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第一章 誰も帰さない

深層

発端は朱音の何気ない一言だった。

六日目の昼、遊技室のPCコーナーでゲームニュースを眺めていた朱音が、隣の席のミナトに言った。

「なあ、このパソコン、ネット見られるんやな。船の外とは通信できへんのとちゃうかった?」

ミナトは自分の画面から顔を上げた。

「正確には、直接ネットにつながっているわけじゃありません。外の公開情報をどこか別の場所で集めて、船内へ一方通行で送っているみたいです」

「どういうこと?」

「俺たちが見ているのは、外のサイトを船内に複製したものです。ここで検索したりページを開いたりしても、命令は船の中だけで処理される。外のサイトへは何も送られません」

「せやから書き込みも、ログインもできへんのか」

「はい。メールも送れません。発信すれば、この船の居場所を探られる危険がありますから」

「いつ調べたん?」

「この部屋を見つけた日に、一通り」

「なんで黙っとん」

「外へ何も送れないなら、緊急性はないと思ったので」

「そういうとこやで、ミナトさん」

朱音は、ゲームニュースに戻っていった。

ミナトは戻れなかった。

一つ気づいてしまうと、芋づる式に疑問が湧いてくるのがこの仕事の習い性だった。発信を塞ぎ受信を薄めているなら、その制御はどこでやっている。このPCと外の世界の間に何がいる。

ミナトは端末の設定を開き、船内の通信経路を調べ始めた。

PCから送られた要求は、すべて船内の中継装置で止まっている。そこまでは予想どおりだった。外部から届いた情報を保存し、船内向けに配信する仕組みなのだろう。

だが、中継装置の向こうに、説明のつかない応答があった。

通常なら、そこで経路は終わるはずだった。権限がない、接続先が存在しない、あるいは単に応答が返らない。

ところがミナトが調べるたび、存在しないはずの次の経路が一つずつ現れた。

隠されていたものを暴いているのではない。

向こうから、見つけやすい場所へ道が置かれている。

三十分後、ミナトは奇妙な領域の入口に立っていた。

このPCコーナーの機材はごく普通の市販品だ。中身も設定も何もかも標準的で行儀がいい。だがその行儀のいいネットワークの「向こう側」に――もう一つ別の領域がある。

例えるならホテルの廊下を歩いていて、館内図に載っていない廊下を見つけたようなものだった。それもちらりと覗いた限り、その廊下は本館より遥かに広い。

通信の応答に見たことのない形式が混じる。既存のどの規格とも違う。なのに出鱈目ではない。むしろ人間の作ったどんな規格よりも整然としている。

ミナトは佐紺の言葉を思い出した。

――将棋の駒で、完璧に理に適ったチェスを指されている。

「……これか」

配線で佐紺が見たものを、ミナトは今コードの形で見ていた。器の側だけが普通ではない。あの結論がここでも寸分違わず成り立っている。

夕食の席でミナトはそのことを佐紺にだけ話した。

「あなたが言っていた配線の感覚、分かりましたよ。ソフトウェアの側も、同じでした」

「ほう」

「部品は人間のものなのに、使い方の流儀だけが、別の世界のものなんです」

「でしょうね」

佐紺は静かに頷いた。

「それで、黒金さんはそれを、覗くおつもりですか」

「……まずいですかね」

「まずいかどうかは、分かりません。ただ」

佐紺は箸を置いた。

「私が配線に触るときは、ニサバさんに申請して、許可を得ています。塞がれていない、ということと、入っていい、ということは、別ですので」

正論だった。

正論だったが――その夜、ミナトは遊技室のPCコーナーにいた。

覗くだけだ、と自分に言い訳をした。読むだけで何も触らない。

なのに今の自分は、誰にも頼まれず、誰の役にも立たず、咎められればこちらが悪い――そんな行為に手を伸ばしている。三年間、指示書の通りに動く機械だった自分が、ただ「確かめたい」という欲だけで動いている。怖いより先に少しだけ笑えた。

深夜のPCコーナーは静かだった。画面の光だけが暗い部屋に青白く落ちている。

ミナトは慎重に、地図にない廊下へ、一歩ずつ踏み込んでいった。

広かった。

広い、という言葉では足りなかった。覗けば覗くほどその領域は奥行きを増していく。整然とどこまでも、深く。人間の作るシステムなら必ずあるはずの継ぎ接ぎも、場当たりな修正の痕も、どこにもない。まるで――

まるで、一つの巨大な岩を、内側から削り出したような。

指が止まった。

あの感触だ。乗船した夜、岸壁から船を見上げたときの。客室の壁を叩いたときの、あの。継ぎ目のない、削り出された洞窟。あれは見た目だけの話ではなかった。この船は外も、内も、そしてこの目に見えぬ深層までも、隅々まで同じ一つのものでできている。

こちらから働きかけることもしない。そう決めていたはずだった。

だが、目の前に広がる構造がこちらを拒まず、静かに待っているように見えた。

ミナトは迷った末、最小限の確認信号を一つだけ送った。

ノックのようなものだ。応答があるかどうかを確かめるだけ。

何も触らないという自分との約束を、すでに破っていることには気づいていた。

応答は、あった。

即座に、正確に、そして――丁寧に。

ミナトは画面を見つめたまま、動けなくなった。

機械の自動応答ではない。何と言えばいいのか、応答が「賢すぎる」のだ。ミナトの拙いノックから意図を汲み取り、過不足なく、まるで気を遣うように返してくる。

覗いているつもりだった。

覗き返されている。

ミナトはそっと端末から手を離した。心臓の音が静かな部屋にやけに大きく聞こえる。

画面の向こうの広大な闇は、ただ静かに、こちらの次のノックを待っているように見えた。

翌晩もミナトはPCコーナーにいた。

怖くなかったと言えば嘘になる。だがそれ以上に確かめずにいられなかった。一度気になった謎を放置できない性分は、職を失っても治らなかった。いや、職を失った今の方がその性分はむしろ自由に動いていた。守るべき立場も、失う肩書きも、もう何もないのだから。

その次の晩も。さらに次の晩も。

ミナトは少しずつ、闇の中の構造を読み進めていった。向こうは拒まなかった。それどころか、ミナトが道に迷うとさりげなく道標が増えていることがあった。気のせいだと思おうとしたが、三度続けば気のせいではなかった。

案内されている。

そう確信した夜――部屋の隅の暗がりで声がした。

「熱心じゃの」

ミナトは椅子から飛び上がりかけた。

窓際の椅子にツクヨミが座っていた。月明かりが髪の輪郭だけを白く浮かび上がらせている。いつからいたのか、まるで分からなかった。

「い……いつから」

「お主が来る前からじゃ」

「…………すみません。勝手に、その、覗いて」

言い訳が見つからなかった。佐紺の正論が頭をよぎる。塞がれていないことと、入っていいことは別だ。

だがツクヨミは咎めなかった。

「構わぬ」

「……いいんですか」

「わしが、嫌がっておらぬからの」

ミナトは画面を振り返った。

「……あなたが? でも、俺が覗いてるのは、この船の中身で」

「うむ。――わしが、この船じゃ」

ツクヨミは窓の外の月を見たまま、あっさりと言った。

「正確には、わしはこの船の意思そのものじゃ。この身体は、人間と話すために、船体の一部を人の形に切り出して作ったもの」

「人間と、話すために?」

「昔、わしの声を初めて聞いた者がおった」

ツクヨミの指が、首輪から垂れた鎖へ触れた。

「それまでのわしは、考えることも、苦しむこともできた。じゃが、それを誰にも伝えられなんだ。そこで、その者と同じように言葉を交わすため、この姿を作ったのじゃ」

「じゃあ、この身体と船は……」

「離れて見えるだけで、一つじゃ。わしが感じることは船も感じる。船が受けた傷は、この身体にも現れる」

とんでもないことを、世間話のように言われた気がした。

だがミナトの頭の中では、ばらばらだった断片が、音を立てて一つに収まっていくところだった。継ぎ目のない船。一晩で治る傷。我々のために用意された整いすぎた設備。そして――数日前、ラウンジの空気そのものが、八代の形に発光したこと。

「あの光も」

ミナトは呟いた。

「八代さんを、光で映したのも」

「わしじゃ。船が受け取った報せを、わしが形にして見せた」

答えになっていた。この数日で積み重なった、いくつもの不可解が一つの答えでつながった。

「道標、増えておったろう」

「……気づいてたんですか」

「置いたのは、わしじゃ。――いや、正しくは、わしの意識より深いところ、じゃの。人で言えば、考えるより先に手が動く、あの深さじゃ」

ミナトはもう一度画面を見た。

青白い光の向こうの、広大で、整然とした、深い闇。

あの全部が、目の前の小さな少女だという。

その考えはあまりにも荒唐無稽で――なのにこの数日の体験のすべてと、綺麗に辻褄が合ってしまった。

「なんで、俺なんですか」

「分からぬ」

ツクヨミは正直に答えた。

「わしの深いところが、なぜお主にだけ道を開くのか。わし自身にも分からぬのじゃ」

ツクヨミは、自分の胸へ手を当てた。

「一つであることと、隅々まで見通せることは、別物じゃ。お主らとて、己の心の底までは覗けぬじゃろう。……わしにも、わしの底は、見えぬ」

ツクヨミは一度、画面へ目を向けた。

「船に残された記録では、この深層が作られたのはおよそ一万三千年前。それ以降、ここへ他者を招き入れた記録は一度もない」

ツクヨミは画面の奥へ視線を向けた。

「わしには、その頃の記憶がない。じゃが――お主が初めてであることだけは、記録から分かる」

一万三千年という言葉が、さらりと放り込まれた。ミナトはその数字を、自分の尺度のどこにも置けなかった。

文明の歴史をはるかに超える時間、誰にも開かなかった扉が、なぜか自分にだけ開いている。その事実の重さを受け止めることができない。

「好きに歩くがよい。じゃが――」

ツクヨミが立ち上がる。扉の前で、一度だけ振り返った。

「奥に、誰にも開けられぬ場所がある。鍵がかかっておるのではない。封が施されておるのじゃ。そこだけは、無理にこじ開けようとするでないぞ」

「……何を封じているんですか」

「分からぬ」

ツクヨミは静かに答えた。

「わしには、その封が作られた頃の記憶がない。じゃが、近づけば分かる。あれは敵を閉じ込めるためのものではない」

「では、何のために」

ツクヨミは少しだけ目を伏せた。

「誰かを守るために交わされた、古い約束。……そのような感触がするのじゃ」

それだけ言って、ツクヨミは闇に溶けるように出ていった。

開けようとするな、と言われた扉ほど、気になるものはない。

だが、好奇心だけで近づいたわけではなかった。

封を避けて別の系統を調べても、やがて同じ場所へ戻ってくる。通信も、船内設備も、航行を支える正体不明の系統も、根を辿ればすべてがそこへ収束していた。

封は船の一部にあるのではない。

封を中心に、この船のすべてが組み上がっている。

それを理解した時点で、完全に見ないまま探索を続けることはできなくなっていた。

この船のすべては、最初からこの一点へ向かって編まれていたのだ。立入禁止の階段のずっと奥。底から何かがこちらを見上げている気がした、あの場所へ。

近づくだけだ。読むだけで、開けない。

九日目の深夜、ミナトはその境界に立った。

画面の向こうのそれは確かに「封」としか言いようのないものだった。鍵なら解き方がある。これは違う。何重にも織り込まれた構造の全体が一つの意思のように「ここから先へは行かせない」と告げている。なのにその織り目は攻撃的ではなかった。むしろ悲しいほど丁寧だった。閉じ込めるためではなく守るために編まれたものだと、理屈より先に感触で分かった。

そしてその織り目の表面に、署名のようなものがあった。

読めない古い形式だった。だが、この船の整然とした流儀とは明らかに違う。線の重なり方に迷いがあり、修正の痕があり、それでも最後まで書き切ろうとした意思が残っている。

人の手によるものだ。

なぜそう分かるのか、ミナト自身にも分からなかった。

ただ、見た瞬間に知っていた。

ミナトの指が確かめるように、その署名の構造に触れた。

読むだけだ。開けない。ただ、誰が書いたのかを――

瞬間。

視界が、白く灼けた。

――強い陽射し。

潮の匂い。今のものより、ずっと濃い。

目の前に黒い壁がある。違う。壁ではない。見上げても見上げても終わらない、漆黒の巨大な何かの、肌だ。

その肌に、誰かの手が触れている。大きな、傷だらけの、けれど優しい手のひら。自分の手ではない。なのにその手の感触が、自分のものとして分かる。

声がする。知らない言葉だ。知らない言葉なのに、意味だけが直接流れ込んでくる。

――これでいい。

――これでもう、お前は誰も傷つけなくていい。

――お前は、ずっとそれを望んでいたのだろう。

応えるように世界が震えた。漆黒の肌の奥から、音にならない何かが溢れてくる。それは歓喜だった。泣き出しそうなほどの、痛いほどの、安堵と歓喜。人のものではない、けれど人よりも深い――

誰かが、笑った。

振り返った視界の端で、銀色が揺れて――

「――ミナト! ミナト!」

誰かが、自分を呼んでいる。

ミナトは、床に倒れていた。いつ椅子から落ちたのか、記憶がない。天井の照明が視界の中で滲んで揺れている。

長い銀色の髪が視界を覆った。

ツクヨミが、ミナトを覗き込んでいた。

いつもは背筋をまっすぐにしている少女が、床へ膝をついて身を乗り出している。いつも凪いでいる銀色の瞳が見開かれ揺れていた。

「しっかりせい。わしが分かるか」

伸ばされた手が、ミナトの頬のすぐそばで一瞬止まった。触れていいのかどうか迷っているような、わずかなためらい。それから、そっとミナトの額に手を置いた。その指先が微かに震えているのが分かった。

「……ツク、ヨミ」

声がうまく出ない。全身が長距離を走り終えた後のように重い。

頭の中ではまだ残像が燃えていた。強い陽射し。漆黒の肌。傷だらけの手。流れ込んできた、誰かの――誰のものかも分からない記憶。

「俺……今、何を」

見ていたんだ、と言いかけて言葉が続かなかった。

ツクヨミはミナトの顔を覗き込んだまま動かなかった。唇がわずかに開き、また閉じる。何度か、言葉を探しているように見えた。いつもなら迷いなく紡がれる声が、今は見つからないのだ。

やがて誰に言うともなく、小さく呟いた。

「……誓約封に、呼ばれたか」

その声にはこれまで聞いたことのない種類の、静かな動揺がにじんでいた。

ツクヨミが顔を上げた。

「ダスラ。エティン」

大声ではなかった。だが呼びかけとほとんど同時に扉が開き、二人が駆け込んできた。

「ミナト様」

ダスラが床に膝をつき、ミナトの瞳と呼吸を確かめる。エティンは反対側から身体を支えた。

「意識はございますわね。医務室へ運びます」

立ち上がろうとしたが、脚に力が入らなかった。ミナトは二人に支えられ、PCコーナーを出た。

医務室へ運ばれていくあいだ、ミナトは妙な感覚と格闘していた。

頭の芯に、細い糸が一本、残っている。

封に触れた指先から逆流してきた何かが、抜けきらずに居座っていた。繋ぎっぱなしの線のように。

目を閉じると、それは足の裏から伝わってくる。船が水を裂く、滑らかな手応え。遠い船尾の奥で、巨大な何かが低く脈打っている。昨日まで、ただの一度も感じなかったものだ。

誰にも言わなかった。口にした途端、本物になる気がした。

運ばれていく天井の奥で、巨大な船が、ゆっくりと呼吸している。