第一章 誰も帰さない
十一
解除
照明が落ちた。
非常灯の薄い赤だけが、防護区画に残る。壁のモニターも暗くなっていた。
「……電気、死んだん?」
「後付けの補助系統だけです」
暗がりの中で、佐紺の声は変わらず冷静だった。むしろ、いつもより少しだけ速い。
「この防護区画の照明と空調、それに心臓部の人間用コンソールは、同じ第四補助系統につながっています」
「直してたんちゃうの?」
「第三系統までは。第四系統へ取りかかる前に、戦闘が始まりました」
暗闇の中で、工具箱の留め金が外れる。佐紺にとっては、深呼吸の代わりの音だった。
「配電盤を見てきます」
「は!? 外、戦争やで!?」
「配電盤は廊下の先です。船外へ出るわけではありません」
非常灯の下で、紙をめくる音がした。
ニサバが、手にしていた図面のファイルを開いている。
「西園寺様。第四系統の配電盤までご案内します」
「話が早くて助かります」
「本来は、ツクヨミ様の許可なく防護区画を離れることは規定違反です。――ですが」
ニサバは眼鏡の位置を直した。
「緊急時特例を、今、私の権限で設けました」
二人は、扉の向こうの闇へ駆け出した。
――非常灯だけの廊下を、佐紺は走っていた。
その隣を、ニサバが図面を片手についてくる。船が被弾するたび足元が大きく揺れ、肩が壁にぶつかった。
「第四系統まで、あと三十メートル」
ニサバの声は、走っていても乱れない。
「西園寺様。一つ、申し上げておきます」
「なんでしょう」
「この区画の配線は、私も、完全には把握しておりません。頼りは、あなたの手です」
佐紺は走りながら、わずかに笑った。
怖くなかった、と言えば嘘になる。頭上では得体の知れない怪物が、得体の知れない光を撃ってくる。理屈の通じないものは、いつだって背筋が冷える。
だが――今、自分が向かっているのは配電盤だ。ねじと、端子と、銅線でできた、理屈の通じる世界。
もっとも、人間の電気工事士が施工したものではない。
コクヨウがネットから集めた知識をもとに、現代の人間が使う電気設備を再現したものだ。規格も理屈も教科書どおりで、驚くほど整然としている。けれど、実際の現場を知らないまま組み上げたせいか、ところどころに独特の癖があった。
最初は戸惑った。
だが、その癖さえ呑み込めば――佐紺にとっては十分、読める世界だった。
そして、それがありがたかった。どれも、自分の手では触れられないものばかりだ。そんな戦いの中で自分にだけは、手で触れて、理屈で直せる持ち場がある。
闇の先に配電盤の銀色の蓋が、非常灯を撥ね返して光っていた。
「ここからは、私の領分です」
佐紺は工具箱の留め金を、かちりと鳴らした。
数分後、扉がもう一度開いた。
今度はダスラだった。
「朱音様。お力をお貸しいただけますこと?」
「わ、わたしの?」
「ええ。ツクヨミ様が、この船の封印……誓約封を解く決断をなさいました」
朱音の表情が強張る。
「誓約封が解かれれば、この船の武装が目を覚まします。目覚めたその瞬間、照準をあなたにお任せしたいのです」
「な、なんで、わたしなん」
「武装自体は古いものですが、人間が操作するための照準画面は、コクヨウが現代のゲームを参考に組み直しております」
ダスラは非常灯の赤い光の中で、まっすぐ朱音を見た。
「すなわち――あなたの土俵ですわ」
「ほんまに、撃つんやな」
「撃たなければ、次は誰が傷つくか分かりません」
朱音は一瞬だけミナトを見た。
だが返事を待つより早く、立ち上がっていた。
「……ええよ。ここにおっても、見てるだけやし」
「ご説明の続きは、走りながら。船の心臓部へ参ります」
「心臓部?」
「この船で、最も安全な場所ですわ」
二人が駆け出す。残されたのはミナトだけになった。
非常灯の赤。遠い衝撃音。軋む船体。
一人で待つのは慣れているはずだった。三年間、誰もいないオフィスで深夜の障害と向き合ってきたのだから。
なのに今は座っていられない。糸の向こうで船が灼かれている。その痛みが座っていることを許さない。
扉が、三度目に開いた。
ツクヨミが、そこに立っていた。
戦闘の最中の船を指揮しているはずの少女が、たった一人で。
「ツクヨミ!? なんでここに――船は」
「身体が勝手に避けておる。人が、歩きながら話せるのと同じじゃ」
ツクヨミは部屋に入ってこなかった。扉の前に立ったまま、まっすぐにミナトを見上げる。両手を体の脇に揃えている。何かを始める前のあの姿勢の、もっと張り詰めた形だった。
「ミナト。頼みがある」
声は平坦だった。けれどその平坦さの下で、何かが必死に抑えられている。
「誓約封を、開けてほしい」
ミナトは息を呑んだ。
「……近づくなって、言ったじゃないですか」
「言うた。じゃが、状況が変わった」
彼女の声に迷いはなかった。
「あれを退けるには、この船の――わしの牙がいる。じゃが誓約封は、わし自身には解けぬ。あれは人の手で編まれ、人の手にしか応えぬ。お主が触れて呼ばれ、コクヨウがお主にだけ扉を開けた。可能性があるのは、お主だけじゃ」
「俺に、できると?」
「分からぬ」
ツクヨミは正直に言った。それから一度、言葉を切る。
「……お主をこの船に連れてくるとき、わしはお主の意思を聞かなんだ」
まっすぐな目が、揺れずにミナトを見ている。
「じゃから、今度は聞く。嫌なら、嫌と言うてよい。お主が断っても、わしらは別の道を探す。最後の最後には――わしらだけで、何とかする」
その「何とかする」の中身を、ミナトは問わなかった。問えば聞きたくない答えが返ってくる気がした。
怖くないわけがない。誓約封に触れて、丸一日意識を失ったのは、六日前のことだ。あの記憶の奔流に、今度は自分から飛び込めという。
それでも。
ミナトは、自分でも意外なほど静かに答えていた。
「やります」
即答したミナトを見て、ツクヨミの目がわずかに見開かれた。
「……理由を、聞いてよいか」
ミナトは、自分の胸の内を確かめた。
以前の自分なら、誰かの役に立てるなら、自分はどうなっても構わないと考えていただろう。
ツクヨミが初めて三人の前へ現れた夜もそうだった。誰かが犠牲になるのなら、自分が真っ先に差し出されればいいと、簡単に決めた。
だが、今は違う。
これは、自分を捨てるための決断ではない。
自分が、ここにいたいと選ぶための決断だ。
三年間、灰色の膜の向こうで生きてきた。怒りも悲しみも喜びも、どこか遠かった。自分の人生なのに、いつも他人の障害を処理しているだけだった。
けれど今は、膜の向こうから自分を呼ぶ声がある。
ツクヨミがいる。コクヨウがいる。朱音が、佐紺が、エティンがいる。
船体を走った赤い光。ツクヨミの銀色の髪。エティンの淡い金の三つ編み。朱音の赤いリボン。佐紺の工具箱に刻まれた細かな傷。
今まで遠かった世界が、一つずつ色を取り戻していく。
「俺自身が、やると決めたからです」
ミナトは立ち上がった。
「あなたは俺を助けるとき、迷わなかった。そんな人に頼まれて、俺だけ迷い続けるのは――格好がつかないでしょう」
ツクヨミは数秒、ミナトを見上げていた。
何かを言いかけるように唇が動き、けれど声にはならなかった。
やがてツクヨミは、ふいと背を向けた。
「……ついてまいれ。我が心臓へ降りる」
その横顔をミナトは見なかった。見ていればツクヨミが、ほんの少しだけ泣きそうな顔をしていたことに気づいたかもしれなかった。
◇
船体下部への降り口で、エティンが待っていた。
いつもの黒いメイド服のまま、深く一礼する。
「お供いたします、ミナト様」
立入禁止だった船体下部は、別の世界だった。
廊下という概念が、途中から消える。漆黒の壁が緩やかにうねり、継ぎ目のない通路が洞窟のように奥へ続いていた。壁の奥で何かが淡く明滅している。岩の中を光の脈が流れていた。
ミナトは歩きながら、壁に触れた。
温かい。人の肌ほどではないが、確かに生き物の温度だ。
「本当に……生きてるんですね。この船」
「うむ」
前を歩くツクヨミが、振り返らずに答える。
「ずっと、の」
通路の最奥で、視界が唐突に開けた。
ミナトは足を止めた。
巨大な半球状の空洞だった。その中央に設置された透明な筒の中心に、淡く光る塊が浮かんでいる。心臓、と呼ぶには静かで、星、と呼ぶにはあまりに小さい。
コクヨウのコアだ、と理屈より先に分かった。
そのコアを囲むように、いくつものコンソールが環状に並んでいる。
それは、軍艦の戦闘指揮所――CICを思わせた。
そして――半球の内壁が、すべて外の景色だった。
夜明け前の群青の空。白く煙る海面。三百六十度、頭上から足元まで、外部の光景が壁に映し出されている。立っている床の感触だけが頼りで、それ以外は自分が海と空のただ中に、剥き出しで浮いているとしか思えなかった。遠くの海上で、白く発光する怪物の影が、ゆっくりと旋回している。
「……ここ、外!?」
高い声が横から飛んできた。
朱音だった。ダスラに連れられて別の通路から、ほぼ同時に空洞へ入ってきたところだ。全周の光景を見上げ固まっている。
「ホログラム映像ですわ」
ダスラが平然と中へ歩く。
「壁の向こうはこの船で最も分厚い装甲。コクヨウの心臓を守る、いちばん固い殻の内側ですの。外がこう見えるだけで、ここが最も安全な場所です」
「最も安全な場所が、こんな、丸見えの……」
「無防備に見えても、鉄壁なのですわ」
その空洞には、見慣れたものがもう一つあった。
コアのすぐ脇。ツクヨミが視線を送ると、床が音もなく盛り上がり形を変える。
現れたのは――机と、椅子。そしてキーボードとモニター画面だった。
先進的な設備の中で、キーボードだけはミナトが三年間使い続けたものと、同じ配列の、見慣れた形のものだ。
「…………気が、利くな」
思わず呟くと、コアの光が一拍だけ、ふわりと強くなった。照れたように見えたのは、気のせいだと思うことにした。
朱音が目を丸くしている。
「なに、その机。ミナトさん、ここで何すんの」
ミナトは答えられなかった。代わりにツクヨミが静かに言う。
「ミナトは、この船の牙を解く。お主は、その牙を振るえ」
朱音は意味を半分も呑み込めない顔のまま、ダスラに導かれて環状のコンソールの一つに着いた。触れた瞬間、灰色の照準画面が、目の前の宙に立ち上がる。
「……ほんまにゲームのUIやん」
「申し上げた通りですわ」
ダスラが隣の席で言う。
「ですが――今はまだ、眠っております。武装の系統が、目を覚ましておりませんの」
照準画面は、確かに灰色のまま応えなかった。
そのときだった。
環状のコンソールの半分に、ぱっと灯りが戻った。死んでいた幾つかの系統が、一斉に息を吹き返す。
「……佐紺さんだ」
ミナトは呟いた。
暗い廊下の先で、あの男が配電盤を繋ぎ直したのだ。怪物も、誓約封も、糸も――何一つ理屈の通じないこの戦いの中で、佐紺だけが確かな手応えのある仕事をしている。その手応えが今、この部屋まで届いた。
離れていても、四人は同じ一つの戦いの、別々の場所を受け持っていた。
席につこうとしたミナトの肩に、後ろからそっと手が置かれた。
エティンだった。
「ミナト様。一つだけ」
穏やかな声のまま、エティンは言った。
「六日前、あなた様が倒れられたのは、誓約封の原文に、直接触れてしまったからです。この船の深層を流れる言葉は、人の言葉ではございません。翻訳なしに浴びれば、人の心は形を保てない」
エティンは、ミナトの肩へ置く手の位置を確かめるように、指先をわずかに動かした。
「私が触れているあいだ、あなた様の目に映るものは、ご存じの形へ訳されます。お書きになるものも、また同じです」
エティンの両手が肩の上で、静かに重さを増した。
「ですから――決して、離しません」
言葉より肩の手の確かさが、すべてを伝えていた。
ミナトが、ふと振り仰ぐ。
いつもは穏やかな青をたたえているエティンの瞳が今は、金色に変わっていた。内側から薄く灯る、溶けた金の光。ミナトと深く繋がっている、その証のように。
エティンは、何も言わずに微笑んだだけだった。
ミナトは席につき、深呼吸を一つして、誓約封に向き合った。
六日前と同じ、悲しいほど丁寧な織り目。その表面の、人の手の署名。
今度は、覚悟して触れた。
それでも奔流は来た。
陽射し。潮。漆黒の肌。流れ込む声、声、声――誰かの記憶が、堰を切ってなだれ込む。自分の輪郭が押し流されて薄く――
そうなる直前で踏みとどまった。肩に温かさがある。
濁流がその温かさを通った瞬間、形を変えた。咆哮のようだった声の群れが、整然とした構文に並び直していく。読めない紋様が見慣れたコードの形へ流れ込んでいく。
「……読める」
読めた。そしてそれは、美しかった。一万年以上前に編まれたとは思えない、無駄のない誠実な構造。編んだ人間の息遣いが行間から立ち上ってくるようだった。
「俺は、黒金ミナトだ」
念のため声に出す。肩の温かさと自分の名前。二つを錨にしてミナトは深部へ潜っていった。
すぐ後ろで朱音の声がした。
「……ちょっと。ミナトさん、顔色おかしない? 汗だくやん」
「触れないでくださいまし」
ダスラが低く制した。
「今、あの方は、人の身でこの船の最も深い場所を歩いておられます。声をかけても、もう聞こえておりませんわ」
朱音は息を呑んで、ミナトの背中を見た。
画面に何かを猛烈な速度で打ち込みながら、ミナトの肩は小刻みに震えている。そしてその肩を押さえるエティンの指先が――見るみるうちに血の気を失って白くなっていく。
「エティンさんの手も……」
「ええ」
ダスラの声が硬い。
「今、あの子がミナト様の代わりに原文の奔流を浴びておりますのよ。私たちには、見ていることしかできませんの」
朱音は唇を噛んだ。自分の照準系は、まだ眠っている。今この瞬間、戦っているのは目の前の二人だった。
流されながら読む。読みながら、進む。誓約封の織り目は幾重にもなっていて、その全部を解く必要はないと、読み進めるほどに分かってきた。これは一枚の壁ではない。何段にも仕切られた堰だ。編んだ誰かは、いつか少しずつ開けられる日のために、わざわざ段を刻んでおいた。
一段だけ。
一番外側の一段だけを、開ける。
その瞬間、全周映像が白く染まった。
怪物が放った光が海面を薙ぎ、コクヨウは巨体を横へひねって回避する。巨大な胸ビレが海を掴み、船体が急激に傾いた。
心臓部の床が大きく揺れる。
朱音がコンソールへしがみつき、ダスラがその身体を支えた。警告表示が赤く明滅し、外部映像の片隅で海面が爆発する。巻き上がった白い水蒸気が、一瞬、視界のすべてを覆った。
『敵目標、次弾の収束を開始』
エイルの平坦な声が室内へ響く。
『現在の損傷状態では、同規模の直撃に耐えられません』
時間がない。
だが、焦って誓約封を壊せば、何が起きるか分からない。
ミナトは荒くなりかけた呼吸を押さえ、もう一度、目の前の織り目へ意識を戻した。
最深部に近づくにつれ、奔流の圧力が増していく。肩の上の指先に、ぐっと力がこもるのを遠いところで感じた。
考える余裕はなかった。
ミナトは奔流に半身を浸したまま、最後の一行を確かめ――通した。
空洞の光が変わった。
コアの明滅が止まり、深く、強く、灯る。
船全体が――歓喜した。
そうとしか言いようのない震えが、床から、壁から、空気から伝わってくる。三百六十度の海と空が、その歓びに合わせてわずかに明るくなった気さえした。
そして朱音の目の前で。
灰色に眠っていた照準画面が、一斉に色を取り戻した。宙に生きた光が満ちる。
「……っ、生き返った!?」
朱音が画面に飛びついた。それから、弾かれたようにミナトを振り返る。
「今の、あんたがやったん!?」
ミナトは答えられない。ただ肩越しに、かすかに頷いた。
ツクヨミが目を閉じて、船の歓びを聴いていた。
そのときだった。
ツクヨミの首元で、鈍い音がした。
ずっと垂れたままだった鎖が――断たれた先を失って、それでも首輪から下がり続けていた、あのちぎられた鎖がその付け根から、ほろりと外れた。鉄の長い鎖が彼女の足元へ、重い音を立てて落ちる。
残ったのは、首輪だけだった。
「……鎖、取れた?」
朱音が、思わず声を上げた。
「あの、ずっとぶら下がっとった鎖……取れたやん、今!」
だがダスラの鋭い声が、それを遮った。
「朱音様。後です。――今は、前を」
言ったダスラの声が、ほんの少し震えていた。
朱音は気づかなかったが、ミナトは糸越しでなくとも分かった。叱ったダスラの方が誰よりも、その鎖から目を離せずにいる。
ツクヨミが自分の首元にそっと手をやる。鎖の重みが、消えていた。長いあいだ引きずってきたものが今、足元に転がっている。
その銀色の瞳が、わずかに見開かれた。何が起きたのか、自分でもすぐには呑み込めない、という顔だった。
「……第一段じゃ」
ようやく、そう呟く。
目を開け、ミナトを見た。
「上等じゃ、ミナト」
肩から、手の重さが離れた。
振り返るとエティンが一歩下がって、いつものように微笑んでいる。
「お見事でございます、ミナト様」
だがその額には汗が光り、支えてくれた手の指先は冷え切っていた。完璧に見えたこのメイドも、無傷ではなかったのだ。
ツクヨミが、エティンを一瞬だけ見る。エティンはほんのかすかに首を振った。
そのやり取りに気づいたのは、今度はミナトではなく――朱音だった。だが何かを言う前に、ダスラの鋭い声が飛んだ。
「朱音様! 来ますわ。目を、前へ」
全周のホログラムの中で、白く発光する怪物がこちらへ向き直っていた。
牙は、解かれた。
今度はこちらが撃つ番だった。