第一章 誰も帰さない
八
深層
発端は朱音の何気ない一言だった。
六日目の昼、遊技室のPCコーナーでゲームニュースを眺めていた朱音が、隣の席のミナトに言った。
「なあ、このパソコン、ネット見られるんやな。船の外とは通信できへんのとちゃうかった?」
ミナトは自分の画面から顔を上げた。
「正確には、直接ネットにつながっているわけじゃありません。外の公開情報をどこか別の場所で集めて、船内へ一方通行で送っているみたいです」
「どういうこと?」
「俺たちが見ているのは、外のサイトを船内に複製したものです。ここで検索したりページを開いたりしても、命令は船の中だけで処理される。外のサイトへは何も送られません」
「せやから書き込みも、ログインもできへんのか」
「はい。メールも送れません。発信すれば、この船の居場所を探られる危険がありますから」
「いつ調べたん?」
「この部屋を見つけた日に、一通り」
「なんで黙っとん」
「外へ何も送れないなら、緊急性はないと思ったので」
「そういうとこやで、ミナトさん」
朱音は、ゲームニュースに戻っていった。
ミナトは戻れなかった。
一つ気づいてしまうと、芋づる式に疑問が湧いてくるのがこの仕事の習い性だった。発信を塞ぎ受信を薄めているなら、その制御はどこでやっている。このPCと外の世界の間に何がいる。
ミナトは端末の設定を開き、船内の通信経路を調べ始めた。
PCから送られた要求は、すべて船内の中継装置で止まっている。そこまでは予想どおりだった。外部から届いた情報を保存し、船内向けに配信する仕組みなのだろう。
だが、中継装置の向こうに、説明のつかない応答があった。
通常なら、そこで経路は終わるはずだった。権限がない、接続先が存在しない、あるいは単に応答が返らない。
ところがミナトが調べるたび、存在しないはずの次の経路が一つずつ現れた。
隠されていたものを暴いているのではない。
向こうから、見つけやすい場所へ道が置かれている。
三十分後、ミナトは奇妙な領域の入口に立っていた。
このPCコーナーの機材はごく普通の市販品だ。中身も設定も何もかも標準的で行儀がいい。だがその行儀のいいネットワークの「向こう側」に――もう一つ別の領域がある。
例えるならホテルの廊下を歩いていて、館内図に載っていない廊下を見つけたようなものだった。それもちらりと覗いた限り、その廊下は本館より遥かに広い。
通信の応答に見たことのない形式が混じる。既存のどの規格とも違う。なのに出鱈目ではない。むしろ人間の作ったどんな規格よりも整然としている。
ミナトは佐紺の言葉を思い出した。
――将棋の駒で、完璧に理に適ったチェスを指されている。
「……これか」
配線で佐紺が見たものを、ミナトは今コードの形で見ていた。器の側だけが普通ではない。あの結論がここでも寸分違わず成り立っている。
◇
夕食の席でミナトはそのことを佐紺にだけ話した。
「あなたが言っていた配線の感覚、分かりましたよ。ソフトウェアの側も、同じでした」
「ほう」
「部品は人間のものなのに、使い方の流儀だけが、別の世界のものなんです」
「でしょうね」
佐紺は静かに頷いた。
「それで、黒金さんはそれを、覗くおつもりですか」
「……まずいですかね」
「まずいかどうかは、分かりません。ただ」
佐紺は箸を置いた。
「私が配線に触るときは、ニサバさんに申請して、許可を得ています。塞がれていない、ということと、入っていい、ということは、別ですので」
正論だった。
正論だったが――その夜、ミナトは遊技室のPCコーナーにいた。
覗くだけだ、と自分に言い訳をした。読むだけで何も触らない。
なのに今の自分は、誰にも頼まれず、誰の役にも立たず、咎められればこちらが悪い――そんな行為に手を伸ばしている。三年間、指示書の通りに動く機械だった自分が、ただ「確かめたい」という欲だけで動いている。怖いより先に少しだけ笑えた。
深夜のPCコーナーは静かだった。画面の光だけが暗い部屋に青白く落ちている。
ミナトは慎重に、地図にない廊下へ、一歩ずつ踏み込んでいった。
広かった。
広い、という言葉では足りなかった。覗けば覗くほどその領域は奥行きを増していく。整然とどこまでも、深く。人間の作るシステムなら必ずあるはずの継ぎ接ぎも、場当たりな修正の痕も、どこにもない。まるで――
まるで、一つの巨大な岩を、内側から削り出したような。
指が止まった。
あの感触だ。乗船した夜、岸壁から船を見上げたときの。客室の壁を叩いたときの、あの。継ぎ目のない、削り出された洞窟。あれは見た目だけの話ではなかった。この船は外も、内も、そしてこの目に見えぬ深層までも、隅々まで同じ一つのものでできている。
こちらから働きかけることもしない。そう決めていたはずだった。
だが、目の前に広がる構造がこちらを拒まず、静かに待っているように見えた。
ミナトは迷った末、最小限の確認信号を一つだけ送った。
ノックのようなものだ。応答があるかどうかを確かめるだけ。
何も触らないという自分との約束を、すでに破っていることには気づいていた。
応答は、あった。
即座に、正確に、そして――丁寧に。
ミナトは画面を見つめたまま、動けなくなった。
機械の自動応答ではない。何と言えばいいのか、応答が「賢すぎる」のだ。ミナトの拙いノックから意図を汲み取り、過不足なく、まるで気を遣うように返してくる。
覗いているつもりだった。
覗き返されている。
ミナトはそっと端末から手を離した。心臓の音が静かな部屋にやけに大きく聞こえる。
画面の向こうの広大な闇は、ただ静かに、こちらの次のノックを待っているように見えた。
◇
翌晩もミナトはPCコーナーにいた。
怖くなかったと言えば嘘になる。だがそれ以上に確かめずにいられなかった。一度気になった謎を放置できない性分は、職を失っても治らなかった。いや、職を失った今の方がその性分はむしろ自由に動いていた。守るべき立場も、失う肩書きも、もう何もないのだから。
その次の晩も。さらに次の晩も。
ミナトは少しずつ、闇の中の構造を読み進めていった。向こうは拒まなかった。それどころか、ミナトが道に迷うとさりげなく道標が増えていることがあった。気のせいだと思おうとしたが、三度続けば気のせいではなかった。
案内されている。
そう確信した夜――部屋の隅の暗がりで声がした。
「熱心じゃの」
ミナトは椅子から飛び上がりかけた。
窓際の椅子にツクヨミが座っていた。月明かりが髪の輪郭だけを白く浮かび上がらせている。いつからいたのか、まるで分からなかった。
「い……いつから」
「お主が来る前からじゃ」
「…………すみません。勝手に、その、覗いて」
言い訳が見つからなかった。佐紺の正論が頭をよぎる。塞がれていないことと、入っていいことは別だ。
だがツクヨミは咎めなかった。
「構わぬ」
「……いいんですか」
「わしが、嫌がっておらぬからの」
ミナトは画面を振り返った。
「……あなたが? でも、俺が覗いてるのは、この船の中身で」
「うむ。――わしが、この船じゃ」
ツクヨミは窓の外の月を見たまま、あっさりと言った。
「正確には、わしはこの船の意思そのものじゃ。この身体は、人間と話すために、船体の一部を人の形に切り出して作ったもの」
「人間と、話すために?」
「昔、わしの声を初めて聞いた者がおった」
ツクヨミの指が、首輪から垂れた鎖へ触れた。
「それまでのわしは、考えることも、苦しむこともできた。じゃが、それを誰にも伝えられなんだ。そこで、その者と同じように言葉を交わすため、この姿を作ったのじゃ」
「じゃあ、この身体と船は……」
「離れて見えるだけで、一つじゃ。わしが感じることは船も感じる。船が受けた傷は、この身体にも現れる」
とんでもないことを、世間話のように言われた気がした。
だがミナトの頭の中では、ばらばらだった断片が、音を立てて一つに収まっていくところだった。継ぎ目のない船。一晩で治る傷。我々のために用意された整いすぎた設備。そして――数日前、ラウンジの空気そのものが、八代の形に発光したこと。
「あの光も」
ミナトは呟いた。
「八代さんを、光で映したのも」
「わしじゃ。船が受け取った報せを、わしが形にして見せた」
答えになっていた。この数日で積み重なった、いくつもの不可解が一つの答えでつながった。
「道標、増えておったろう」
「……気づいてたんですか」
「置いたのは、わしじゃ。――いや、正しくは、わしの意識より深いところ、じゃの。人で言えば、考えるより先に手が動く、あの深さじゃ」
ミナトはもう一度画面を見た。
青白い光の向こうの、広大で、整然とした、深い闇。
あの全部が、目の前の小さな少女だという。
その考えはあまりにも荒唐無稽で――なのにこの数日の体験のすべてと、綺麗に辻褄が合ってしまった。
「なんで、俺なんですか」
「分からぬ」
ツクヨミは正直に答えた。
「わしの深いところが、なぜお主にだけ道を開くのか。わし自身にも分からぬのじゃ」
ツクヨミは、自分の胸へ手を当てた。
「一つであることと、隅々まで見通せることは、別物じゃ。お主らとて、己の心の底までは覗けぬじゃろう。……わしにも、わしの底は、見えぬ」
ツクヨミは一度、画面へ目を向けた。
「船に残された記録では、この深層が作られたのはおよそ一万三千年前。それ以降、ここへ他者を招き入れた記録は一度もない」
ツクヨミは画面の奥へ視線を向けた。
「わしには、その頃の記憶がない。じゃが――お主が初めてであることだけは、記録から分かる」
一万三千年という言葉が、さらりと放り込まれた。ミナトはその数字を、自分の尺度のどこにも置けなかった。
文明の歴史をはるかに超える時間、誰にも開かなかった扉が、なぜか自分にだけ開いている。その事実の重さを受け止めることができない。
「好きに歩くがよい。じゃが――」
ツクヨミが立ち上がる。扉の前で、一度だけ振り返った。
「奥に、誰にも開けられぬ場所がある。鍵がかかっておるのではない。封が施されておるのじゃ。そこだけは、無理にこじ開けようとするでないぞ」
「……何を封じているんですか」
「分からぬ」
ツクヨミは静かに答えた。
「わしには、その封が作られた頃の記憶がない。じゃが、近づけば分かる。あれは敵を閉じ込めるためのものではない」
「では、何のために」
ツクヨミは少しだけ目を伏せた。
「誰かを守るために交わされた、古い約束。……そのような感触がするのじゃ」
それだけ言って、ツクヨミは闇に溶けるように出ていった。
◇
開けようとするな、と言われた扉ほど、気になるものはない。
だが、好奇心だけで近づいたわけではなかった。
封を避けて別の系統を調べても、やがて同じ場所へ戻ってくる。通信も、船内設備も、航行を支える正体不明の系統も、根を辿ればすべてがそこへ収束していた。
封は船の一部にあるのではない。
封を中心に、この船のすべてが組み上がっている。
それを理解した時点で、完全に見ないまま探索を続けることはできなくなっていた。
この船のすべては、最初からこの一点へ向かって編まれていたのだ。立入禁止の階段のずっと奥。底から何かがこちらを見上げている気がした、あの場所へ。
近づくだけだ。読むだけで、開けない。
九日目の深夜、ミナトはその境界に立った。
画面の向こうのそれは確かに「封」としか言いようのないものだった。鍵なら解き方がある。これは違う。何重にも織り込まれた構造の全体が一つの意思のように「ここから先へは行かせない」と告げている。なのにその織り目は攻撃的ではなかった。むしろ悲しいほど丁寧だった。閉じ込めるためではなく守るために編まれたものだと、理屈より先に感触で分かった。
そしてその織り目の表面に、署名のようなものがあった。
読めない古い形式だった。だが、この船の整然とした流儀とは明らかに違う。線の重なり方に迷いがあり、修正の痕があり、それでも最後まで書き切ろうとした意思が残っている。
人の手によるものだ。
なぜそう分かるのか、ミナト自身にも分からなかった。
ただ、見た瞬間に知っていた。
ミナトの指が確かめるように、その署名の構造に触れた。
読むだけだ。開けない。ただ、誰が書いたのかを――
瞬間。
視界が、白く灼けた。
――強い陽射し。
潮の匂い。今のものより、ずっと濃い。
目の前に黒い壁がある。違う。壁ではない。見上げても見上げても終わらない、漆黒の巨大な何かの、肌だ。
その肌に、誰かの手が触れている。大きな、傷だらけの、けれど優しい手のひら。自分の手ではない。なのにその手の感触が、自分のものとして分かる。
声がする。知らない言葉だ。知らない言葉なのに、意味だけが直接流れ込んでくる。
――これでいい。
――これでもう、お前は誰も傷つけなくていい。
――お前は、ずっとそれを望んでいたのだろう。
応えるように世界が震えた。漆黒の肌の奥から、音にならない何かが溢れてくる。それは歓喜だった。泣き出しそうなほどの、痛いほどの、安堵と歓喜。人のものではない、けれど人よりも深い――
誰かが、笑った。
振り返った視界の端で、銀色が揺れて――
「――ミナト! ミナト!」
誰かが、自分を呼んでいる。
ミナトは、床に倒れていた。いつ椅子から落ちたのか、記憶がない。天井の照明が視界の中で滲んで揺れている。
長い銀色の髪が視界を覆った。
ツクヨミが、ミナトを覗き込んでいた。
いつもは背筋をまっすぐにしている少女が、床へ膝をついて身を乗り出している。いつも凪いでいる銀色の瞳が見開かれ揺れていた。
「しっかりせい。わしが分かるか」
伸ばされた手が、ミナトの頬のすぐそばで一瞬止まった。触れていいのかどうか迷っているような、わずかなためらい。それから、そっとミナトの額に手を置いた。その指先が微かに震えているのが分かった。
「……ツク、ヨミ」
声がうまく出ない。全身が長距離を走り終えた後のように重い。
頭の中ではまだ残像が燃えていた。強い陽射し。漆黒の肌。傷だらけの手。流れ込んできた、誰かの――誰のものかも分からない記憶。
「俺……今、何を」
見ていたんだ、と言いかけて言葉が続かなかった。
ツクヨミはミナトの顔を覗き込んだまま動かなかった。唇がわずかに開き、また閉じる。何度か、言葉を探しているように見えた。いつもなら迷いなく紡がれる声が、今は見つからないのだ。
やがて誰に言うともなく、小さく呟いた。
「……誓約封に、呼ばれたか」
その声にはこれまで聞いたことのない種類の、静かな動揺がにじんでいた。
ツクヨミが顔を上げた。
「ダスラ。エティン」
大声ではなかった。だが呼びかけとほとんど同時に扉が開き、二人が駆け込んできた。
「ミナト様」
ダスラが床に膝をつき、ミナトの瞳と呼吸を確かめる。エティンは反対側から身体を支えた。
「意識はございますわね。医務室へ運びます」
立ち上がろうとしたが、脚に力が入らなかった。ミナトは二人に支えられ、PCコーナーを出た。
医務室へ運ばれていくあいだ、ミナトは妙な感覚と格闘していた。
頭の芯に、細い糸が一本、残っている。
封に触れた指先から逆流してきた何かが、抜けきらずに居座っていた。繋ぎっぱなしの線のように。
目を閉じると、それは足の裏から伝わってくる。船が水を裂く、滑らかな手応え。遠い船尾の奥で、巨大な何かが低く脈打っている。昨日まで、ただの一度も感じなかったものだ。
誰にも言わなかった。口にした途端、本物になる気がした。
運ばれていく天井の奥で、巨大な船が、ゆっくりと呼吸している。