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第二章 帰る場所を海の底に

幕間

百十七の朝

夫が壊れたのは、二年半前の秋だった。

壊れた、という言い方を、佐和子は人前ではしない。

医者は無感情症と呼んだ。役所では、便宜上、高次脳機能障害として扱われた。義母は電話口で「気の病でしょう」と言った。

どの言葉も当たっていない気がした。夫は病気になったのではなかった。

ある朝、夫だったものが、夫の形をして布団から起きてきた。それだけだった。

前日まで、何の兆候もなかった。町工場の経理を三十年やって、還暦を過ぎて再雇用になって、それでも毎朝六時に起きて、味噌汁の味に必ず一言つける人だった。辛い。今日は薄い。昆布を替えたな。四十年、一日も欠かさなかった。若い頃は腹も立ったが、いつからか、それが台所の時報のようなものになっていた。

あの朝、夫は味噌汁を黙って飲んだ。

全部飲んで、ごちそうさまも言わずに、箸を置いた。テレビの野球の結果にも、庭の柿が落ちたことにも、何も言わなかった。目は開いていた。

返事もした。問えば、うまい、と答えた。その、「うまい」が、自動販売機の釣り銭の音と同じ響きをしていることに、佐和子は三日かかって気づき、気づいた日の夜、風呂場で声を殺して泣いた。

病院は方々を回った。検査はどれも異常なしだった。脳にも、心臓にも、血液にも、悪いところは一つもないと、若い医者は申し訳なさそうに言った。同じような患者が全国で増えていること、原因が分かっていないこと、財団系の研究機関が調査していることを教えてくれたのは、三軒目の病院の年配の看護師だった。原因が分からないなら治しようもないでしょう、と佐和子が言うと、看護師は否定しなかった。

介護というほどのことは、何もなかった。夫は自分で起きて、食べて、着替えて、散歩にも行った。テレビの前に座り、画面を見て、夜になれば寝た。手はかからなかった。手がかからないことが、いちばんこたえた。世話をさせてくれれば、まだ、することがある。

佐和子は、それでも毎朝、味噌汁を作った。

昆布を水に浸け、鰹節を削り、味噌を溶いた。夫の好みの、少し辛めに。誰も味に文句をつけない味噌汁を、二年半、作り続けた。娘には、もうやめたら、と言われた。お父さん、味なんて分かってないのよ、負担でしょう、と。分かっている、とは言い返さなかった。分かっていないのは、佐和子にも分かっていた。ただ、これをやめたら、自分の中の何かが終わる気がした。夫を待つのをやめた家に、夫が帰ってくる場所はない気がした。理屈ではなかった。理屈でないことだけが、この二年半、佐和子を立たせていた。

その朝も、いつも通りだった。

六時に起きて、台所に立った。十二月にしては暖かい朝で、窓の外では、夜と朝の境目がゆっくりと白み始めていた。

昆布の鍋が湯気を立て始めた頃、廊下の軋む音がして、夫が起きてきた。

おはよう、と佐和子は言った。おはよう、と釣り銭の音が返った。いつも通りだった。

夫は食卓に着き、佐和子は椀をよそった。夫は椀を持ち、一口すすった。

「……辛いな」

佐和子は、流しで手を動かしたまま、はい、と返事をしかけて、止まった。

振り返った。

夫が、椀を持ったまま、自分の口元に、空いた方の手をやっていた。今しがた自分の口から出たものに、自分でいちばん驚いている顔だった。それから夫は、もう一口すすって、椀の中を覗き込んで、妙なことを言った。

「……うまいな。なんだこれは。こんなに、うまかったか」

佐和子は、返事ができなかった。濡れた手を前掛けで拭くことも忘れて、立っていた。夫が顔を上げて、佐和子を見た。目が合った。二年半ぶりに、目が、合った。見られている、と分かる見方で、夫が佐和子を見ていた。

「おい、どうした。……おい。泣くな。なんで泣く」

なんで泣くのか、説明できる気がしなかった。佐和子は前掛けを顔に当てて、台所の床にしゃがみ込んだ。夫は椀を置き、慌てて立ち上がった。少し固くなった膝をかばいながら、佐和子の隣へしゃがみ込み、背中に手を置いた。その手の置き方が、四十年前から知っている置き方だった。

病院は、その日のうちに行った。若い医者は検査結果を三度見直して、「理由は分かりません。ですが、少なくとも今は、発症前と変わらない反応が戻っています」と言った。理由を訊くと、分かりません、と正直に答えた。同じ日に、同じような回復の報告が、全国から相次いでいるらしかった。財団の人が後日、話を聞きに来た。丁寧な人たちだったが、彼らも理由は知らないようだった。

夫は、失われていた二年半の出来事を、知識としては覚えていた。

病院へ何度も行ったこと。娘と孫が訪ねてきたこと。庭の柿が落ちたこと。佐和子が毎朝、味噌汁を作っていたこと。

だが、どれも自分の記憶という感じがしないらしかった。

「長い、灰色の廊下を歩いてたような気がする」

夫は、一度だけそう言った。

「何があったかは分かるんだ。けど、そこに俺がいた気がしない」

それ以上、夫は語らなかった。佐和子も訊かなかった。

代わりに夫は、失った時間を自分の手へ取り戻すように、細かいことにいちいち感動した。

柿がうまい。風呂が熱い。孫がでかくなった。テレビの野球に本気で腹を立て、佐和子の味噌汁に、毎朝きちんと文句をつけた。

二週間ほど経った、ある晩のことだった。

風呂上がりの夫が、縁側で夜空を見上げたまま動かずにいた。

「どうしたの」

佐和子が声をかけると、夫は満月を指した。冬の、よく晴れた夜だった。

「いや。……なんでもないんだがな」

夫は、少し照れたように首の後ろを掻いた。

「月を見てたら、なんだか、礼を言わなきゃならん気がしてな。誰にだか、知らんが」

「馬鹿みたいだろう」と夫は笑った。

佐和子は笑わなかった。夫の隣に腰を下ろし、一緒に月を見た。

白い満月は、いつもより少し明るい気がした。

気のせいかもしれなかった。

誰に礼を言えばいいのか、二人とも知らなかった。

知らないまま、翌朝も、味噌汁は少し辛めに作られた。