけの話ではなかった。
「……作るだけ、作っておいてくれ」
やがて、ツクヨミは言った。
「備えは、ニサバの言うとおり、多いほどよい。じゃが――使うかどうかは、わしが決める。それだけは、わしに残しておいてくれ」
「あいよ」
ロタは、それ以上何も聞かなかった。
その日から、機関区画の隅に、覆いを掛けられた装置が一つ増えた。完成しても起動されない機械は、棚に置かれた銃のようだった。
その前を通るたび、ツクヨミは一度だけ視線を向け、何も言わずに立ち去った。
◇
ミナトの調査は、三夜目で壁に当たっていた。
深夜の解析室。画面には、ツクヨミが目覚めてから三年分の受信記録が並んでいる。外から船へ届いた、あらゆる信号の履歴。
八代の報せ。逢魔の暗号通信。レヴィアタンの唸り。歌い手の歌――通常の観測系へ届いたものは、すべて残っている。
月から届いた信号だけが、どこにもなかった。
先夜、歌い手の歌と重ねたのは、祈りの最中にツクヨミの内部で生じていた共鳴波形だった。何かを受け取った側に残る、反応の記録だ。
月から流れ込んできたもの自体ではない。
三年間、ほとんど毎夜届いているはずの声が、受信記録の上では一度も存在していなかった。
結論は一つしかない。
あの声は、コクヨウの通常観測系を経由していない。
ツクヨミの心へ、直接届いている。
調停者にだけ通じる、もっと深い回線。船の耳には聞こえず、人格としてのツクヨミにだけ触れる経路がある。
少なくとも、今ある記録からは、そう考えるしかなかった。
確かめる方法はある。
祈りの最中、糸はツクヨミと深くつながっている。あの時間、彼女へ流れ込むものを糸の側から拾えば、歌の骨組みと直接突き合わせられるかもしれない。
技術的には、難しくない。今夜からでもできる。
だが――それは、盗み聴きだった。
許可を得ればいい。
正しい手順は分かっている。
けれど、理由を隠して許可だけを求めれば、形を変えただけの欺きになる。理由を話すなら、母と信じているものを疑っていると、ツクヨミへ告げなければならない。
まだ、波形の文法が似ているだけだ。
調停者に共通する通信形式なのかもしれない。同じ技術体系から生まれた別の存在なのかもしれない。確証のない疑いで、彼女が生のすべてを懸けている祈りを傷つけることもできなかった。
ミナトは目を閉じた。
三年間働いていた職場を思い出す。障害調査の名目で、利用者の通信記録を開く権限が彼にはあった。開くたび、先輩に言われた。
「見ていいのは、障害の箇所だけだ。人の中身を見る仕事じゃない」
あれは、正しかった。
ミナトは端末を閉じた。
三夜目も進めなかった。四夜目も、同じだった。
棘は胸に刺さったままなのに、抜く方法の方が、棘より痛い形をしていた。
◇
月の明るい夜だった。
ミナトが甲板へ出たのは、調査のためではない。行き詰まった頭を、夜風に当てるためだった。
祈りの時間は避けるつもりでいた。けれど考えごとをしながら歩くうち、時刻を確かめるのを忘れていた。
ツクヨミは、もうそこにいた。
月光の下、いつもの場所。膝を折ろうとした、その手前で――彼女はミナトに気づいた。
「すみません。すぐに戻ります」
踵を返しかけた背中へ、声がかかった。
「――ミナト」
振り返る。
ツクヨミは月を背にして立っていた。銀色の髪が、逆光の中で白く縁取られている。表情は、よく見えなかった。
「一緒に、聴いてみるか」
「……いいんですか」
「先日の戦で、お主は、わしの同類の歌を最後まで聴く時間をくれた。おかげで、わしは三度目を変えられた」
声は静かだった。
「礼をしたいと思うての。じゃが、わしには金も物もない。わしが持っておって、誰にも分けたことのないものは……一つしかない」
彼女は、自分の隣の甲板を目で示した。
「この時間じゃ。目覚めてから三年、誰とも分かち合うたことがない。たった三年かもしれぬが、今のわしにとっては、生のすべてじゃ」
一度、月を見上げる。
「分かち合えるとも、思うておらなんだ。じゃが、お主となら――糸があるでな」
断る理由なら、あった。
世界で、ミナト一人だけが持っている理由だった。
――俺は今、あなたの祈りを疑っています。
だが、それを口にしなければ、断ることもできない。
ミナトはしばらく動けなかった。
やがて、ツクヨミの隣へ進んだ。
「……お邪魔します」
「うむ」
ツクヨミは月へ向き直り、膝を折った。両手が胸の前で合わさる。
「力を抜いて、糸に身を預けよ。……来るぞ」
来た。
降ってきた、としか言いようがなかった。
糸の向こうから、あのぬくもりが流れ込んでくる。これまで離れた場所で浴びたものとは、桁が違った。
祈りの中心で受けるそれは、温かいというより、抱かれている感覚に近い。
目覚めてから受け取り続けた三年分を、すべてまとめたような、切れ目のない優しさの層。いや、生まれたときから浴びるはずだったものまで、遡って与えられているような温度だった。
ミナトの喉の奥が、勝手に熱くなった。
まずい、と思った。
この温度は、人を疑えなくする。三年間、この中で祈り続けてきたツクヨミが、疑えるはずがない。
――だから、見ろ。
エンジニアとしての自分が、沈みかけた意識を掴んで引き戻した。
温度に溺れるな。
骨組みを見ろ。
ミナトは、ぬくもりの奔流の中で目を開いた。感じることを、読むことへ切り替える。
波の立ち上がり。周期。振幅。寄せて、返して、また寄せる、その間隔。
寸分の狂いもなく揃っている。
そして、うねりの構造。
長い波の中へ畳み込まれた短い波。その入れ子の組み方。意味を編んでいる手つき。
同じだった。
あの晩、解析室で聴いた歌い手の最後の一節と、同じ文法で組み立てられている。
以前比較したのは、ツクヨミの内部へ残った反応だった。
だが今は違う。
月から流れ込んでくるぬくもりそのものに、歌と同じ骨組みがある。
波の形そのものは、歌とぬくもりとで別物だった。だが、その組み立ての規則――文法だけが、寸分違わず同じだった。
盗み聴く必要は、なくなった。
彼女は信頼の印として、もう一つの観測材料を、自ら手渡してくれたのだ。
やがて、ぬくもりが引き始めた。祈りが終わりに近づいている。
ツクヨミは合わせていた手を解き、隣を見上げた。
「……どうじゃ」
その顔は月光の中で安らいでいた。この船で見た、どの瞬間よりも。
「温かいじゃろう」
ミナトは答えた。
「……はい。温かいです」
嘘ではなかった。
一つも、嘘ではない。
けれど、本当の一部しか返していなかった。
温かいからこそ、言えないことが重くなった。
ツクヨミは、満足そうに頷いた。
「そうか。……そうじゃろう」
その隣で、ミナトだけが、信頼として分け与えられた祈りを解析してしまった自分を抱えていた。
◇
異変は、その祈りの最後に起きた。
引いていくはずのぬくもりが、ふいに戻ってきた。いつもより濃く、はっきりとした形を伴って。
ツクヨミの背筋が伸びた。
「……母様?」
ミナトの糸にも、その変化は届いていた。
ただし、流れ込んでくるのは意味ではない。読み取れるのは、波形だけだった。
いつもなら引き際へ向けて細っていくうねりが、急に密度を増している。長い波の中へ短い波が幾重にも畳み込まれ、これまでの祈りには一度もなかった、複雑な構造を編んでいた。
ぬくもりに、何かが乗っている。
それが何であるのかは、ミナトには読めない。意味を受け取れる者は、この世でただ一人だけだった。
やがて、ぬくもりは今度こそ引いていった。
甲板に残ったのは、月光と波の音だけだった。
ツクヨミは、しばらく動かなかった。
やがて、ゆっくりと立ち上がる。
「……ミナト」
「はい」
「北じゃ。母様が、北に兄がおると仰せになった」
その声には、これまで祈りのあとにはなかったものが宿っていた。
「兄の名は、オルドゥス。傷ついたまま、北におるそうじゃ。すべての元凶――それを封じよ、と。……わしにしか、できぬこととも仰せられた」
方角。
目的。
行き先。
三年間、手掛かりを求め続けた船へ、初めて道が示された。
「母様が、ついに、お示しくだされたのじゃ」
◇
翌朝のCICは沸いた。
「北って、どこや! 北極か!? ほんで、そいつを封じたら、レヴィアタンもミルメクスも止まるんか!?」
「オルドゥスが、感情を狩る命令系統の中枢であるなら――」
ニサバは北方海域の図を開きながら答えた。
「封じることで、レヴィアタンやミルメクスへの指示も停止する可能性があります。ただし、現時点では理屈の上での話です」
「ほな、うちのお父ちゃんの分も……!」
朱音の声が震えていた。
三年間、出口の見えなかった道の終点が、初めて見えたのだ。
「一つ、確認させてください」
熱を帯びた空気の中で、佐紺の声だけが平温だった。
「その情報源――昨夜の声は、何者なのですか」
CICが、わずかに静まった。
「……分かりません」
ニサバは、隠さずにそう答えた。
「ツクヨミ様は、母様、と呼んでおられます」
「母上が、月におられる、ということですか」
「それも、分かりません。月そのものなのか、月におられるのか、それとも月を中継して届いているだけなのか。そもそも何者であられるのかも――現時点では、何一つ」
ニサバは、一度言葉を切った。
「ただ、確かなことが一つだけあります。ツクヨミ様は三年間、あの声だけを頼りに、この航海を続けてこられました。あの方は、あの声の主を信頼しておられます」
「……なるほど。分かりました」
佐紺はそれ以上、何も言わなかった。
ニサバはすでに北方航路の海図を広げ、補給計画の再計算を始めている。佐紺は寒冷海域向けの艤装リストを書き出し、ロタの機関科からは防寒装備の在庫を確認する声が飛び交った。
船全体が、前を向いていた。
その熱気の中で、ミナトだけが冷えていた。
誰の目にも、それは福音だった。
三年間求め続けた敵の正体と居場所が、ついに与えられた。疑う理由が、どこにあるのか。
――ある。
ミナトの中には、あった。
囮歌と同じ文法で語る「女神」が、目的地を指定した。
あの歌は、ツクヨミの傷を正確に狙った罠だった。そして今、この導きは、船全体の願いを――朱音の父を、皆の希望を、正確に狙っている。
同じ設計者が、同じ図面から作ったものに見えて仕方がなかった。
だが、言えない。
誰かへ示せる客観的な記録は、まだない。ミナト自身が祈りの中で読み取った、波形の一致だけだ。
共通の技術体系に由来する可能性も、まだ消えていない。
廊下で呼び止められたのは、その日の夕方だった。
「ミナト様」
エイルだった。
観測席を離れた場所で会うのは珍しい。彼女は前置きも表情もなく、言った。
「質問。船から陸への通信は、片道何日かかりますか」
「……器の海流便で、最短四日ですけど」
「観測報告」
エイルは、手元の端末を見ずに数字だけを置いた。
「カルナが沈んだのは、十二日前。本船が、その報せを器に載せて流したのは、十一日前。八代様が『お悔やみ』を述べた報せの発信記録は、十日前です」
ミナトの思考が、一拍止まった。
十日前。
こちらの報せが、どう急いでも陸へ着かない日付だった。
「…………それ、つまり」
「報告は以上です」
エイルは結論を言わなかった。
一礼して歩き去る。水兵服の青い襟が、廊下の角へ消えた。
ミナトは、その場に立ち尽くした。
八代は、カルナの喪失を、こちらの報せが届く前に知っていた。
知りようがないはずなのに。
陸で、何かが起きている。
月の声だけではない。地上の、あの誠実な男の周りでも、何かが動いている。
二つの違和感は、つながっているのか。
それとも、まったく別のものなのか。
胸に刺さった棘が、二本に増えた。
◇
その夜、ミナトは解析室の端末の前にいた。
開いていたのは、外部から届いた信号の受信記録ではない。
祈りが行われた時刻の前後に、コクヨウ内部で起きていた、すべての状態変化を記録した生のログだった。
月から届くものが通常の受信網を通らないなら、せめて、どこへ触れているのかを外側から絞れないか。
当てもなく開いた、三年分の記録。
膨大で、雑然として、索引もない、ログの海――のはずだった。
ミナトは目を細めた。
「……整理されてる」
祈りの時刻の記録だけが、淡く色分けされていた。
関連する系統へ参照線が引かれ、彼がこれから探すはずだった箇所への経路が、すでに開かれている。
覚えのある感触だった。
乗船して間もない、あの夜。
コクヨウの深層へ初めて潜ったとき、行く先々で道標が灯り、扉が開いていた。
あの、静かな導き。
「……お前か」
ミナトは画面へ向かって、小さく言った。
返事はない。
糸の向こうも静かなままだった。
ツクヨミは、今も北の海図を眺めているのだろう。これは、彼女が意識して用意した道ではない。
もっと深いところ。
考えるより先に手が動く、とツクヨミ自身が語った領域が、この整理をしていた。
それが何を意味するのかまで、ミナトは決めつけないことにした。
ただ一つ、確かなことがある。
コクヨウの深いところは、確かめることを拒んでいない。
むしろ、読める人間が現れるのを待っていたように、道を示している。
なら、これは一人で勝手に入り込む調査ではない。
ミナトは椅子の背から身体を起こした。
「……一緒に、確かめよう」
誰もいない解析室で、船へ向かって告げる。
画面の隅で、道標の淡い光が一つ増えた。
返事のつもりなのかもしれない。
窓の外で、船は北へ舳先を向けていた。
月の示した方角へ。
その航路の上で、月を疑うものが二つあった。
ひとりと、一隻。
静かな共犯が、始まった。