第一章 誰も帰さない
六
航路
三日目の朝、ラウンジに三人が呼ばれた。
エティンが昨日と同じ位置に控えている。だが今朝は少しだけ様子が違った。
「八代様から、報せが届いております」
「八代?」
朱音が首を傾げた。
「誰やそれ」
「俺を迎えに来た人です」
ミナトが言った。
「ああ……あんたの担当さんか」
朱音は気のない相槌を打った。
「うちのはな、えらい事務的なおばさんやったわ。学校帰りに呼び止められてん。――九十九財団の者です、お父様のご容態のことでお話が。ご一緒いただけますか、て」
朱音は、そこで両手に顔を埋めた。
「親の容態や言われたら、頭ん中それだけになるやん。乗ってから思うたわ。名刺も寄越さへん。名前も名乗らへん。行き先も言わへん。……今どき小学生でも引っかからんやつに、うちはまんまと乗ってしもたんや」
「……仕方ないですよ」
ミナトは静かに言った。
「一番効く鍵を、向こうは最初から知ってたんです」
「私のところへ来たのは、鵜飼と名乗る男性でした」と佐紺。
「鵜飼?」
朱音が首を傾げる。
「ええ。五十前後の無口な方です。黒いコートを着ておられて、必要なこと以外はほとんど何も仰いませんでした。車へ案内され乗るよう促され、それだけです」
「それ、めっちゃ怖いやつやん」
「怖い、というより……現場の段取りをよく分かっている方、という印象でした。こちらが工具箱を持っていくと言ったときも、理由を聞かずにただ頷いてくれました」
佐紺は膝の上の工具箱に手を置いた。
「その点では、ありがたかったですね」
三人とも別々の誰かに連れてこられていた。ミナトのところへ来たのがたまたま八代だった。それだけのことだ。朱音も佐紺も、その名前にそれ以上の関心は払わなかった。
「八代様は陸においでです。この船へは上がられません」
エティンが知らない二人へ向けて言い添える。
「陸と海の間に立つ、そういうお役目ですので。船の外から報せだけを送ってこられます。――こちらからすぐにお返事はできません。これは一昨日の夜に送られたものです」
ミナトは黙って頷いた。船には上がらないという話は、乗船の夜にタラップの手前で本人の口から聞かされている。二人には初耳でも自分には確認にすぎなかった。
「数日前って……ビデオ録画ってこと?」
朱音が言う。
「いいえ、映像記録ではございますが、人間社会のビデオ映像とは少し異なります」
エティンがラウンジの中央へ目をやった。
次の瞬間、何もない空間に光が滲んだ。
粒子のような細かな光が、床から立ち昇るように渦を巻き、人の輪郭を編んでいく。スーツの肩。きっちり結ばれた――いや、わずかに緩んだネクタイ。組まれた両手。数秒のうちに、半ば透けた人影が立っていた。淡く発光している。
「な……なんで人が、光ってんの!?」
朱音が椅子ごと飛び退いた。
ミナトはその像を見上げた。間違いない。あの夜、燃えるトラックの前で八代と名乗ったあの男だ。だが投影機はない。スクリーンもない。光が当たって像を結んでいるのではなく、空気そのものが八代の形に発光している。乗船してから見てきたこの船の、どの「普通でなさ」とも地続きの現象だった。
光の八代が口を開いた。声にはわずかにノイズが混じっている。
『皆さん。陸の側の処理についてご報告します』
朱音がおそるおそる手を振ってみる。光の八代はまるで気づかない。三人の誰とも目を合わせず、虚空の一点を見たまま淡々と続けた。
「……こっち、見ぃひんね」
「一昨日の八代さんですからね」
ミナトは、こちらを見ない光の横顔を見上げた。
「今の俺たちのことは、見えていない」
その当たり前の事実が奇妙に寒々しかった。目の前に立っているのに、この八代はここにはいない。
『早川朱音さん』
光の八代が言うと、その傍らの空中に別の光が像を結んだ。
朱音が息を呑んだ。
車椅子の男性だった。療養施設の庭らしい場所で、冬の陽を浴びている。光でできた立体の写真。
『あなたは九十九財団の特別奨学プログラムで、海外研修中ということになっています。学校にも、ご親戚の方にも説明済みです。――こちらはお父様の、つい先日のご様子です。容体は安定しておられます。先週から車椅子で庭に出られるようになったと』
朱音が立ち上がっていた。
光の父へ、手を伸ばす。指先が像に触れるとそこだけ淡く波紋が走り、父の輪郭が揺れてまた戻った。触れられない。掴めない。それでも朱音は、しばらく手を引っ込めなかった。
「……お父さん」
声が掠れていた。ミナトには、感謝と警戒のどちらを信じればよいのか迷っているように見えた。それでも、光の中の父の、冬の陽を浴びた横顔から目を離せずにいた。
光の像がすっと消えた。
朱音の手が何もなくなった空間を一瞬握った。それからゆっくりと下ろし椅子に座った。
膝の上でその手の甲に、ぽたりと雫が落ちた。朱音はそれを拭わなかった。ただ濡れた手の甲をじっと見ていた。
『西園寺佐紺さん。あなたは財団関連会社の指名で、洋上設備の電気工事に長期出張中、ということにしてあります』
佐紺が律儀に光の八代へ向き直った。
「事実ですね、半分ほどは。――現にこの船の配線を直したく思っています。申請窓口を教えていただけますか」
光の八代は答えない。当然のように次の言葉を続けた。
『おそらく西園寺さんは、船の配線に手を入れたいと仰るでしょう。許可は取ってあります。窓口は追ってお伝えします』
佐紺の眉がわずかに上がった。
「……先回りされましたね」
「録画やのに、会話成立しとるやん」と朱音。
「いえ」
佐紺は光の八代を見たまま言った。
「会話ではありません。この人は私が何を言うのかを、一昨日の時点で正確に見抜いていた。それだけです」
その指摘にミナトは小さく引っかかった。先回り。この男は、三人が口を開く前に、三人が何を言うかを知っている。
『黒金ミナトさん。あなたの場合は――』
光の八代の言葉が、わずかに切れた。
録画のはずのその一瞬の間が、妙に長く感じられた。
『工作は、ほとんど必要ありません。職を失い、あなたの不在に気づく者も、いない』
淡々とした事実だった。ミナトは自分でそう思って生きてきた。誰も自分を捜さない、と。
だが今はその言葉が口にされるたび、裏で小さく軋むものがある。一昨夜、炎の中の背中は確かに言ったのだ。みつけた、と。誰にも捜されていないはずの自分を、誰かが長いあいだ捜していた。
『……ただ、一つ』
光の八代の目が初めて虚空からわずかに動いた。一昨日のレンズ越しに、今のミナトのいる方角を偶然に近い角度で見た――気がした。
『あなたの契約打ち切りの経緯を、調べさせています。外部攻撃でシステム障害が発生し、その責任を負わされて切られた。――順序が、おかしい。障害の規模に対して、責任の押し付け方が早すぎる。まるで、最初からあなたを切る筋書きが用意されていて、その口実を待っていたかのようだ』
光の八代の右手が、緩んだネクタイの結び目へ伸びた。締め直すように、指がそこで一度動く。録画の中でさえ出てしまう、この男の癖だった。
『攻撃の手口も、洗練されすぎている。あれは素人の悪戯でも、よくあるサイバー犯罪の手口でもない。心当たりが無いわけでは――』
言葉が途切れた。
言いかけてやめた一言が誰にも問い返せないまま、淡く発光する空気の中にぽつんと取り残された。
数秒の沈黙のあと、光の八代は何事もなかったように続けた。
『……確証を得てから、お伝えします。以上です。皆さんの、ご無事を』
言い終えると、八代の像は立ち昇ったときと逆の順序で、足元から光の粒子へ解けていった。
最後に消えたのは、緩んだネクタイの結び目だった。
ラウンジに静寂が戻る。
ミナトは八代が立っていた空間を見ていた。
自分の経歴をここまで掘る理由が分からなかった。穏当な処理と言いながら、この男はミナトの過去を必要以上に丁寧に辿っている。まるでミナト自身より先に、ミナトの身に何が起きたのかを知りたがっているように。
そして最後の「心当たりが、無いわけでは――」は、何だったのか。
知っていることをまだ言うべきではないと判断した。あるいは言ってはならないと。録画の中でさえ飲み込んだその一言がかえって重く残った。
あの人は自分たちに何かを伝えるために光を送ってきた。それと同じくらい、何かを伝えないために送ってきた気がした。
遠い陸に独りいて、船には上がらず、光だけを寄越す男。陸と海の間に立つただ一人の人間。その立ち位置は味方の席にも、それ以外の席にも等しく近かった。
◇
午後、三人はツクヨミに呼ばれ甲板に出た。
三人揃って外へ出るのは、乗船してから初めてだった。
十二月の外洋なら、刺すような冷たい風が吹きつけるはずだった。ところが、甲板の上は不思議なほど穏やかだった。
佐紺が手すりの外へ片手を差し出す。
その瞬間、袖と髪が強く煽られた。だが、腕を甲板側へ戻すと、風は嘘のように弱まった。
「……甲板の縁に沿って、上向きの気流が流れていますね」
佐紺は、空気の境目を確かめるように、何度か手を出し入れした。
「外から吹き込む風を、別の風で上へ逃がしている。エアカーテンのようなものでしょうか」
舳先に近い甲板にツクヨミが立っていた。黒いワンピースの裾と銀色の髪が、ないはずの風で揺れている。裸足の足元で漆黒の甲板が冬の陽を吸い込んでいた。
「うむ」
ツクヨミは、さも当然のように頷いた。
「人間は、強い風に当たり続けると体温を奪われるであろう。甲板へ出るたび凍えておっては、落ち着いて海も見られぬからの」
その向こうには、見渡す限りの海が広がっていた。船はとうに、陸地の見えない海域まで来ている。
「これからのことを話しておこうと思うての」
三人は手すりの前に並んだ。
「この船は今、太平洋の真ん中へ向かっておる。人の目の届かぬ海域じゃ」
「人の目って……こんなでかい船、衛星とかレーダーとかですぐ見つかるんちゃうの」
朱音が言う。
「聞いたで、全長四百メートル以上あるんやてな。こんなん隠れるとか無理やろ」
「見つからぬ」
ツクヨミはあっさりと言った。
「この船は、レーダーの波を返さぬ。衛星の目にはただの海面が映る。人間の世界の目から、わしらは消えておる」
「……それ、軍事機密どころの話やないで」
「うむ。じゃからお主らにも消えてもらった」
「ほな、八代さんとの連絡は」
「さっきの光。あれはどうやって」
佐紺は、八代の像が消えた空間へ視線を戻した。
「受け取るだけなら、危うくはない」
ツクヨミは、船の下を流れていく海へ目を落とした。
「八代の報せを、厳重に閉じた形でただ拾う。拾うだけならこちらの居場所は知れぬ。じゃがこちらから返すのは別じゃ。この船の在処から声を出せば、たちまち嗅ぎつけられる」
「やから時間差で離れた場所からこっそり、ってわけか」
「左様。海へ小さな器を放ち、遠くへ流れた頃合いにそこから発信させる。船とは切り離して、の。ゆえに八代へ返事を届けるには数日かかる。即座のやり取りはできぬ」
返せない相手から届く報せだけを受け取る。ミナトは光の八代の、誰とも合わなかった視線を思い出した。あの一方通行は、この船が生き延びるためのぎりぎりの形だったのだ。
「お主らを狙う者から隠れ、時を稼ぐ。その間にお主らが狙われずに済む道を探す。それが当面の方針じゃ」
「探すって、当てはあるん?」
「まだない」
「……またそうやって正直に言う」
「嘘をついても始まらぬ」
ツクヨミは三人を順番に見た。
「じゃが、これだけは約束する。お主らを一生この船に閉じ込めるつもりはない。必ず元の暮らしへ帰れる道を探しだす」
その声にはいつもの平坦さの中に、何か硬いものが混じっていた。
佐紺が静かに尋ねた。
「もう一つ、確認させてください」
その声は、畑は違っても仕様書の抜けを、一つずつ潰しにいくときの響きだった。
「その隠密は――我々を狙っている側にも有効なのですか」
ツクヨミはすぐには答えなかった。
波の音だけがしばらく続いた。
「……人間の目には、効く」
それだけ言ってツクヨミは、また海へ向き直った。
質問の半分にしか答えていなかった。
佐紺はそれ以上聞かなかった。聞いても答えは返らない、と判断した顔だった。だがその横顔は、自分の問いの残り半分――人間ではない目には効かぬかもしれぬ――という答えを、すでに自分で埋めているように見えた。
ミナトは手すりに肘を置いて、どこまでも続く海を見た。
世界の誰も自分を知らない、この海の上で。それでも一人だけ、自分を「みつけた」と言った者が、すぐ後ろに立っている。